人 力 車

大仏殿を出て参道を戻り、途中のせんべい売りから二包みの鹿せんべいを買うと目ざとい鹿がさっそく寄ってくる。
「ほらほら、あわてるとやらないぜ、おいっ、俺を小突くな!」
ミロがおとなしそうな雌鹿に差し出すそばから角を切られた痕のある雄鹿が割り込んできてなかなか思うようにはいかない。 背中を濡れた鼻でぐいぐい押されて閉口したミロはとうとうあきらめて押しの強い雄鹿に手持ちのせんべいを全部やる羽目になった。
「あ〜あ、こんな筈じゃないんだが。 あれっ、お前、なにをやっている?」
ミロが苦闘していた地点から少し離れたところでカミュは平穏無事にせんべいをやり終えるところだ。
「どうして?」
「偶然だが、このほうがうまくいく。」
カミュと鹿の間には溝があり、参道より一段高くなった低い石垣の上にいる雌鹿たちは首を伸ばしてカミュの手からおとなしくせんべいをもらっていて、石垣の上から下りてくる気はさらさらなさそうだ。 強引な雄鹿もみんなミロのほうに寄って来ていたのでカミュの慈善事業は滞りなく行われたというわけだ。
「まあ、いいけどさ。 お前が苦労してる横で俺が楽をする気はないし。 お前が後ろから雄鹿に押しまくられるなんて、てんで絵にならないからな。」
そう言いながらミロの脳裏に別のシチュエーションが浮かんだが、そんなことを一言でも口に出そうものなら、今夜は徹夜で写経でもさせられそうだ。 自分だけの秘密を胸の奥に押し込んだミロがふと見るといいものが目に映った。
「おい、あれに乗ろうぜ!」
「え?」
ミロがつかつかと寄っていった先には数台の人力車が停まっている。
「いかがですか、ちょっとお乗りになりませんか!」
渡りに舟だ。
「興福寺の国宝館まで行くんだけど、このあたりをぐるっと回って国宝館に行くコースってあるかな?」
ミロがいなせな格好をした俥夫と交渉を始めた。 どうやらカミュの意向を聞く気はなさそうだ。
「それでしたら……」
このあたりの観光地図を広げた俥夫の指がルートをたどり、若干の説明を受けたミロとの間で交渉成立である。
「よし、決まった! 二人で30分乗って6000円だ。 いいかな。」
「いいもなにも、もうすっかり話がついているようだが。」
「だって、お前が反対するわけないだろう。 銀閣寺あたりで興味ありそうに人力車を見てたし、それに確か昨夜、許してくれたらなんでも…」
「わかった!」
少し赤面したカミュが頷いて人力車の傍に寄る。
このごろあちこちの観光地に増えてきた人力車は、明治3年に当時の東京府に許可を願い出て認可されたのが始まりといわれており、それまでの交通手段だった篭をあっというまに駆逐して、全国に広まったと言われている。 その後、鉄道の敷設や自動車の普及により衰退したが、東南アジア方面にも数多く輸出され、いまでもリキシャと呼ばれて利用されている地域もあるという。 一時は蒔絵を施した華麗な人力車もはやったというが、政府が華美を禁じたため地味な色に落ち着いている。
そんなことをカミュが考えていると、二人乗りの人力車が乗りよい位置に引き出されてきた。 引き棒をぐっと下げて地面につける。 座面はやや前方に傾くが、乗るのに困るということはない。
「では、少し揺れますがしっかり抑えていますので、お一人ずつどうぞ!」
「じゃ、俺が先に乗るからな。」
ミロが地面に置かれた小さい踏み台に足を乗せて人力車の奥に座を占めた。 続けてカミュも注意深く乗り込んで深く腰掛ける。 座面には寒さ対策の使い捨てカイロが置かれていて、なかなか考えてあるものだ。 座ったとたんに温かさを感じたミロがくすっと笑う。
「シートベルトをします。」
ミロの側から黒いベルトが引き出され、カミュの腰の横の金具に留められた。 続いて真っ赤なひざ掛けが二人一緒にかけられて目立つことこの上ない。
「ちょっといいじゃないか! この真紅のひざ掛けがミソだな!」
「うむ、なかなか衝撃的だ。」
くすくす笑うミロはご機嫌だ。 なにしろ、ひざ掛けの下でひそかにカミュと手をつないでいるのである。 手を探し当てられたカミュが引っ込めようとすると、
「誰にも見えないからいいじゃないか。 それに、昨夜……」
「わかった!」
今日のカミュはものわかりがいい。

