ほおずき市


地下鉄銀座線の浅草駅で降りて地上へと出た二人の足は金龍山浅草寺 (せんそうじ) へと向かっている。 毎年七月九日と十日は浅草寺の境内でほおずき市が開かれ、たいそうな賑わいとなるのだ。
しかし、初日が土曜日ということもあり、予想外の人出に敏感に反応したのはミロである。

「おい、たいへんな混みようだな! あまりそっちに行くな、人にさわられるっっ!!!!」
「なにを大袈裟な。 これほどの混雑であれば、多少は人と接触するのもやむを得ぬ。」
「だめだっ、大事なお前が他人にさわられるのは許しがたい! 服の上からでも、俺は看過できんっっ!!!」
「気にしすぎだ。 それではせっかくのほおずき市を見ることさえできぬではないか。」
「それなら聞くが、お前、聖域でもアテネでも、この日本でもいいが、俺以外の人間にさわられたことある?むろん、服の上からだぜ。 酒を飲んで意気投合したり、雑踏で押されたり、電車で隣り合って座ったりしたときの話だ。」
「それは………ない。」
「だろ? お前は今までにほかの奴らの酒に同席しても、背筋を伸ばしてグラスに唇を付けるだけで一滴も飲まんから、誰もお前に触るなんてことはない。 デスマスクなんかが呑むたびに誰かにかつがれて巨蟹宮に帰るのとは対照的だ。 それに街にも滅多に下りないから雑踏とも無縁だ。 もっともアテネにはこの東京みたいな雑踏はあったためしがないが。」
唯一アテネに雑踏が存在したのは去年の8月のアテネオリンピックだが、そのときの二人はすでに日本に滞在していたので、どのくらい人が押し寄せたかは話に聞くだけなのである。
「だいたい俺たち黄金聖闘士には、雑踏なんてふさわしくない。 この日本でこそ、普通の人間と変わらん暮らしをしているが、いったん聖域に帰れば、俺たちが頭を下げるのはアテナと教皇だけで、あとはすべて俺たちに畏敬の念をもって接してくるんだぜ。 どこに行っても俺たちの前に道は開かれ、すべての扉は俺たちを迎え入れるためにのみ存在する。 いいか、考えてみろ、そんなところにいるお前がだな、雑踏に揉まれて、どこの誰だかわからん人間に背中を押され、肩をぶつけられ、前に進もうと思っても牛歩の歩みしかできん状況に耐えられるのか? 横で見ている俺にも耐えられんが、お前だってそんな状況は嫌だろう?」
「それは嫌だ………。」
「当たり前だ!」
ミロは得たりとばかりに頷いた。

   俺の大事なカミュに、たとえ服の上からとはいえ指一本触れさせてなるものか!
   この俺でさえ、握手をするのに何年もかけているのだからな。
   右も左もわからなかった子供の頃はいざしらず、
   物心ついてからは、30センチ以内に近寄っただけでその神々しさに目が眩みそうになったものだ!
   そのカミュに一般大衆が触れるなど、百万年経っても有り得んっっ!!!

できるものならまわりの人間すべてにリストリクションをかけて動きを止めたいと思うミロである。
「では、どうすればいいのだ? それでは浅草寺に一歩も近づけぬことになる。 せっかく浅草まで来たのに、ほおずき市を見ないで帰るというのか?」
「ふっ、安心しろ、お前にもとっくにわかっているだろうが、もうすぐ雨が降る。」
なるほど、見上げた空は鉛色の雲に覆われ今にも雨の雫が落ちようとしているのだ。
「雨が降れば傘を差す。そうすれば、互いに濡れまいとして、自然と他人との距離があくものだ。 傘を差しているのに、隣の人間と肩が触れ合うことはないからな♪」
「あ……なるほど!」
「さらにいいことには」
ミロは満面に笑みを浮かべて、駅の売店で二種類あるうちの高いほうのジャンプ傘を購入した。
「急の雨なので傘を買う人間が多いが、よほどの大雨でない限りは人数分の傘を買うことはない。 二人なら一本の傘に入るのが普通だ。 つまり、俺とお前も一本の傘に肩を寄せ合って入っていけるってことなんだよ♪」
そう言われてあたりを見回せば、なるほど、二人で一つの傘に入ってゆく日本人が多く、しかも他人の傘の雫を気にしてか、傘と傘の間もやや隙間があるくらいに歩きやすくなっているではないか。
「さあ、行こうぜ! こういうのを日本じゃ相合傘っていうんだそうだ♪」
ミロに腕を引っ張られて少々気恥ずかしいと思ったカミュだが、周りの日本人は傘を差す者も差さない者も、みな自分がいかに濡れないようにするかに気を取られていて、他人のことなど気に掛けるものはいないのだ。
「なるほど……」
「ねっ、俺の言うとおりだろ♪」
思わく通りにカミュとの相合傘を実体験できたミロは、至極ご満悦である。

