言 わ ぬ が 花 |
「この花って、なんて名前かな?聞こうと思いながらいつも忘れる。」 「え?どれでしょうか?」 散歩から戻ってきたミロが玄関先にいた美穂に指差したのは背の低い草で、小さな青い花が可愛く咲いている。花が咲いていなければどこにでもある雑草としか見えなくて、だれも名前の有無など考えもしないだろう。 けれども春のこの時期だけはささやかな、しかし愛らしい存在感を見せているのは毎年のことだ。 「それは……さぁ?存じませんわ。」 やや間をおいて聞こえた返事が少しうわずっているように思ったミロがなにげなく振り返ると、真っ赤な顔でうつむいている美穂が目に入った。 ……え?なんで? なにかいけないことを言ったか? いや、花の名前を聞いただけで、顔を赤らめさせるようなことはなにも言っていない。 「では、失礼いたします。」 お辞儀をした美穂が急ぎ足で戻っていった。 「このごろよく見かける花の名前がどうにもわからないんだが。」 離れに戻って、パソコンに向かっていたカミュに問いかける。 「ほう、どんな花だ?」 「雑草みたいだけど、春になると小さい青い花がたくさん咲いて、その時だけ気がつくんだよ。で、花が終わると忘れる。」 「……さて…」 「花の直径は1cmもないな、8oくらいかな。花びらはたしか4枚だったと思う。中心は少し白くなってた。草丈はかなり低い。青い宝石を散りばめたようでなかなか可愛いんだが、お前、知らない?」 「…さぁ?」 「こんど見かけたら教えるから。」 「うむ…」 歯切れの悪い返事に気がつきはしたが、ネット碁に集中しているためだろうとミロは考えた。 「調子はどう?」 「厳しい局面だったが、あと二十手で私の勝ちだ。もっとも6子置いたので自慢はできぬが。」 実力差が大きい者同士が対局するときは、階級位差が一つにつきあらかじめ石を一つ置くのが通例だ。 「お前の置き石が6か。なかなか強い相手だな。…あ、投了した。お前の勝ちだ。」 画面が対局の終了を告げる。 「本因坊ゆえ、さすがに強い。」 「えっ!あの桑原本因坊とやってたのか?」 「うむ、プロ棋士がネット碁をすることはさして珍しいことではない。何度か対戦して対局を検討をしているうちに桑原本因坊だとわかった。それ以来何度も打っている。」 「いや、本因坊がネットに現れることよりも、置き石6つとはいえ、天下の本因坊に勝つお前に驚いてるんだが。」 「6つも置けば誰でも勝つだろう。」 いや、それは大きな間違いだ。本因坊が相手では、6子程度では普通はあっさりと捩じ伏せられる。 かなり以前に一週間ほど滞在した老人に囲碁を教えてもらってからカミュの囲碁熱に火がついた。 ミロの誘いを二回に一回は断りながら、といってもすぐに対局を終わる羽目になるのだが、囲碁に打ち込んだ結果、カミュの腕はめきめきと上がり、今ではネット碁の常連だ。 その後、テレビの碁の中継で、あの老人が桑原本因坊だとわかってからはさらに精進を重ねてアマチュアの段位をあげてきて、今ではその本因坊とネット碁を楽しむこともしばしばだ。 本因坊に勝った満足感がカミュを高揚させ、勝利の余韻がその夜に色を添えたのは言うまでもない。 翌日の朝食のあとでミロがカミュを散歩に誘った。玄関先の植え込みの目立たない場所に例の青い花が咲いている。 「ほら、この花だ。なんて名前なんだ?」 立ち止まって指差すとカミュが小さくため息をついたようだった。 「聞かぬが花だ。」 「変わった名前だな。一人静 ( ヒトリシズカ ) とか熊谷草みたいに風雅な名前ってわけか?やっぱり古典由来か?」 「そうではない。云わぬが花ともいう。」 「え?名前が二つあるのか?」 「そうではない。わからんやつだな!」 「だってわからないから聞いてるんだろう?