皆 既 日 食

2009年7月22日は、インド西方から始まって日本の南端をかすめ太平洋上までの地帯で皆既日食が観測されるという貴重な日だ。 むろんカミュはずっと前からこの情報を持っていて、この日に向かって準備を重ねてきた。

「で、どのツアーに参加するんだ? トカラ列島、上海、太平洋上、いろいろなツアーがそろそろ募集を始めるころだろう?」
「ツアーには参加しない。」
「え? それじゃ、個人旅行か。 それもいいな、うん、自由度が高いし人目も気にしなくて済む。」
大きな声では言えないが、皆既日食のまっ只中でカミュを抱きしめて口付けを交わしながら素晴らしい天文ショーを楽しみたい俺としては、ツアーよりそのほうがむろん望ましい。
「で、場所はどこにする? トカラ列島はツアーの人数も厳しく限定されていて個人の旅行は受け付けていないから論外として、船もツアー客のみだし。 上海か? それとも思い切ってインドにするか?」
皆既日食はインドから太平洋上までの幅160キロメートルの範囲の皆既日食帯で観測されるが、どの場所にも人が行けるとは限らない。 洋上や砂漠地帯ではどうしようもないのだ。 人が住んでいてもあまりな未開地では、やはり普通の旅行者が行くのは不可能だろう。 ゆえにホテルなどの施設が整備されているところに観光客が集中することがおおいに予想される。
「場所はまだ決めていない。」
「早くしたほうがいいんじゃないのか? 出遅れたら予約できなくなるぜ。」
用意周到なカミュにしては珍しいと思って聞いてみたら予想外の言葉が返ってきた。
「予約はしない。その日に行くから心配は要らぬ。」
「え?」

カミュの言うには、その土地が晴れていなくては観測できないので、当日の朝の天気を調べてふさわしいところにテレポートするのだという。
「だって………そういうのっていいのか? いくら俺たちがテレポートできるからって、みんなが苦労して行くっていうのになんだか悪いような気がするが?」
「いや、それは杞憂だ。」
「え?」
私用に小宇宙やテレポートを使うことはあまり推奨されていない。 というか、認められていないというのが現実だ。 といってもそれは表向きだけのことで、みんなそれなりにやっているというのが実態だろう。 でもそこは生真面目なカミュのことだから、俺もついつい遠慮したりする。
「トカラ列島へのツアー希望者は世界中から殺到しており、とくに悪石島は今回の皆既日食の観測地の中でも最長の6分25秒の長きにわたって太陽が月に隠される。 このため世界中の天文学者もこの島への上陸を希望していると聞いている。 むろんその周辺の島々にも多くの宿泊希望者が殺到することが予想されるが、小さな島では受け入れられる人数が限られているため、トカラ列島全体でも700人弱しか宿泊はできぬという状態だ。 そんな情況で私たちが普通に宿を確保することは一般の人間が観測する権利を奪うことにもつながりかねない。 よって、当日に晴天の土地に直接テレポートしたほうが公衆の利益になると考えてのことだ。」
「あ……そうなの?」
「そのためにテレポートを習得したわけではないが、有効活用できることはきわめて喜ばしい。」
さらりと言ってくれるが、俺がちょっとした用事で聖域に戻ろうとするたびに眉をひそめていたのはどこの誰だ?

「で、候補地の選定は済んだのか?」
テレポートというのは、口で言うほど簡単ではない。 地図上の一点を指差して 「じゃあ、ここに行こう!」 というのでは無理なのだ。 行く先に障害物がないのが条件で、万が一、雑踏の中にテレポートしようものなら大惨事が起こる。 人に見られたらまずい、などという次元の問題ではない。
同一の空間に二つの物質は存在しえないので、運悪くその地点にいた人物は強大なエネルギーを伴って瞬間移動してきた俺に跳ね飛ばされて間違いなく即死する。 また、高度も考慮せねばならない。 高い山の上と盆地に降り立つのとでは目標地点のポイントが異なることはわかってもらえると思う。
むろん天蠍宮に戻るのは簡単だ。 勝手知ったる自分の宮で基本的に誰もいるはずがないし、万が一誰かがいても、それが聖闘士ならテレポートが完了する0.01秒くらい前に察知して避けるくらいの技はみんな心得ているものだからだ。 
ほかにもいろいろとクリアせねばならない技術上の問題があるが、それはまたの機会に譲ることにしよう。
「全部で15箇所を選んでおいた。 ほとんどは人口密度が低い土地で、地理的要因も日食を観察するにはふさわしい。 すでに現地の状況も把握している。」
「それなら安心だな。 ゆっくり当日を待たせてもらおうか。」
「うむ。」

