初 夢
聖域で初めてカミュに会ってからまともに口をきいてもらえるようになったのはずいぶん経ってからだった。
なにしろカミュは言葉がわからなかったのでほんのちょっとしたことを伝えるのにも一苦労で、むろん、カミュから話しかけられたことなどあるはずもなく、そう、半年も経ったころになってやっと日常のことを話せるようになったのだ。
「今日は暑いね。」
そんな簡単なことを話しかけられたのだったと思う。 俺は嬉しくて嬉しくて、どきどきしながら、
「そうだね。」
とか言ったような気がする。
一度話してしまえばあとは早かった。 カミュと俺を隔てていた言葉の垣根は取り払われて、あまりわからないながらも会話が交わせるようになってきた。 俺はずっとギリシャ語の中で暮らしてきたからカミュの味わった苦労は想像するしかないのだが、誰一人知るもののない聖域で聖闘士になる訓練を受けながらしかも言葉がわからない、これはほんとうに大変だったのだろうと今にして思うのだ。
そうして俺はカミュを好きになり、やっと手を握り、そうこうしているうちにカミュはシベリアに行ってしまい、俺はカミュに告白しておかなかったことをどれだけ悔やんだか知れはしないのだ。 独りでカミュを思いながらついにシベリアに行くことができるようになり、それでも弟子を育てているカミュにはなにも言えなくてそのまま時は過ぎ、ようやくカミュが聖域に戻ってきてから機会を捉えて想いを伝え、避けられながらもようやくキスをして………。
そうだ、それから、俺はカミュを抱いたのだ。
「カミュ………俺の気持ち、わかってくれる?」
「ミロ………あの………私は……」
「いいんだよ、なにも言わなくても………」
「ミロ………」
「黙って俺に抱かれてほしい………お前を愛させて………」
そうして俺は天蠍宮でついにカミュを抱いた。 初めて触れる首筋も肩も、それはそれは白くて柔らかくて丸みを帯びて、これが厳しい修行を経てきた黄金の身体かと、何もかもが初めての俺を歓喜で舞い上がらせた。
「カミュ、カミュ………なんて素敵なんだ! こんなに綺麗な身体で俺を待っていてくれたのか!」
震える身体を抱きしめながらはやる心を押さえ込み、俺は長い間憧れていたカミュを俺のものにすべく、そっと手を進めていった。
「あ………そんな…」
か細い声が初々しくて、数え切れないほどこの瞬間を頭の中でシミュレーションしてきた俺も嬉しすぎる現実に鼓動が高まるばかりなのだ。
そしてついに俺は………。
………えっ!!これって………この胸って……!
「カミュ、お前………!」
「今まで黙っていてすまぬ………女の身でありながら黄金の名を戴いているのは私だけで、みんなを欺いているのがどれほど苦しかったことか知れぬ!
ミロ………私が………私が女であっても愛してくれるか?」
密かに学習してきた男の愛し方を今の今まで頭の中で反芻していた俺のスタンスは根底からくつがえされ、愛の対象がいきなり女になったことに茫然とする。
女! あのカミュが女っ??!!
それはたしかに男にしては美しすぎるとは思っていたが、まさか、水瓶座の黄金聖闘士、アクエリアスのカミュが女だったなんて!
ええとっ………こういった場合の女の愛し方って……?!
………なにもシミュレーションしてないっ!
この聖域でそんな恥ずかしいことなんか、一度も考えたことはないっ!
「ミロ………あの……」
はっとしてカミュを見ると、綺麗な目を潤ませていまにも泣きそうだ。
「やはり私が女ではだめなのだな………すまない……いちばん大事なお前の信頼を裏切った……」
「ちがうっ、そんなことはない! 男とか女とか、そういうことじゃなく、お前がお前だから好きなのだ!
アクエリアスのカミュは俺にとって唯一かけがえのない存在だ! お前が、好きだ!
誰にも渡さない! お前と一緒に歩いていきたい!」
「ミロ……私もお前と…」
カミュが俺の首に手をまわしてすがり付いてきた。 ふっくらとした柔らかい胸が押しつけられて、そんなことを想像もしなかった俺の頭に血が昇る。
ええと………このあと、どうすりゃいいんだ? 女のことなんて、なんにもわからないっ!