「ああ、ここが雷門だ!」
「ほう、これは……提灯だろうか?ずいぶん大きいが。」
右手に木造の大きな門が見えて、京都の南禅寺や知恩院の三門よりははるかに小さいとはいえ、なかなかに立派な造りが二人に声を上げさせる。
呆れるほど大きな提灯を見上げながら通り抜ければ、そこは仲見世、浅草でも筆頭のにぎやかな通りなのだ。
「ふうん♪ なんだか面白そうなものを売ってるじゃないか! おい、あれを見てみろよ♪」
「ああ、これは煎餅だ! ほう、一枚一枚 手で返して焼いている。 」
「いい匂いだな、みんな買ってるから俺たちもお相伴にあずかろうぜ♪」
「……え? あの……私は……」
「いいからいから♪ こういうのが旅の醍醐味なんだよ!」
「醍醐味とは、ちょっと違うと思うが。」
日本に来ていろいろな言葉を覚えたミロだが、お相伴とか醍醐味というのも最近の得意なのだ。
「一枚100円っていうのは高いような気がしないか?」
「奈良の鹿せんべいは10枚で150円だが、質量を考慮するとどちらが高いとも言えぬな。」
「人間と鹿を同列に考えるなよ。 おっ、香ばしくていいじゃないか♪」
笑いながら紙袋に入れてもらったせんべいをかじったミロは嬉しそうである。

