※ 後編


「だからシャカの言うには、俺が三十三間堂で献灯したのがよかったのだそうだ。 ただそれだけで俺は千手観音の庇護を受けることになった。」
「それで私が助かったのか……」
広い庭を散策している二人は池の中ほどにある小島にかかっている石橋を渡っている。人影を見つけて寄ってきた緋鯉にミロが餌を投げてやると、静かな中に水音が響いた。
「わからないのは、私だけが絵巻物に引き込まれたことだ。 ほかの日本人も熱心に地獄草子を見ていたのになぜだろう?」
「むろん、お前を連れて帰る途中でそれもシャカに聞いてみた。 あの絵巻物が描かれたのは十二世紀だが、それ以来たくさんの人間が恐怖におののきつつあれを見て、こんなところに行かなくてもいいようにと祈り続けてきたのだ。 あの絵巻には900年分の人々の恐怖が閉じ込められていることになる。 一方、あの絵巻が描かれて以来、実際に地獄にいったことのある人間があれを見たことは一度もない。 まあそれは当たり前だが。 そしてたまたま日本を訪れてあの絵巻を見たお前は本当に地獄にいったことがあり、その残滓はいまだに身体に染み付いているのだそうだ。」
「え………そうなのか?」
あまり嬉しくなさそうなカミュが自分を見回した。
「でも、ほんの少しだよ、日常にはなんの支障もないそうだ。 しかし、それが絵巻物に感応したんだな、それでお前が引き込まれた。 俺も同じく地獄に行きはしたが、お前ほど長い間ではなかったし、直前に千手観音の庇護を受けてもいる。 そしてお前ほど熱心に地獄草子を見たわけではなかった。 こういうわけだよ、お前だけが引き込まれたのは。」
島の周りに集まってきた十数匹の鯉に残りの餌をぜんぶ投げてやったミロが、もうないよ、と言わんばかりに水面の上でひらひらと手を振った。
「次からは私も献灯したほうが良さそうだな。」
そう言いながら石橋を戻って行くカミュの後について行きながら、ミロは地獄からの帰途のシャカとの会話を思い返す。

「どうにも腑に落ちないのだが、ミロ………三十三間堂で献灯したときになにを祈ったのかね?」
「え………あの……地上の平和と………健康祈願と家内安全…かな。」
思わぬことを訊かれたミロが口ごもる。
「それだけであれほどの庇護を受けるとはとうてい思えないのだが。」
「え、でも俺は確かに…」
シャカがじっとミロを見た。 いや、シャカは目を開いたりはしなかったのだが、ミロには今にも目を開きそうに思えたのだ。眠るカミュを抱く手に力が入る。
「あの………地上の平和と………俺たちの……カミュとのことを祈って………無事を…幸せを祈願した…」
「地上の平和とカミュとのことと、どちらを優先したのかね?」
たたみかけるようにして尋ねるシャカにミロが赤面する。
「………そんなことまで言わなくてはいけないのか?」
「いや、もうわかった。」
そうしてミロは耳まで真っ赤になったのだ。 ただ一つの救いは、抱いているカミュにそれが聞こえていないだろうことだった。

寝殿造りを模したこの宿はとある財閥の持ち物で、一般にはその存在は知られていない。
五千坪はあろうかという敷地にゆったりと配された建物は、いかにも平安貴族の住んでいたそのままの造りで二人を感嘆させた。
「これは驚いた! 本で読んだそのままの造りではないか!」
「うん、アテナに直接頼んでおいた。 でなかったら、こんな宿にはとても泊まれたものじゃない。」
「宿というより源氏になった気分だ。」
「あ、それは違うな!」
「え?」
「俺が源氏で、お前は俺に愛される女君の役♪」
「そんな………」
くすくす笑ったミロがカミュの手を引いて几帳の向こうに連れてゆく。 角の柱から下がっている銀の透かし彫りの施された玉からは高雅な香りが流れてきて二人を陶然とさせた。

時が経ち、夜の帳の下りた庭を篝火の灯りが照らしている。
火の粉のはぜる音がときおり聞こえるほかは静かなものなのだ。
「こんなところが、まだあるのだな。」
「気に入ってくれて嬉しいね♪ 考えられる限り、最高の宿だぜ、ここは。」
篝火のちらちらと燃える色が御簾を通して室内からも見えているのがカミュの気に入ったらしく、さっきからそればかり飽かず眺めているのがミロには嬉しいようでもあり、面白くもないようでもある。
「そんなに向こうばかり見ないで………俺のことも見てくれないかな…」
「あ………」
やさしく向きを変えさせられたカミュに重ねられた唇はどこまでも甘くなつかしい。
篝火にかわって潤んだ瞳に映るのはミロのいとおしげなまなざしだ。
「もう地獄なんか行かせない………かわりに俺が極楽に連れて行ってやろう………」
「ミロ………」
「大好きだ、カミュ………」
あたたかい吐息が闇を散らし、かすかな身じろぎが几帳の裾を揺らす。
「私も………お前のことが………」
「……ん? なに……?」
「なんでもない…」

暗い庭でホトトギスが一声鳴いた。




          ミロカミュ サマーフェスティバル2006に出した最後の作品になります。
          それまでの五つが甘かったので、最後はシリアス物をと考えました。

          シリアス志向 ⇒ 京都でシリアスと言ったら仏教の地獄 ⇒ 地獄草子の展覧会

          という連想が働き、ついにこんな話に。
          ミロカミュなのにシャカが出てきましたが、地獄=シャカという図式ははずせません。
          まさか、地獄に落ちたカミュ様をミロ様がスカニー連発して救い出す、というわけにはいきませんので。

          フェスのときより地獄の描写をより綿密にしましたが、カミュ様の痛々しい描写はありません、
          そんなことしたらお気の毒ですものね。
          色艶シーンも追加はなしです、地獄篇にはこのくらいがふさわしいと思います。