源 氏 物 語 絵 巻

「ほぅ………」
最初にそう言ったきり、カミュは食い入るようにガラスケースの中を見つめている。
無理もない。 実に美しい平安絵巻が眼前に展開されているのだったから。

誰も知る源氏物語が書かれたのは平安時代中期、西暦でいえば1000年頃のことらしい。 登場人物の心理のあやを見事に書き綴ったこの作品の価値は極めて高く、同時代の世界のどこを見てもこれほど優れた文学は見当らないというから驚いたものだ。 あの有名なシェークスピアが生まれたのが1564年だからそれに先立つこと600年近く前にこの素晴らしい文学は生まれたのだ。
しかし、現代日本人にも評価の高いこの物語が再評価されたのは、80年ほど前にアーサー・ウェイリー(英)やサイデンステッカー(米)の優れた訳本が海外で紹介されて高い評価を受け、それに驚いた日本人が源氏物語を見直したという経緯があるらしい。 おそらく源氏物語の存在に昔から慣れきっていた日本人には、それほどのものとは思われていなかったのだろうが、海外で評価されて初めて自国の文化を見直すというのはどこの国にもあることだと思う。カミュの祖国フランスを除いての話だが。
そして、発表当初、ごく一部の上流貴族のために書かれたこの物語はさっそく評判を呼び、その後長い間にわたって読み継がれ、多くの写本や物語絵を生み出していったというわけだ。
いま俺たちが見ているのは、その多くの源氏物語絵巻の中の最高峰、国宝・源氏物語絵巻を現代技術を駆使して彩色・描線などを描かれた当時のままに蘇らせた完璧な復元模写というわけだ。
現存している絵は名古屋の徳川美術館に十四面、東京の五島美術館に五面のわずか十九面に過ぎない。 なにしろ描かれてから900年ほど経っているのだ。 その間に幾多の戦争、火災、地震などに見舞われて消えていったものが多かったのだろう、口惜しすぎるがそれはどの国の美術品も同じことだ。 十九面が残っているだけでも天恵とするべきなのだろう。

いろいろな機会に写真で見かける本物の国宝・源氏物語絵巻は、時の流れの中で剥落・褪色などの痛みがはなはだしく、描かれたときの面影はあまり残っていない。それでも人物の衣装の色目、趣のある風景や描写は素晴らしく、源氏物語の香りをよく伝えている逸品だ。
それを科学技術を駆使して当時の面影を蘇らせようというこの一大プロジェクトは当然カミュの注意を惹いた。
「ミロ! 横浜へ行ってくる!」
「……え? なんで横浜?」
「4月1日まで、横浜の美術館で 『 よみがえる源氏物語絵巻 〜平成復元絵巻のすべて〜 』 という展覧会がある。 ぜひ行きたい!」
のどかな日曜の朝、食事を済ませ、離れで茶を飲みながら昨夜のことなど思い返して一人ほくそ笑んでいた俺はカミュの突然の横浜行き宣言に驚いた。
きちんと正座しているカミュが見ているのは 『 新・日曜美術館 』 というカミュお気に入りの美術番組で、テレビの画面にはきれいな平安絵巻が映り、それはそれは華やかなのだ。
「ふうん! ずいぶんきれいだな! すると落窪でもこんな絵巻を見てたんだ!」
「描かれた当時の色や模様を目の当たりにできる絶好の機会だ。逃すことはできぬ。」
「ああ、いいよ、俺も少将がどんな暮らしをしていたか見てみたい。」
こうして俺たちの横浜行きはあっという間に決まり、今日こうしてカミュがうっとりと絵巻を見つめているというわけだ。

「衣装の質感が素晴らしい! それに実に繊細で、隅々まで細やかな神経が行き届いている。」
「ともかく優雅の一言に尽きるな! 超一流の貴族の暮らしなんだから当然といえば当然なんだが、それにしてもこの衣装の見事さはどうだ!」
「庭の植え込みも実際に描かれた当時はこんなに細かく描かれているとは! レントゲンや特殊撮影で浮かび上がってきたというから、今の我々が見ているこの絵巻は江戸のころの人々には想像もできないものだ。」
小声で話しながらゆっくり歩いて見ていくと、次々と現われる美しい絵巻に当時の人々の源氏に寄せる思いを知ることができる。 カミュはもう夢中で、ひたすら溜め息をつき、すぐそばに並べて展示してある国宝のデジタル写真と比較検討してやむことがない。
「あんまり夢中になるなよ、また引き入れられるぜ。」
「まさか、そんなことがある筈はない。」
「いや、わからんぞ?髪は長くてきれいだし、お前があの中に入ったら源氏が手を出すんじゃないのか?」
「髪は及第するかもしれないが、この蒼い目ではどうにもなるまい。いくら源氏でも手を出すとは思えぬから安心するがいい。」
「いや、眼はまったく問題ないね。」
「なぜ? 平安時代に蒼い目では、鬼か物の怪と思われても不思議はあるまいに。」
あっさりと言った俺にカミュが疑問の眼を向ける。
「見てみろよ、この世界では眼の色なんて関係ない♪」
源氏も女房たちも引目鉤鼻、すっとした細い線で繊細にあらわされていて、目の色などわかるはずもないのだ。
「なるほど、これは面白い!ほんとうに関係ないか、試してみる価値はあるな。」
「え?試すって?」
そのとたん身をかがめて絵巻を覗きこんでいたカミュの姿が消えた!

   まさかっ!!
   冗談じゃないっ、また絵巻の中に吸い込まれたのかっっ?
   それほど仏教説話でもない源氏の中に入ったからといって、いったいシャカに救い出せるのか?
   ともかくすぐに処女宮に………!

全身から血の気が引き、足が震えてくる。 ガラスケースに額を押し付けて蒼白になった俺がきびすを返したとき、目の前にいる人物とぶつかりそうになった。
「……え?」
そこにカミュが立っている。 さっきとなにも変わってはいない。
「お、お前、どうして……?!」
「お前の後ろにテレポートしただけだ。」
「なにっ?」
どうやらカミュは俺の反応を見て面白がっているらしく、怒るべきか笑うべきか一瞬判断に迷う。

   心臓が縮み上がったが、顔が引きつったのを見られたかな?
   怒るのは大人気ないし、せっかくの絵巻の印象が台無しになる……

一つ咳払いをして髪をかき上げた。
「あの中に行くんなら俺にも一声かけて欲しいね。 色目を使う源氏を押しのけて、本物の寝殿造りの御帳台にお前を抱きこんで几帳を幾重にも立てまわし、そば近くに侍って聞き耳を立てそうな女房共は遠くに追いやってから掌中の玉のお前を三日三晩 懐から離さずに舐めるように可愛がってやるよ。 物忌みと称して出仕もしない。 三日夜の餅も用意させよう!」
流れるようにこれだけ言うと、カミュがさすがに真っ赤になった。 伊達に落窪を読んでいるわけではないのだ。
「とはいっても、ここは平安じゃない。 でも今夜は、俺を驚かせた礼はたっぷりとさせてもらうからな♪」
絢爛豪華、色鮮やかな恋の絵巻はこの手の中にある。
絶句しているカミュを従えて俺は次の展示室に向っていった。






              
横浜のそごう美術館で復元された源氏物語絵巻を見てきました。
              まあ、その美しいこと!
              これを見て、ミロ様がなにも思わないはずがありません。
              絢爛豪華、情緒纏綿な恋の一夜って素敵だわ♪

                            そごう美術館 ⇒ こちら