デスがなにか言ってたときに本気で聞いてればよかったが、無関係な話だと思って気にもしなかった!
落ち着けっ、落ち着くんだ、ミロ!
なんとかなるっ、男でも女でも愛情があればきっと大丈夫だ!
突然の急展開に胸の鼓動はドキドキ、目先はクラクラ、負けそうである。 そのつもりで見れば、なるほど、男にしてはなめらかすぎる白磁の頬、珊瑚の唇、しなやかな手足、細い腰、吸い付くような柔肌、どれもが明らかに男のものではありえない。 今までは優美華麗な聖衣に隠れていてわからなかったのだ。 いや、俺の目が節穴だったのだろう。
新しい発見に当惑しながらそれでもあれこれと試行錯誤しているうちに、驚きよりも喜びがまさってきたのも当然だ。
女ということは、もしかしたらそのうちに子が生まれたりしてっ?!
名前はなんにしよう?
カミュが育児にかかっている間、宝瓶宮の守りはどうする? 俺が兼任してもいいのか?
ほかの奴らはなんと言うだろう?
子育てはアフロが手伝ってくれそうな気がするが。
ともかく、ああ、なんて素敵なんだ!
カミュが女なんだから正式に結婚して夫婦とか?
夫婦っ?! ドキドキドキドキ………それって、教皇の裁可は下りるのか?
あれっ? 女は仮面をつけることになってるが、みんなに素顔を見られてたカミュの場合はどうなるんだ?
顔を見られたら相手を殺すか愛するかっていう決まりはこの場合は有効なのか?
だいたいあの決まりは無茶すぎるっ、俺のカミュはぜひとも除外してもらわねばならん!
俺だけを愛してもらって、ほかの奴らはほうっておくように計らってもらわねば!
………うわっ、手が胸にさわった………ああっ、血圧が上がるっ!
「ミロ、ミロ。」
「う〜ん………いいとも、お前のためならどんな困難も俺がしりぞけて…」
「ミロ、困難なら私にもしりぞけられる。それよりも早く起きたがよい。」
「なにも遠慮しなくても………え?」
はっと目を開けるとカミュが覗き込んでいる。
「もうすぐ夕食の時間だ。 あまり長く寝入っていると夜に眠れぬことになる。」
「あ………」
夢のカミュよりはきりっと引き締まっていて、口調も違えば声もいくぶんか低い。
カミュの向こう側には床の間や屋久杉の天井板なんかが見えていて、さすがにここが聖域ではないことが認識される。
「ええと………俺は…………あれ?」
「昼食のあと一寝入りするといって横になっていたのだ。 少し飲みすぎたのではないのか?」
「いや、そんなことは………いや、そうかも。」
頭の中でカミュのあまりにも艶っぽすぎる姿態がぐるぐると回り、夢と現実とが入り混じる。
夢………だよな………ここは、北海道の登別で………
俺とカミュはまさしくアテナの黄金聖闘士で………でもって、カミュはやっぱり男で………
頭をはっきりさせるために内風呂に入ってから夕食に行く。 回廊を歩きながら考えた。
カミュがたとえ女でも俺の心に変わりはない。 それにはたしかに自信があるが、もしも俺が女だったとしたらカミュはいったいどう思ったのだろう?
カミュがそんな夢を見たら、俺をどうしたのだろうと気にならずにはいられない。
「なぁ………もし俺が女で、お前のことを好きだと言ってたら、どうしてた?」
「え? おかしなことを言う。 そんなことは考えもしなかったが。」
「それはそうだろうけど、もしもの話だよ。 俺が女でも好いてくれた?」
「お前が女………。」
まじまじと俺を見たカミュがくすっと笑った。
「なにがおかしい? 女っぽくないからか?」
「そうではない。 お前が女なら、さぞかし明るい性格の行動的な美人が出来上がっただろう。 すると、おそらく今のお前がそうであるように、誰からも好かれるはずだ。 そして女であるからには、好かれるだけでなく恋愛の対象として見られることが考えられる。
お前にいちばんに恋を打ち明ける男は誰だろうと思ったのだ。 どう考えても私ではない。
そういう性格ではないからな。」
「そんなことは俺は知らん! そうじゃなくて、俺が女であることを隠していて、お前に恋を打ち明けたときのことを言っている。 やっぱり、ショック?」
「それは………もちろん驚くだろう。 しかしそれよりも、女の身でありながら厳しい修行に耐え抜き、私たち男に伍して一歩も引けをとらぬ黄金聖闘士であることに感嘆する。」
「感嘆は嬉しいけど………で、受け入れてくれる?」
カミュが少し頬を赤らめた。
「私はお前が男だから好きになったのではない。 お前がお前だから好きになったのだ。
だから、お前が女でも受け入れたことだろう。」
「うん……」
なんだかドキドキしてきて顔が赤くなる。 黄金聖闘士が全員男なのは偶然に過ぎない。
もっともふさわしい資質を持って生まれたものがたまたま男だっただけの話だ。 現に白銀聖闘士には女がいて、立派にその職責を果たしているのは周知の事実だ。
………待てよ?