そして7月22日が近付くにつれて日本のメディアも盛り上がりを見せてきた。 テレビでは連日、直接太陽を見ると目を傷めるので必ず日食観察用のメガネを使うこと、と繰り返して注意を呼びかけている。
「ところが、このメガネがとっくに売り切れなんだそうだ。 製造元にも在庫がなくて販売店はお客の問い合わせに頭を痛めてる。」
「そんなこともあろうかと思い、観測用のフィルターを早いうちから入手して製作しておいたのでその心配はない。」
手回しよくフィルターを手に入れていたカミュはこの宿の従業員と星の子学園の子供たちの分まで材料を用意して届けたものだから、皆既日食が近付いたこのごろではえらく感謝されている。
「黄金でもさすがに目は鍛えられないからな。 黄金聖衣をまとったお前を見て目がまぶしいなんて言ってるのとは次元が違う。」
そういうわけでカミュ手作りのメガネを手にした俺はご満悦なのだ。

明日が皆既日食という夕方に天気予報を見ていたカミュが眉をひそめた。
「やはり天気が悪い。 15箇所全部を巡ることになるかも知れぬ。」
「あれ? 天気がよくても全部に行くんじゃないのか?そうすれば、日食が始まるインドを皮切りに東に移動しながらゆうに30分は皆既日食を見られるし、ダイヤモンドリングも何度でも目撃できる。 当然そうするんだと思っていたが。」
「え………うん、まあそういうことだ。」
カミュがちょっと頬を染めた。 世界中の天文学者が聞いたらこの贅沢きわまりない皆既日食観測旅行に目を回すだろう。 これって小宇宙の私的利用かな、やっぱり。

さて、当日の登別の気温は16度で小雨が降っている。
「これでは部分日食さえ観測は無理そうかな。 申し訳ないが俺たちだけでも行ってくるか。」
「うむ。」
東京では食分が0.749、ここ北海道でも0.506とほぼ半分が欠けるというのに見られないとは残念なことだ。ちなみに食分0.1といえば太陽の直径の10%まで太陽面上に月が入り込み太陽が欠けることを意味しているのだそうだ。
もっとも早く日食が始まるのはインド西部で、日本時間でいえば午前8時58分だ。 朝食を7時半きっちりに食べ始めて早々に離れに戻った俺たちは最初の目的地に向けて勇躍テレポートした。
「うっ!」
温度も湿度も高い。 さすがはインドで気温は35度くらいだろうし、湿度は……
「おおよそ75%だな。」
カミュが言うなら間違いはないだろう。 おまけに小雨が降っている。 要するに日食観測には向いてない。次の土地もパスして
三箇所目で俺たちはやっと晴天に遭遇した。 都会地から離れたそこは抜けるような青空が広がり遠くの山々がすこし霞んで見える広々とした丘陵地帯だ。 遠くに人家が見えるがあたりに人影はなく、インドらしいものがあるわけでもないのであらかじめ調べておかなかったらどこの土地かわからなかったろう。
「あと10分だ。」
俺たちはどきどきしながらそのときを待った。太陽はなに遮るものなく輝き、やがて月の影に隠れてしまうだろうことを予測させるものは何もない。
「始まる。」
時計を見ていたカミュが短く言って俺たちは用意してきた観測用メガネを使って空を見た。太陽の右上から月の影が極めてゆっくりと、しかし着実に太陽を隠していくのがよくわかる。 まだあたりは明るくてなんの変化も見られないが、そのうちに薄暗くなり夜みたいになっていくのだろう。
風が木を揺らしながら通り過ぎてゆく。 俺はちょっとカミュに身を寄せた。 この世紀の天体ショーを少しでもカミュの近くで見ていたかったのだ。
やがて目に見えてあたりが暗くなってきた。 夏の陽に輝いていた木々の葉が光を失い、心なしか鳥の声がひそめられる。メガネで見ている太陽は三日月のように細くなりさわれば折れてしまいそうだ。 完全に隠れる寸前に左下の部分が明るく輝いた。 ダイヤモンドリングだ。
「ああ………なんとも言えん…」
「美しい………それに尽きる。」
一瞬の輝きはすぐに消え去り、気がつくとあたりは夜の闇だった。 街の明かりがあるような都会ではない。 山も森も夜の衣をまとい、しんと静まり返った不思議な時を俺たちと共有していた。 そこは小高い丘の上だったので暗い空に黒い太陽が浮かび空には星さえ見えた。
「あれが水星で………それからあれが金星だ。」
カミュが指さして教えてくれる。
「ん………すごい……」
昼の空に星があることなど忘れていたが、そうだ、太陽が輝き人が営々と活動している間も星々は人知れず輝き続けているのだった。
周辺の山に間近い空の周辺は夕焼けのように明るい橙色に輝き、ぐるっと空を取り巻いている。 まるで裳裾のようだ。 遠くの土地には陽光が当たっているので明るく見えるのだろう。
「こんな景色は初めてだ………来てよかった。」
「ほんとに………」
なぜだか涙が出てきた。 空を見上げながらカミュの手を探り当て、引き寄せて抱きしめてキスをした。 この機を逃してはいけないと思ったのだ。 カミュと一緒に見られることを心から喜び、ともに生きている幸せを思った。

