カ キ 小 屋 |
広島市は中国・四国地方でもっとも多い人口を有する政令指定都市で、瀬戸内海に流れ込む太田川など6河川が形成した三角州の上に市街地が形成されている。路面電車が発達しており、路線距離・車両保有数・乗降客数は日本一を誇っているという。 広島駅からその路面電車の宇品線に乗って 『 海岸通 』 で降り、しばらく歩くと海沿いの開けた場所に出る。目指すカキ小屋はそこにあった。 「あれがそうだろう。のぼりが立ってる。」 「小屋というよりは農業でよく使われるビニール温室のように思われるが。」 「細かいことを言うなよ。それを言ったら、お前のシベリアの住まいだって小屋って言われてるときもあるが、実態はそうじゃないし。」 あれが小屋だったらシベリアの強風にひとたまりもなく吹き飛ばされていることだろう。実際にはカミュが弟子とともに暮らした住まいはかなりしっかりした建築物だ。 2棟あるカキ小屋のどちらに入ったものか迷っていると、地元の男性スタッフに 「こっち、こっち!」 と手招きされた。ちょっと面白い。 「ほう!こうなっているのか。」 カキ小屋の中を覗きこんだカミュが感心したような声を上げた。 ビニール温室みたいなその場所はほんとに簡単な造りで、道路脇によくある排水のためのU字溝、もちろん新しいものだが、それに赤々と炭火をおこし、上に網を載せ、その両側にごく簡便な構造の板を渡しただけの椅子をセットしたものがたくさん置かれている。 平日の昼間にもかかわらずかなりの人数が名物の焼き牡蠣を食べにやってきて賑やかだ。外に広がる海の向こうには広島市に隣接する坂町や金輪島が見えていて、いかにも瀬戸内海らしい景色が広がっている。なにしろビニール温室の中でいくつも炭火を熾しているので12月といってもいささかも寒くない。入り口は開けっ放しにしてあるので換気のほうも十分だ。 「一人ひと籠でいいかな?」 「十分だろう。」 「あとアナゴと牡蠣飯を二つ貰おうか。」 入口のテーブルに山のように積まれた牡蠣を買う。目の粗い緑色のプラスチックの平籠に殻付きの牡蠣が1キロ、十数個入っており、それを好きなように焼いて食べるという野趣あふれたシステムだ。 カキ飯のほうはよく見かける透明なプラスチックパックに入っていて、上にはぷっくりとふくれたカキが4つほど乗っている。カミュがこんな容器に入っているものを食べるというのは容認しがたいものがあるが、どうやらそう思うのは俺だけらしい。当のカミュは、 「産地のカキ飯ゆえ、さぞかし美味しかろう。」 などと言って嬉しそうにしている。至高のカミュがそんな容器に入っているカキ飯をぱくついているシーンを第三者が動画投稿しないよう祈るばかりだ。そんな動画を聖域で雑兵なんかに見られたら権威が落ちることは確実だろう。 牡蠣の籠と一緒に軍手・金バサミ・ペーパーナイフ状の道具・紙皿・割り箸を渡され、スタッフに案内されて空いているU字溝、ではなくてカキ焼き設備の席につく。すぐ向こうは海ですこぶる眺めがいい。周囲を観察すると、なるほど軍手を左手にはめるらしい。 「え〜と、焼き方は…?」 「先に平たい側を1〜2分焼き、裏返したら3分ほどだ。」 「さすがに詳しいんだな。」 「最初から知っていたわけではない。そこに書いてある。」 カミュの視線を辿ると、ビニール壁の上部になるほど焼き方のコツを書いた貼り紙がある。俺なんか、やっと牡蠣にありつけるのが嬉しくて下ばかり見ていたから、あんな貼紙にはまったく気がつかなかった。聖闘士としては注意力散漫だろうか? 「ああ、ほんとだ!こっちが平たいな。」 牡蠣の殻というのはちょっと変わっていて、手の平を窪ませたところに平たい蓋をかぶせたような形状をしている。殻の外見はほとんど醜悪といってもいいだろう。 「よく言われることだが、最初に牡蠣を食べた人間は偉いと思うな。