「では、出発します。」
踏み台を人力車のどこかしらに仕舞った俥夫が引き棒の間に入りいよいよ人力車の旅に出発だ。
「雨が降ってきましたら、幌を広げますから大丈夫です。」
「ああ、なるほど! そいつはいいな!」
二人が乗ると相当な重さだが、聞くとラグビーをやっていたという。 力仕事には素地があるというわけだ。
「坂道は申し訳ないような気がする。」
「といって、まさか、大変だから降りて歩きます、というわけにはいくまい。 仕事だからしかたないんじゃないか?それとも小宇宙を使って身体を少し浮遊させるか?」
むろん、小宇宙にそのような効果はない。
あたりの寺社や由緒ある料亭などの説明を聞きつつ、人に引かれて走る人力車は一風変わった乗り心地で、ゆらゆらと揺れる感覚が珍しい。
「ふうん! こんな風だとは思わなかった! けっこう目線が高いし、気持ちがいいもんだな!」
「まったくだ、これは乗ってみなければわからぬ。」
最初はちょっと戸惑い気味だったカミュも人力車が気に入ったようで、ミロもご機嫌だ。 すれ違う観光客が嬉しそうにして見ているのも面映い。ほとんどの日本人が笑いながら見ていて、中には子供に手を振らせる親もいる。
「おい、手を振ってやれよ。 これも国際交流だ。」
交差点の信号待ちで向こう側の親子連れに手を振られたミロは慣れた様子でニコニコしながら手を振り返してなんら気にすることがない。
「私はどうもこういうのは……」
ちょっと顔を赤くしたカミュが小さい子供に控えめに手を振ると、子供のほうが恥ずかしそうに親の影に隠れてしまったので母親のほうが代わりに手を振り返してきた。。
「知ってるか? あれは子供をだしにしてお前に手を振らせて、親のほうが喜んでいる之図だ。」
「えっ?」
信号が変わって人力車は道を渡ってゆく。 すれ違う人も車も、二人が乗っている人力車を見てなんだか嬉しそうにする。
渡り終わったところで小雨が降ってきた。 人力車を脇に寄せた車夫がていねいに引き棒を下ろして、二人の後ろに折りたたまれていた幌をぐっと引き出した。 けっこう深くかぶさるもので、これもなかなか面白い。
「ふ〜ん! これもいいじゃないか! ちょっと秘密性があったりして!」
「そういうものか?」
「そうだよ、内緒話にはもってこいだ!」
黒い幌と車体の人力車に真紅のひざ掛けはよく似合う。 すれ違う観光客はみな、どんな人が乗っているかと目をやるもので、雨よけの幌に半ば隠れて腰掛けている二人はかなりの視線を浴びることになった。
「ちょっと恥ずかしくはないだろうか。」
「それがいいんだよ。 ちょっとした道行きだ。」
「しかし、道行きとは駆け落ちのことで……」
「気にするなよ、気分だ、気分!」
赤いひざ掛けの陰で握られている手が暖かい。 行く手に興福寺の五重塔が見えてきた。





                
こういうものは書き始めると早いです。
                人力車って、乗ってみると楽しいですよ。
                さあ、次は興福寺国宝館で憧れのあの方にご対面です。

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