インフルエンザ

「ミロ様、カミュ様、インフルエンザの予防接種をお受けになりませんか?」
朝食のあとで美穂が二人に訊いてきた。
「インフルエンザとは?」
カミュが尋ねると、
「インフルエンザウィルスの感染でかかる風邪に似た症状の病気で、普通の風邪より症状が重いんですの。 熱は40度くらいまで出ますし、身体中が痛くなって、ひどいときには死ぬこともあるんですのよ。 ご年配の方や身体の弱い方は肺炎を起こしたりすることもあります。 毎年冬に大流行するので、この時期にあらかじめ流行しそうなウィルスの型を予測してワクチンを作り、希望者には予防接種をするんです。 わたくしどももお客様にご迷惑のかからないよう、従業員はみんな予防接種をしますが、ご希望でしたらこれから病院に行きますので、ご一緒にいかがですか?」
きっちりとしたカミュの性格を把握しているらしい美穂の説明は、そのカミュが問い返す余地もない見事なものである。

   ふうん、さすがに接客業のプロだな!
   あと足りないのは費用の説明だが、カミュは医学的な説明は求めても費用なんて世俗的なことは一切気にしない。
   対カミュバージョンとしては完璧な説明だぜ!

ミロが感心していると、
「私は接種しようと思うが、ミロはどうする?」
カミュが振り向いた。
「注射ねぇ………自分が風邪を引くとは思えんが。 まあ、病院まで付き合ってやるよ、その気になったら打つことにする。」
こうして二人が従業員五人と一緒に宿の車に同乗して登別の病院にやってきたのは、宿の業務が一段落した10時頃のことだ。
受付で美穂が手続きをしていると、すでに風邪の流行期らしく、待合室には真っ赤な顔をした子供を抱いている母親やらマスクをして咳き込んでいる老人やら、たくさんの人が待っている。
カミュが日経ジャーナルを読み始めたのでミロも写真雑誌のページをめくり、やっと順番が来たのは一時間ほどたったころだ。
そこは予防接種専門の診療室だったらしく、中からは小さな子供の泣き叫ぶ声が響いてくる。
あらかじめ体温計を渡されて自分で体温を測り二人で相談しながら問診表に記入していると、ドアが開いて大泣きしている5、6歳くらいの子供を抱えた母親が現れた。
「ほら、もう終わったから大丈夫よ!泣くのはやめなさい、お母さんの方が恥ずかしいわよ。」
と親の方も赤い顔をしながら待合室の方に行ってしまった。 そんなことが何人もくりかえされて、ようやく美穂やカミュたちの番になる。
まず美穂の名前が呼ばれたとき、ミロが、やっぱりやめると言い出した。
「え?せっかく来たのにか?」
「だって、よく考えてみたら、俺たちの血を聖衣の修復に使うんだから余計なものは体内に入れないほうがいいんじゃないのか?ムウが何というかわからんが、俺は遠慮しておくよ。 代表してお前だけやってくれ。」
「予防接種のワクチンは関係ないと思われるし、それに私たちは去年 血を提供したばかりだから、あと数年は声もかかるまい。」
「でも、念のためにやめておく。」
こうしてカミュだけが予防接種を受けたのである。

それから半月ほどしてミロが熱を出した。
初めに気付いたのはカミュで、朝に目覚めると隣りに寝ているミロの体が妙に熱かったものだ。
「ミロ?」
試みに額にさわってみるとかなり熱っぽい。
「大丈夫か?」
揺り起こすと、
「う〜ん………もっと抱かれたいの?」
などと言いながらカミュをつかまえようとする。
「そうではない! お前、熱があるのではないのか?」
押し戻してフトンをかけてやり、急ぎ着替えてフロントから体温計を借りてきた。
「39.8度だ。 やはりな。」
「ん〜、ちょっと高いかな………?」
「かなり高い。 40度を越えたら大ごとだ。 だるくはないか?」
「正直なところ、身体中が痛い………頭がクラクラする……」
「だから言わないことではない。 インフルエンザかも知れぬ。」
「………それじゃ、今夜は抱けないかな? お前………残念?」
「ばかものっ!」