「あれっ、また、なんか焼いてるぜ♪」
濃い目のきつね色の可愛い形の菓子らしいものが、焼くそばから飛ぶように売れてゆく。ミロが見つけたのは浅草名物の人形焼なのだ。
「ああ、これが人形焼に違いない。」
「人形焼って、美穂に頼まれたやつのことか?」
「うむ、形状もこの通りだ。」
「形状って………鳥みたいなのはなんとかわかるが、あとのは、なにがなんだか分からんな?」
人の後ろからガラスケースの中を覗き込んだミロは首をかしげた。よほどの年代物の焼型を使っているのか、デザインが判然としないのだ。
「これは、鳩・五重の塔・雷門の提灯・雷公の4種類を模したものだ。そうは見えぬか?」
「う〜〜ん………鳩以外はあまりに日本的すぎて、一目見て判別できるお前の方が俺は不思議だよ。 あの竹の子みたいに見えるのが五重の塔ってやつか? まあいい、早く買おうぜ!」
人形焼は二口で食べられるほどの大きさだが、そのほかにもっと小さめの種類もあるのに気付いたカミュが英語で質問すると、店の奥から若い職人が出てきて、大きいほうはあんこの入った 『人形焼』、小さいほうはあんこのない 『カステラ焼』 であると教えてくれた。
「ふうん、英語が通じるんだ!」
「ここ浅草には外人客も多いゆえ、英語の表示も多い。 いかにも外国人観光客向けの店もある。」
人形焼とカステラ焼の両方を買ったカミュが指差す先を見ると、龍や富士山をデザインした赤や紫の派手なキモノが展示されており、それをアメリカ人らしい数人が珍しそうに見ているところである。
「もっとも、私はあのような柄は好まぬが。」
「ああ、俺もだ。 西陣もいいが草木染みたいな渋いのもいいな。 俺の好みとしては、お前にしっとりした江戸小紋なんかを着せて、細腰にきゅっと締めた帯を、こう、くるくるっと引いてほどいてだな…♪」
「あ! 浅草寺が見えてきた! ほおずきがあんなにたくさん♪」
仲見世を通り抜けたそこから先は浅草寺の境内で、ほおずきを売る店が所狭しと並んでいるのだ。 それまでの土産物の店を見慣れた目には緑一色に染められた視界が鮮烈だ。 小ぶりの鉢に植えられたほおずきは50センチほどの高さで、根元近くのほおずきの実は鮮やかな橙色に色づき美しい。 あいにくの雨だが、葉の緑が冴えてそれなりにいい風情といえる。 左右を見つつ物色しながら進んでゆくと、店の売り子が姿のよい鉢を手に持ちながら盛んに声をかけてくるのも威勢がよくてよいものだ。
「ふうん、すごい数だな!でも、なんでこの寺で、ほおずきなんかを売るんだ?なにか仏教と関係あるのか?」
「200年ほど前に、青ほおずきの実が病に効く、という噂が広がり、それが浅草寺の観音信仰と結びつき、このように盛んになったらしい。 ちなみにほおずき市の開かれる7月9日、10日は昔から四万六千日 (しまんろくせんにち) といわれており、この日に参詣すると4万6千日参詣したのと同じ御利益が得られるという。」
「なにっ?それはちょっと気前が良すぎるんじゃないのか?」
「仏教ではこのような大まかな表現が多い。十万億土、三千世界など、みなそうだ。そのほかチベット仏教では、マニ車というのがある。」
「マニ車? それはなんだ?」
「回転する筒の中に経文が書かれたものが入っていて、手で一回転させるとその経文全部を読んだのと同じだけの効果があるというものだ。 手に持てる大きさの携帯用のものもあれば、寺院の入り口などに設置された数メートルの大きなものもある。」
「するとぐるぐる回せば回すほど、御利益があるってわけか?」
「そういうことだ。」
「それですむんなら、こんなに楽な話はないな。 おれはてっきり地道に経文とやらを初めから終わりまで朗詠してるんだと思ったが。」
「現地のチベット人は、べつに、 一回だけマニ車を回して済ませているわけではない。 時間のあるかぎり、マニ車を回し続けて後生を祈る。簡便なようでも、その真摯な態度は注目に値する。」
「ふうん……案外、処女宮の奥にもあったりするんじゃないのか?」
「まさか!」
そんな話をしながら進むと、行く手にもうもうと煙を上げている大きな香炉らしきものが見えてきた。
「ああ、これが大香炉だ。 この煙を身体の具合の悪いところにかけると直るという言伝えがあるそうだ。」
「ふうん、俺はべつに悪いところはないがな。 完璧な肉体を誇っているのはお前もよく知っているだろう♪むろん、お前も完全無欠、究極の美の具現化だ♪♪」
「………そういう意味ではないと思うが?」
「いいんだよ、俺たちは仏教徒じゃないんだから、自分なりの解釈で。」

仏教徒ではないので本尊の聖観世音菩薩は拝まずに来た道をもどってゆくと、なにやら細い竹の棒の先に三角の紙をつけたものを、人々が争って買い求めているのに出くわした。
「あの三角はなんだ?」
「あれは雷除けのお守りだそうだ。四万六千日の今日と明日の二日間だけ売り出される。 江戸時代には赤い色のとうもろこしが雷除けのお守りとして人気があったそうだが、不作の年に一軒も店が出ず、大衆の要望に応えた形で寺が急遽作った三角のお守りがいつしか主役となったのだそうだ。」
「ふうん、すると、アイオリアのライトニングボルトを防御できるのか?」
「……いや、それは私には保証はできぬ。 これを身につけて、聖衣も防御もなしでライトニングボルトを受けてみればはっきりするが、ミロ、試してみるか?」
「いや、遠慮しておこう。」
笑いあった二人は、これも宿への土産に買うことにした。あとは、ほおずきを買うだけである。

「どれにする?」
「さて………どれも同じに見えるが。」
「どうせなら品のいいのを買いたいね。 おい、その店はよせ! 若い男が売ってるのは気に入らんっ!」
「私はかまわぬが。」

   俺がかまうんだよっ!
   傘に半ば隠れていても、お前の美貌は浅草はおろか関東一円の男を振り向かせかねんからな!
   夜目遠目傘のうちっていうくらいで、不美人さえも傘の中だと美人に見えるっていうじゃないか、
   お前がどれほど人の想像力を刺激するか知れたものではない!
   俺はお前を自慢しに来たわけじゃないし、用心するに越したことはないのだからな!

