翠 玉 白 菜 (すいぎょくはくさい) |
「まさかこんなだとは思わなかった。阿修羅じゃあるまいし」 「18時に来て90分待ちとは、聞きしに勝る実力だな。」 なんの実力かというと白菜の実力である。 ここは上野の東京国立博物館。2014年6月24日から始まった「台北國立故宮博物院展」にやってきたミロとカミュと美穂を驚かせたのは、展示品の中でも白眉の翠玉白菜を見るために並んでいる人の多さだ。 翡翠といえば美しい緑色のみが珍重されると思いがちだが、この翠玉白菜という宝物は白菜の緑の葉と茎の白い部分が実に見事に一つの翡翠の石で彫りだされているのが素晴らしい。 普段は台湾に行かないと見られない門外不出の宝物だが、今回は初めて海外で展示されるというのでたいへんな人気となり、連日の大混雑となっている。 「う~ん、どうする?90分待ちだぜ。開館は20時までだから白菜の列に並ぶとほかの展示品を見る時間がほとんどなくなるが。平日の夜なら空いていると思ったんだが甘かったな。出直すか?」 三人がいるのは正門前だ。18時というのに出て来る人とこれから入る人の数はたいして変わらないように見える。 「いや、はるばる北海道から来たのだし、我々はともかく、美穂は白菜の公開期間中はもう休みが取れぬという。今日見るべきだろう。」 「ほんとうに申し訳ありません。私のためにご迷惑をおかけしてしまいまして。」 二人の横で美穂が深々と頭を下げた。 「私たちもあの白菜は見たかったのだから気にすることはない。」 「そうだよ。俺たちは暇だけどもう一度来るのは手間だから、いま白菜を見たほうが都合がいいし。」 「そうでしたらよろしいんですけど。」 実際にはテレポートで行き来すれば恐ろしく早いのだが、美穂の手前そうも言いかねる。それにしても黄金が白菜白菜と連呼するというのは珍しい光景だ。 この展覧会では有名な白菜を見ようとする人でたいへん混雑することが予想されたので、白菜だけは本館の特別室で公開し、そのほかの展示品は平成舘で公開するという手法をとっている。 正門を通るときに一人一人に渡された注意書きを見ると、白菜を見る際の詳しい説明だった。白菜自体の説明は何一つ書いてない。さっと目を通したカミュが嘆声を上げた。 「ほう!これはよい!」 「つまり20時までに白菜の列に並べば、時間が過ぎても確実に見られるんだな。これならほかの展示品をゆっくりと見てから白菜に回ればいいんだし。」 そうと決まれば話は早い。三人は広い前庭の向こうに見える本館の前を斜めに横切って左手奥の平成舘に向かうことにした。 「あれが白菜の列のいちばん後ろだろ。あそこで90分とすると、中はそうとうだな。」 どっしりとした造りの正面玄関の外に伸びている列はたかだか10メートルほどでたいしたことはなさそうに見える。そういえば先ほど渡された紙の裏にはご丁寧に展示室内の行列の並び方までわかりやすく図示されている。 「さすがは日本だな、微に入り細に穿ってる。ここまで丁寧に説明する国はほかにあるまい。」 「事前に説明しておいたほうが納得が得られるのだろう。」 「あのテントは、あそこまで行列が伸びる可能性があるということでしょうか?」 美穂が本館の壁に沿って平成舘のほうに長く伸びている白いテントの列を指差した。 「たぶんそうだろうな。雨が降ることも有り得るし。明日から土日だから、ピーク時にはあれでも足りなかったりして。」 「それでしたら今日の90分はまだ短いということですわね。」 「こないだの阿修羅なんか、3時間待ちがあったっていうからな。ほんとに日本人の美術好きには感心する。」 その阿修羅といえども地元の奈良興福寺宝物館ではごく普通の存在だ。修学旅行生に代表される団体客がやってくるときは阿修羅像の前はたいへんな賑わいだが、その人波が去ってしまうとあたりはまた静寂を取り戻す。 