美穂が知らなかったからお前に聞いてるのに、知らないなら知らないと言えばいいだろう!」 カミュが固まった。 「……美穂に聞いたのか?」 「ああ。でもなんだか赤い顔をして、知りませんって言うから、お前なら知ってると思ったんだが。」 「……知っていることは知っている。初めて見たときにすぐに調べてある。」 「じゃあ、教えろよ。なにをためらってる?」 「オオイヌノフグリだ。」 「なんだ、立派な名前があるじゃないか。」 「…そうだな。」 「オオイヌは大きい犬だろ。イヌマキとかイヌタデとか、そういう名前の植物はけっこうあるし。で、そのあとのはなんのことだ? フ…」 「言うな!」 「え?」 「言わなくてよい。いや、むしろ言ってくれるな。言わぬが花だ。」 「……は?」 「私は知らぬ。人に聞いてばかりいないで、たまには自分で調べてみるのもよかろう。」 「知らぬって、知ってるから教えてくれたんじゃないのか?」 「うるさいやつだな。私は散歩に行ってくる。好きなだけ検索するがいい。」 そう言い捨てるとカミュは足早に門の外に歩み去った。なにがなんだかわからないが、機嫌が悪いのは確かなようだ。 なんでこうなる? 美穂は赤くなるしカミュは怒るし… 首をかしげながら離れに戻り、パソコンを立ち上げる。こんなときに便利なのは 「季節の花 300」 というサイトだ。いろいろなキーワードから植物を探せるように工夫されていて写真も豊富でわかりやすい。 「ええと、オオイヌノフグリと……」 やがて見慣れた可愛い花の写真が出てきた。 「ああ、これこれ。ええと……」 え…… 苦笑したミロがパソコンを閉じた。 もうちょっとましな名前をつけてくれればよかったものを、これではどうしようもない。 「言わぬが花に聞かぬが花か。なるほど、言い得て妙だ。」 それ以来、二人の間ではそれがこの花の名前となる。 散歩からカミュが戻ってきた。 いつもなら 「今、戻った。」 というのだが、今日に限っては無言なのがかえって目立つ。緊張しているのが手に取るようにわかり、ミロはおかしくてならない。 「お帰り。」 「…うむ」 そのまま息をひそめるように座り、置いてあった新聞に手を伸ばす。ミロの見るところ、心ここにあらずで内容が把握できているとは思えない。 顔は赤いし手は震えているし、ほんとに素直すぎるんだよ どこもクールじゃないな 「茶を入れようか?」 「…うむ」 「それともコーヒーがいい?」 「…うむ」 「どっちでもいい?」 「…うむ」 「もしかしてキスがいい?」 「…えっ」 はっとしたカミュが顔をあげたときには目の前にミロの青い目があった。 あ…… 新聞を取り上げたミロが唇を重ねてきてわずかの抵抗を封じてしまう。やがて観念したカミュの身体から力が抜けた。 「そんなに困らなくてもいいのに。」 「でも…あの…」 「気にするな。もう話題にしないから。」 「ん…」 「でも散歩のときに見つけたら困るな。」 「それは…」 「言わぬが花だって言えばいいよ。俺は聞かぬが花だって答えるから。」 「そうだな…」 「で、お前は俺の花♪」 「ばかもの…」 「いいから、いいから♪」 甘いため息が洩らされる。互いの温かさがこころよかった。 何年も前から書こうと思い、果たせずにきて。 昨日の暖かさに散歩に出かけてこの花を見て、さらさらと話が出来ました。 可愛い花なのに、なかなか名前が広まりません。 ちょっと残念です。 あ、もちろん、ミロ様に倣って御自分で検索なさってくださいね。 「ヒカルの碁」 に出てくる桑原本因坊の声優さんはもちろん納谷六朗さん。 夢のカミュ様対決です。 季節の花300 ⇒ こちら ※ この壁紙はワスレナグサです。 花弁が一枚多くなっています。 |
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