貴重な時間は瞬く間に過ぎて再びダイヤモンドリングが現われた。 今度は右上だ。 月の影が小さくなってゆく。 西の空の裾がみるみるうちに明るさを増してあたりは昼になってゆく。
「終わったな。」
「では次へ。」
あっという間に着いたところは河岸だ。
「ここもよかろうと思った。」
「ふ〜ん!」
目の前のガンジス川の河岸でたくさんの人が聖なる水を浴びている。 とても濁っていて俺の目には聖性は感じられないが、信仰心はそれを聖なる水とみなすのだ。 目では見えないものを見ているのだろう。
すぐに太陽が隠れ始め、あたりが暗くなり始めると祈りの声が高くなり、ざわめきとともに水を浴びる人の熱心さが増してきた。 日食を不吉なものと考え恐れているのだろう。
「宗教ってすごいな!」
濁った水も彼らの目には清らかに映るのだろう。 俺たちが感動した日食も彼らには恐怖の象徴なのかもしれない。

次に行った中国では雨の土地が多かった。 やっと重慶で太陽が望めただけだ。 雨の上海ではせめて突然に訪れる昼間の夜を楽しもうというのでたくさんの人が傘をさして外に出ていた。 街にはネオンが輝き、車のヘッドライトが濡れた路面に光の帯を滲ませる。ほんとに眺めは夜の街なのだった。
「古代中国では太陽は皇帝の象徴であったので、太陽が隠される日食を不吉なものとして恐れたのだという。」
「いまではみんな喜んで見ているんだな。 でも昭王の時代はどうだったろう?」
「さて……」
今回の皆既日食帯は当時の燕の都だった薊、今の北京は通らない。 はたして昭王の治世の間に日食があったものか今の俺にはとうていわからないことだ。

そしてあの悪石島はかなりの雨で、たくさんの観測者が濡れ惑っていたのは気の毒なことだった。
「晴れにできないよな?」
「無理だ。」
そんなことをしようものなら恐ろしい負荷がカミュにのしかかり、かつ、なんの効果も得られないだろうことはわかっている。 自然の力を一個人が捻じ曲げることは神の意思にも自然の摂理にもそむくのだ。
屋久島も雨。
「こんなところか。あとは部分日食になる。」
「いや、もう一つ行ける!」
「え?どこに?」
俺はカミュの手をつかむと屋久島を後にした。

「あ…」
青空とまぶしい太陽が俺たちを迎えてくれた。
「硫黄島だ。 お前と来たいと思っていて、だいぶ前からポイントを決めておいたんだよ。」
本州から1300キロの太平洋上に浮かぶ硫黄島は第二次世界大戦の激戦地として有名で、今でもそのときの傷跡がここかしこに残ってる。今は自衛隊の基地があるだけで旧島民の立ち入りも禁じられているから無人島に等しく、日食観測の客も来ているはずがない。 火山活動が盛んで島名の由来となった硫黄の匂いが到るところに立ち込めている場所も多い。
「ええと………よし! あと10分だ。」
小高いところを見つけて腰を下ろした。 カミュが周りを見回した。
「硫黄島なら、これが摺鉢山 ( すりばちやま ) だろう。 第二次大戦で日本軍と米軍が熾烈な戦いを繰り広げ多くの将兵が犠牲になった激戦地だ。」
「うん、そうだな…」
「まだこの島には多くの遺骨が眠っている。」
まだ日食が始まっていない南の海の景色はどこまでも青く澄んで美しい。 山の緑は降り注ぐ夏の日差しを浴びてしたたるように輝き、波が白い砂浜を洗う。