「阿修羅と白菜だったらどっちが強いかな?もちろん闘うんじゃないぜ、集客力の話だ。」 ミロが補足したにもかかわらず、三人の頭の中に阿修羅と白菜が対峙する情景が浮かんでしまい思わず笑いが洩れる。 「阿修羅は戦いの神だそうですから白菜に負けるとは思えませんわ。」 「比べること自体が無礼なような気がするが。」 「だから集客力の話だよ。万が一戦ったら阿修羅は小指一本で白菜を跳ね飛ばすと思うが。」 そんなことを話しながら平成館に入場した三人は展示されている数々の宝物を見て歩き、その美しさと細工の見事さにため息をついた。 「昔の中国の皇帝ってすごかったんですね。想像もできない贅沢さですわ。」 何千年も前に鋳造された青銅器の大盤にも圧倒されるが、精緻を尽くした美術品も魅惑的だ。 「ここに展示してあるものも素晴らしいが、世界的に有名なのはやはり翠玉白菜だろう。緑と白の絶妙なバランスが奇跡のようだという。」 いや、お前のほうが生きて歩いている奇跡だよ 古代中国皇帝の絶大なる権力をもってすれば、国中にお触れを出して最高の品質の翡翠を見つけることはたやすいだろうが、 お前のような天賦の美質を兼ね備えた人間が生まれて しかも俺の前に現れるなんて、全宇宙をくまなく探しても有り得ない奇跡だと思うな、俺は と思いはするものの、今日は美穂がいるのでミロもそんなことはおくびにも出さない。 「ではそろそろ白菜に移ってもよいだろうか?」 「そうだな、そろそろ空きはじめたかもしれない。」 しかしその予想は甘かった。 「おい、さっきとなにも変わっていないぜ。」 翠玉白菜の行列は相変わらず90分待ちである。 きっとみんな同じことを考えたに違いない。おとなしく並んだ列はそれでもじわじわと前に進み、やっと白菜を展示している部屋の中に入った。 前方の高いところに白菜の来歴や特徴を説明している映像が流れ、5分ほどで情報を得ることができるのは便利なものだ。 「ふうん、皇帝と結婚するときの嫁入り道具ってわけね。」 「いくら極上の翡翠とはいえ、それが白菜を摸しているというのは面白い。」 「文化の違いだな。ギリシャでは考えられん。」 展示室内を蛇行している行列は思ったよりも早く進み、ついに白菜が見えるところまでやってきた。なにしろ混雑しているので、立ち止まっての鑑賞はできるはずもなく、上方からの明かりに照らされているガラスケースの周りをしずしずと回って外に出るしかないのだが、高さ19センチと思ったより小ぶりの白菜の艶やかな美しさは目に焼き付けることができた。 かくも美麗な品を掌中の珠のように愛でていた佳人はどんな運命を辿ったのだろうか。 「ほんとに白菜の色とそっくりですのね!緑と白の配分が本物としか思えません。」 「葉の上にキリギリスとイナゴがくっついている遊び心も好きだよ。」 「美しいものは洋の東西を問わずよいものだ。」 口々に感想を言いながらすっかり暗くなった本館の前庭を通って振り返ると行列の最後が中に吸い込まれていくところだ。 「さて、それじゃ羽田に行ってと。着くのはかなり遅くなるな。」 パチンと携帯を開いたミロが、えっ、と声を上げた。 「どうした?」 「まずいな。気流が悪くて飛行機が飛ばないらしい。」 「えっ!どうしましょう!」 6月の北海道は夏の繁忙期に入り、宿の業務も一段と忙しい。それでもやっと暇を見つけて念願の翠玉白菜を見に行くことになった美穂が慣れない東京にドキドキしているのを聞き付けたミロとカミュが案内役を買って出たのはつい先日のことだ。 「まあ!お客様にそんなことしていただいては申し訳ありませんわ!」 「いいんだよ、ちょうど俺たちもあの白菜を見たいと思っていたところだし。」 「でも来月まで休んでいるスタッフがおりますので東京には泊まれませんの。