ミロが見つけた店は年配の婦人とその娘らしい二人が切り盛りしていて、ここもたいそうな繁盛振りである。
「ここがいいな!どの鉢もいい色をしてるじゃないか♪あそこに下がっているほおずきがよさそうだ!俺に任せろよ。」
さっそくミロが鉢を指差し 「HOW MUCH?」 というと、男衆のようななりで、きりっとキモノを着込んだねじり鉢巻の若い娘が、
「はいっ、きれいな金髪のお兄さん、一鉢お買い上げになりますっ!!」
とよく通る声で応じて、あたりの人々が一斉に振り返る。
「ほんとに、きれいだねぇ!」
「目の保養、目の保養♪ いや、いい日に来させてもらったね。 さすがは四万六千日だ♪」
「有りがたや、有りがたや!これも観音様のお導きに違いないねぇ、ナンマンダブ、ナンマンダブ………」
「ここで一句。 『 ほおずきや とつくにびとの 目に叶い 』 なんてえのは、どうだい?」
「そいつぁあ、いいねぇ。 よっ、色男♪」
「およしよ、おまえさん、外人さんが照れてるじゃないかね。」
「だって、褒めたくなるものはしょうがねえじゃねえか、まるで俺の若いときそっくりで、ほれぼれするね!」
「なにを言ってるんだよ、この人は。 はずかしいったらありゃしない。」
どっと笑いさざめく善男善女の輪の中で、なにがなんだか分からないが、はやし立てられているような気がして真っ赤になってしまう二人なのだ。
売り手の娘がにこにこしながらガラスの風鈴を指差し 「WHICH DO YOU LIKE?」と言っているのにようやく気付いたカミュが、あわてて花火の柄の風鈴を指差し、手提げ袋に入れられたほおずきと風鈴が、やっとミロの手におさまった。

「ふう、ほっとしたぜ! ほおずき一つ買うにも大緊張だ。 なにを言われていたんだと思う?」
「……さぁ?」
笑われてはいたものの、それはけっして嘲笑などではなく、親しみのこもったなごやかな雰囲気だったことはわかるのだ。
「なんにしても、浅草は面白い!そのうちまた来ようじゃないか。」
「暮れにはここで羽子板市があり、たいそうな賑わいだそうだ。 それに夏は朝顔市もよかったかも知れぬ。」
「ん? 」
「浅草ではないが、ここからもほど近い入谷の鬼子母神で毎年7月6日から8日まで朝顔市が開かれている。」
「ふうん、それが終わるとほおずき市ってわけか。 よしっ、来年の夏も日本滞在で決まりだ♪」
「えっ!そんなに長く?」
「今までつらかったことが多すぎたからな。 俺とお前の蜜月旅行には、期限なんて無粋なものはないのさ。」
傘の中でカミュが頬を染め、その濃さは色づいたほおずきにもまさろうというものだ。

   ほんとにきれいだな……傘の中のお前も閨の中のお前も、俺だけのものだぜ♪
   今夜は邪魔者が入らぬように、雷除けを飾って、抱かせてもらおうじゃないか♪

遠くに消えてゆく傘をほおずきの緑の波が見送っていた。




       少し日が過ぎましたが、浅草・ほおずき市のレポート (?) です。
       行った日はあいにくの雨でしたが、たいへんな人出で浅草の実力を示しています。

       言いたいことはみんなミロ様が語ってくれたので、もうなにも付け加えることはありません。
       暮れの羽子板市にも、ぜひお二人をご招待したいものです。
     
        ほおずき市⇒ こちら
        人形焼⇒ こちら
        チベット仏教・マニ車 ⇒ こちら と こちら
        雷除けのお守り ⇒ こちら