俺が女だとしたら子供を産んでる可能性があるが、ということはカミュが…っ!
俺がそのことに思い当たったとたん、カミュも同じことを考えたらしい。
「あの………ミロ………私は…」
絶句したカミュが真っ赤になり、うつむいてしまった。
そうなのだ。 人とくだけた話をしないカミュは、男同士のことはおろか男女のことにもまったくの門外漢だったに違いない。
たまたま俺が恋を打ち明けて、デスからいろいろと聞かされていた俺が一方的に攻勢をかけたから今の関係ができあがったのだ。 女の俺が告白をしてカミュが受け入れてくれたとしても、それから先、どうにもならなかったのではないのか?
「もしかして………プラトニックラブとか?」
「その可能性が高い………というよりもそれしか考えられない。」
「う〜〜〜ん…」
男同士がプラトニックなのはわかるが、男女でプラトニックっていうのはありうるのか?
しかし、知らない者にどうしろと?
いくら俺でも、女の身でカミュにあれこれと指導するとは思えない。 といって、女に告白されたカミュが巨蟹宮に駆けつけてノウハウを教えてもらうというのも有り得ない。
一切の性教育がなされなかった修行時代。
シベリアではさらにそっちの方の話題から完璧に切り離されていたカミュ。
雑誌もテレビもなにもない聖域。
俺って、子供を産んでなさそう………
「どっちかというと、私が女の方がずっとうまくいっていたことと思う。」
「ええと………ともかく俺は男なんだし、お前も男なんだし、なにも気にすることはないな、うん!」
食事処のいつもの席に着き、正月の祝いの膳を前に大吟醸を注ぐ。
「新年なんだから、お前も少しは飲めるだろ。」
「うむ、いただこう。」
盃の中に舞う金箔が初春のめでたさを醸し出す。
「初夢って、元旦の夜に見る夢のことなんだろう?」
「そうだ。 一富士二鷹三なすびと言って、それを夢に見るのが縁起がよいそうだ。
江戸時代の頃の一日の始まりは夜中ではなく夜が明けたときとされていたので、元旦の夜に見る夢が初夢ということになっている。」
「すると、さっき夢を見たんだけど、あれが俺の初夢ってことかな。」
「新年になって初めての夢ゆえ、それが初夢だろう。 で、どのような夢を?」
「それが嬉しいんだか、悲しいんだか、よくわからないんだ。 あとでゆっくりと話してやるよ。」
頷いたカミュが大吟醸をわずかに飲むと金箔が唇に貼りついた。
「カミュ、ここのところに金箔が。」
「あ……」
指し示してやると、そっと舌で唇を舐め、それでも取れないので指でつまもうとするのだが、まだ取れない。
「しかたないな、取ってやるよ。」
「ん…」
テーブル越しに手を伸ばして唇の端に貼りついた金箔をつまんでやった。 カミュが頬を赤らめる。
「どちらかというと………私が女の方がむいているかもしれぬな。」
「ん………そうかも。」
指先についた金箔をさりげなく盃の縁につけ、ぐいっと飲んだ。 遠くから見ていた美穂が気がつかないことを神に祈ろう。
「俺とお前の子なら、きっと美男美女だったと思うぜ。」
「そうだな………きっとそうに違いない。」
やさしい目をしたカミュが銚子を持った。
夢をかなえるのもいいが、有り得ないことを夢見るのも悪くない。 ぐいっとあおった大吟醸が身体に染み渡っていった。