とんぼ返りですから慌ただしくてますます申し訳ありませんわ。」 それならさらにエスコート役がいないと慣れない東京で美穂が困るだろうと考えた二人は辰巳にもわけを話してやっと美穂を納得させたのだ。 ところがあてにしていた最終便が飛ばないという。 「どうしましょう?お休みは今日一日しかいただいていませんし、明日の朝の業務が回らなくなってしまいます。」 おろおろとした美穂が青ざめた。こんなことなら東京になどくるのではなかったと考えたのは明らかだ。 どうしましょう! 帰れなければどこかホテルに泊まらなければならないけれど 東京のことなんてなにもわからないからミロ様とカミュ様にお願いするしかなくて またご面倒をおかけすることに! あぁ、なんてことかしら… 困ってしまった美穂がうろたえていると、携帯をしまったミロが、 「しかたないな。やっぱりあれしかないかな。」 「それしかあるまい。運航が再開するのを期待するのは楽観的にすぎる。」 「それじゃ決まりだな。ええと、もう辰巳さんやほかのスタッフにはお土産は買ったんだよね?」 「え?はい、ここに買ってありますけど、それがなにか?」 美穂が手に提げていた紙袋をちょっと持ち上げた。店が閉まる前にと、上野駅に着いたときに東京ラスクを買ってある。 「じゃあ、これから帰るから驚かないで。」 「はぁ?でも飛行機は飛びませんし……」 なんのことかわからなくて当惑している美穂が驚いたのは次の瞬間だ。ちらりと辺りを見回したミロが片手でしっかと美穂を抱き寄せた。 「えっ!あの、ミロ様!」 「ちょうど人目もない。じゃあ、お先!」 次の瞬間、美穂の周囲は一変した。背の高い街灯に照らされていた上野の森がいきなり真っ暗になってなにも見えなくなったのだ。 いったいどうしたのかわからないでいる美穂の耳にミロの落ち着いた声が聞こえた。 「大丈夫。いま明かりをつけるから。ちょっとそのままでいて。」 暗闇の中でミロに手を放された美穂が恐怖を感じようとした瞬間、急に周りがあかるくなった。 「あら?ここって…」 見慣れた離れに立っているのがわかって唖然としている美穂の手をミロが引っ張った。 「カミュが来るから、ちょっとこっちに来てくれるかな。そこにいるとぶつかる。」 「え?……あ、はい!」 1メートルほど移動して振り返るとそこにはカミュが立っている。 「ではあの、これがテレポートなんですの?」 「うん、そう。靴を履いているのが難点だけど、ちょっと便利だろ。」 美穂はおおいに共感した。 そのあと、三人でフロントに行き、予想外に早く戻ってきたことに加えて、やってきた方向が離れであったことに不審そうにしている辰巳に、 「飛行機が飛ばなくなってしまったのでテレポートで帰ってきました。」 とカミュが簡単明快な説明をして納得させた。 「じゃあ、おやすみ。今日はおつかれさま~」 「はい、ほんとうに今日はありがとうございます。」 深々とお辞儀をする美穂に手を振って一日が終わった。 「え~っ、まだ全然終わってないだろ!これからカミュと風呂に入って、そのあとふとんに入って、」 「ミロ!恥ずかしいことを言ってくれるな!」 「平気だよ、どうせ読者しか聞いてないんだから。それにきわめて自然な流れだと思うが。」 「しかし、慎みというものが…」 「いいから、いいから。」 そうしてミロは翠玉白菜よりもさらに美しい宝をじっくりと鑑賞したのだった。 ミロ様のお誕生日にアップした話です。 どこもお誕生日には関係ないけれど、そんなことは気にしない。 はっ! ということはサイト開設11周年ということに! 光陰、矢のごとしですねえ。 「え?好淫、矢のごとし?」 「違うっ!」 ミロ様ったら… 翠玉白菜は → こちら |
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