般 若( はんにゃ)

「ところで、どうして酒が般若湯 ( はんにゃとう ) なんだ?」
シャカが帰っていってほっとしたらしいミロが、その日の夕食の席で疑問を口にした。 今夜の二人は差し向かいで青い江戸切子のちろりを使っている。
「お前に教えてもらったことがあったのをふっと思い出して言ってみたんだが、般若と酒となんの関係があるんだ? 恐ろしい顔をしているが、仏教のほうの神なのか?」
般若といえば、しばしばお目にかかる恐ろしい形相をした面で、額に二本の角が生え、口をかっと開いてこちらを睨みつけているのはミロもよく知っている。
「あれは男なのかな?それとも女か?とっても日本的な面だから、般若湯って聞いたときになんの疑問も持たなかったが、よく考えてみると寺で飲む酒とあの恐ろしい面となんの関係がある?」
ミロの疑問はもっともだ。
「般若をあの鬼のような顔の面だと考えると疑問に思うのも無理はないが、本来の般若の意味は別にある。」
「え?そうなの?」
「仏教でいう般若とは、さまざまな修行の結果得られた悟りの智慧 ( ちえ ) ということで、きわめて深い意味を持つ。 自らの心の中から生ずる知恵とは違い、智慧とは仏から来るものだという。 私もシャカから聴いたことがあるのみで詳しくは知らぬ。」
「で、酒がなぜ般若湯になるんだ?」
青い硝子の杯を持ち上げてカミュのほうを透かしてみると、大吟醸の中で金箔がゆらりと舞った。
「戒律で飲酒を禁じられている僧も、そこは人の子だから酒を飲みたくなるときはあるのだろう。 といって表立って酒と言うのは外聞をはばかるので、隠語として般若湯と言い習わしているということだ。 般若湯とはすなわち、 大いなる悟りの智慧を得ることのできる湯、ということになる。寺の中で酒を指す言葉に般若湯を当てるのはなかなか気が効いていると思う。 洒落の一種ではないか?」
「ふ〜ん、そう聞くとわかるな。 あれ?そうするとなんであの面が般若っていうんだ? 智恵とか悟りとは無関係の、浅ましい妄執に捕われたような顔に見えるが?」
「それが、私も調べてみて驚いたのだが、あの面を彫ったのが般若坊という僧侶だったとか、」
「えっ?」
「もう一説では、日本の古典文学の源氏物語を題材にした古典芸能の能の 『 葵上 ( あおいのうえ ) 』 で、六条御息所 (ろくじょうのみやすどころ) の生霊が源氏の正妻の葵の上に取り付いて苦しめたときに、恨み苦しみの果てに悟りを得るという筋書きのものがあり、最初に現われるときは美しい貴族の女性の顔なのだが、やがて妄執に取り付かれたときにはあの般若の面をかぶるのだそうだ。 最後には妄執から救われて悟りを得るので、あの面を仏教の大いなる智慧である般若と呼ぶようになったとも言われているが、真偽のほどは分からない。 」
「とすると、やっぱりあの面は女なのかな?」
「どうもそうらしい。 もう少し飲むか?」
カミュの白い指がちろりを持って、差し出すミロの杯に注ぐ。 流れるような動作は無駄がなく、能の所作のように美しい。
「女が嫉妬に狂うとああなるのか。」
「いや、必ずしもああなるとは限るまい。」
必ずも何も、あんな恐ろしい形相になるはずはないし、ましてや角が生えるはずはない。 あれは心の中に潜む鬼を表現しているのだ。
「男は、嫉妬してもああはならないぜ、絶対だ。」
「妙に自信があるのだな。」
「じゃあ、お前だったらああなる可能性があるのか?」
「え? そんなことはない。」
「ほら、お前だって自信があるじゃないか。」
「私は嫉妬はしないから。」
「ふうん………どうして?」

   おいおい、嫉妬しないということは、俺がほかの誰かに色目を使っても気にしないということか?
   そいつはちょっとクール過ぎるんじゃないのか?
   嫉妬も恋のスパイスだと思うんだがな

「私を嫉妬させるような行為をお前がするはずはない。」
「あ…」
ミロが真っ赤になった。 仮定の話さえあっさりとしりぞけるカミュは、ほんとにミロを信頼しているのだ。
「うん、その通りだ。 俺って、お前一筋だから。 もう一杯貰おうかな。」
照れ隠しには飲むに限る。
「あまり飲みすぎぬほうがよい。」
「大丈夫。 これは般若湯だから妄執に囚われたりしない。 理性をもってお前を抱いてやるから安心して。」
「そんなことを……」
ちろりに手を伸ばしたカミュの頬が赤く染まる。 ミロが楽しそうに笑った。





               能 「葵上」 画像 ⇒ こちら
                  般若の面 ⇒ こちら

                  能 「葵上」 の、般若の面をかぶっているときの衣装の柄を 「 鱗 (うろこ)」 といいます。
                  蛇の鱗をデザイン化したもので、日本では厄除けとして着物の柄にも使われています。
                  このページの壁紙も鱗模様です。
                  詳しくは こちら



収蔵庫の 「十二夜」・シャカ編を受けています。