急いで朝食を食べてきたカミュがもう一度熱を測ると、たった30分の間に41.3度に上がっている。 荒い息をついているミロは目を閉じていてもう冗談も言わぬ。
カミュが電話に手を伸ばした。

医師の往診を受け薬を処方してもらったのは午後になってからだった。解熱剤を飲んで二時間たってもまだ40度台であることにカミュが唇を噛む。
「カミュ………なにを…?」
ぐったりしたミロがやっとの思いで声を出したのも無理はない。 カミュに毛布を剥がれて、なにか冷たいものを両脇にあてがわれたのだ。
「腋下 (えきか) クーリングを施行する。 太い血管のある部位を外部から直接冷やすことにより熱を下げることができる。」
「あ………そう………好きにしてくれ……世話をかけてすまない……」
「それから鼠径部にもだ。」
「……え? そけいぶ……って?」
ミロが重いまぶたを開けてカミュを見上げたとき、さらに浴衣をはだけられたかと思うと両足の付け根にやはり冷たいものが押し当てられた。
「なっ、なにを…っ!!」
仰天したミロが枕から頭を上げて思わず声を出す。

   そけいぶ………って!!おいっ、カミュ!

「熱を下げるのに一番有効なのは鼠径クーリングだ。 ここにも大動脈が通っている。 一般家庭では普通は行なわれないが、私の造った氷をビニール袋に封じタオルに包んで使うことにした。 融けたらいくらでも取り替えるから解熱も早いだろう。 具合はどうだ?」
「ん……はい…………気持ちいいです…」
説明の口調のわりにはカミュは真っ赤になっており、むろんのことミロもかえって熱が上がったような気がしたのだった。
こうしてカミュの熱心な看病を受けたミロが全快するまでは、三度の食事も離れに運ばれ、一歩も外に出ない生活が続いた。

「心配をかけたがもう大丈夫だ。」
十日ほどして食事処に現れたミロが美穂に笑いかけ、その日から全てが平常通りに戻った。
「だから予防接種を受けたほうがよかったのに。」
「ん〜、でも予防接種って注射だろ? あまり好きじゃないからな。」
「………まさか、恐いとか?」
「まっさか〜!」
そういいながらミロの頬がぴくっと引きつったことにカミュが気付いたようだ。

「カミュ………もっと♪」
「あ………」
「お前を抱いてるとさ………なんだか身体が熱っぽくなるんだよ………ちょっと冷やしてくれないかな?」
「冷やすとは……額を?」
「そうじゃなくて、ここ♪」
「あっ…」
ミロがカミュの手を取ってあてがったところは鼠径部だ。
「でも………あの………」
「俺は注射は嫌いだけど、鼠径クーリングは気に入ってる。 けっこういい経験だったよ、インフルエンザは♪」
「そんな……」
「今度お前が熱を出したら俺が鼠径クーリングをしてやるよ、期待して待っててくれ♪」
「ばかもの…」
「いいから、いいから♪」





                   
鼠径部、ネズミの道という意味ですね。
                   きっとネズミが通るくらいの狭い場所だったから昔の人がそう名付けたのでしょう。
                   病院では熱発した患者さんにしばしば鼠径クーリングをします。
                   おはぎ二個分くらいの保冷剤のようなものが冷凍室にたくさん冷やしてあって、
                   37度を少し越えると 「鼠径にクーリングいれてください!」 となるのです。
                   乾いた小さめのタオルにくるんで肌に直接当たらないようにしてあてがいます。
                   あとは腋下 (脇の下) も有効です、頭を冷やすよりも即効性があるのだとか。

                   「そんなことはどうでもいいんだよ。」
                   「え?」
                   「俺にとっては、お前が鼠径クーリングをしてくれたことが重要なんだから♪」
                   「ん………」
                   「ねぇ、いま熱出てない? 実践してみたいんだけど、鼠径クーリング♪」
                   「ばかもの…」
                   「ふふふ、大好きだ、カミュ♪」