   平和なのに………こんなに平和なのに、過去には恐ろしい歴史があったのだ

「俺たちって昼間の星か?」
「……え?」
「太陽が隠れるような特別なときだけ昼間の星が見える。 俺たちも存在し続けているのに普通の人間からは見えないところにいて、地上に危機が訪れる時にだけ稀に一般人から見えるところに現われたりするだろう? まるで昼間の星みたいだ。」
ここは風が強い。 海からの風が髪を乱し手で押さえないと困るくらいだ。
「聖戦がなければそのまま聖域で命を終える運命だ。 誰にも知られないし、故郷に錦を飾ることもない。 聖戦が起こってもやはり人に知られることはほとんどない。 現に聖闘士の俺たちだって、同じ聖衣をまとっていた昔の黄金のことは知らない。 知っているのはシオンと老師だけで、聞いてもたいして話してくれない。」

「老師がお若かったときの蠍座の聖闘士のことを教えてください。」
「さてのぅ、どうだったかのぅ?」
昔のことじゃから、と言って老師は微笑むばかりだったのだ。

「その人を知らなくても私たちの聖衣は彼らのことを覚えている。 身にまとって闘ってくれた聖闘士のことを記憶にとどめているはずだ。 それが私たちの血肉になっていると私は思っている。」
「うん、そうだな……」
俺は溜め息をついた。 昔のスコーピオンは、アクエリアスはどんな男だったのだろうか。
「老師に般若湯を飲ませてもだめかな、やっぱり?」
「だめだろう。 老師が童虎になっていらしたときも陽気になるばかりで余計なことは何一つおっしゃらなかった。」
「そうだな、たしかにそうだ。」
そんなことを話していたらあたりがなんとなく暗くなってきた。 いよいよ最後の皆既日食の始まりだ。
気温が下がってきたようで上空には雲が増えて来た。
「日食雲だ。 気温が下がると空気中の水分が凝結し雲ができやすくなる。」
「そいつは迷惑だな。 なんとかならないのか?」
「この程度の雲量なら私が手を出すほどのこともない。」
するとカミュは上空の雲くらいならなんとかできるわけだ。まったくたいしたものだ。
そしてふたたび美しいダイヤモンドリングが輝き、俺たちは6分間の夜を楽しんだ。
「ここに来てよかった………」
「俺もそう思う。 お前と一緒に見られたことが嬉しい。」
「お前がここをポイントにしていたとは思わなかったが。」
「だって、日食を見るのにテレポートを使うのはまずいかと思って内緒にしてた。 で、旅行先で雨だったときの伝家の宝刀にしようと思ってここを選んでおいたんだよ。」
「ありがとう。 ここは考慮外だった。ミロのおかげだ。」
空を見上げながらささやくように話をした。 とても大きい声を出すような雰囲気ではなかったからだ。
長いような短いような時間が過ぎて右を上にしたダイヤモンドリングがひときわ美しく輝き、皆既日食は終局を迎えた。 見る見るうちにあたりは昼の色を取り戻す。
「次の皆既日食も一緒に見ようぜ。」
「うむ、次の日本での皆既日食は2035年9月2日だ。」
「それって………26年後か?」
「あっという間だ。 」
「そうかな? まあいい、俺たちって永遠の二十歳だから。」
「そうなのか?」
「そうだよ。」
立ち上がって草を払う。 熱い夏が戻ってきた。
こうして俺たちは硫黄島をあとにした。





           
話題を呼んだ皆既日食。
           見られなかった不運を悲しむよりも、お二人に見ていただくほうが建設的だと思ったので。
           次回の皆既日食はまだまだ先ですが、次の金環食なら2012年5月21日です。
                            (九州から東北の一部まで。 東京は実に見事に好位置につけています)

                  金環食 ⇒ こちら