殻もすごいが中身のビジュアルもかなりだぜ。」 「太古の昔は今ほど食糧事情がよくないので、手に入るものはなんでも試してみたのだろう。縄文時代の貝塚からも多数発見されており、我々が食べているものはすべて先人の知恵の賜物と言ってよい。ジュリアス・シーザーやナポレオンも牡蠣が大好物だったと聞く。」 「グルメってわけか?」 「シーザーのイギリス遠征はテームズ川河口で採れる牡蠣が目当てだったという説もあるくらいだ。」 「えっ!それって戦争の理由としてはいただけないな。 とてもアテナには聞かせられん。戦争の目的は平和の希求であるべきだ。」 カミュがきっちりと間を詰めて牡蠣を並べていく。炭火はそれほど広い面積ではないので、8個ほど乗せるともう余地がない。焼き上がる前にとカキ飯を食べると、これがしっかりカキの味がついていて美味いのだ、さすがは産地のカキ飯だ。 「味が濃くて美味しい!」 「なかなかだな。入れ物をはるかに裏切ってる!」 宿でカキ飯は出たことがないので、これが初物ということになる。 「その殻にはフジツボがついてるし、こっちは硬い海藻だな。これほど見かけが悪い貝も珍しいんじゃないのか? 中に美味しい身が隠れてるなんて思えない。」 「聖闘士は…」 言いかけたカミュがちょっと頬を染めた。 「そうだな、俺もそう思う。」 うん、言おうとしたことはわかってるつもりだ。カミュとしては画期的な発想だろう。 「もうよかろう。1分半、経った。」 金バサミで次々と裏返していくと、殻の隙間からこぼれた汁が炭火に落ちてジュウッと派手な音を立てながら白い灰を巻き上げる。 「うわっ!すごいな!」 「服装を間違ったろうか?」 俺とカミュに細かく降り懸かった灰は柔らかくて、繊維にくっつくのが心配だ。でもこれも野趣のうちだろう。 あちこちでときおりバン!と鋭い音が響くのは殻が熱せられて部分的に砕ける音らしかった。 「そろそろ いいだろうか?」 カミュが一つ選んで紙皿の上に置いた。 「でも、どうやって開けるんだ?」 口が緩んでいいるものも少しはあるが、皿の上の熱々の牡蠣はピッタリと殻を閉ざしてどこから開けたらいいのかわからない。 「ハマグリもアサリもシジミも熱するとパクって口を開くのに、なぜ牡蠣は開かないんだ?」 「それは……」 「え?知らないの?」 「………まだ知らない。」 珍しいこともあるものだ。相当悔しいらしくて耳が真っ赤になっている。羞恥のせいでなくて屈辱のせいというのは俺も初めて見るカミュだと言っていいだろう。それでも、まだ、と一言付け加えるのがプライドを示している。 「少しくらい知らないほうが可愛いよ。俺もついていけるし。」 「私はべつに可愛くなくてもよい。」 「そんなことより牡蠣を開けようぜ、火が通り過ぎる!」 最初に渡されていたペーパーナイフ状の道具でこじ開ける箇所を探し、なんとか先っぽを差し込んでぐいっとひねって殻をずらすことに成功した。 「あちっ!」 殻を押さえていた指先に牡蠣から出てきた熱い汁がつく。 「気をつけろよ。火傷するわけではないが、かなり熱い。」 「うむ、これも食べ頃だ。」 「…ああ!これは美味い!」 「なんとも言えぬ!」 それからしばらくの間は食べるのに専念し、慣れてきたのでこじ開けるのもスムーズになる。 「おっと、アナゴも焼かなくちゃ。」 生のアナゴをひらいた切り身を網に乗せるとじきにいい焼き色がつき、くるんと丸まって、これが思いのほか美味しいのに驚いた。 「おい、ずいぶん脂がのってないか?寿司のアナゴとはずいぶん違うな。」 「うむ、これは良い!」 寿司のアナゴはひたすら柔らかいが、この穴子は身が引き締まって思いのほか脂が乗っていた。思わぬ収穫だ。 食べ終わった牡蠣殻はすぐ横においてある空の一斗缶に次々と投げ捨てる。そのたびにガランガランと音がするのもカキ小屋の風情というものだろう。 およそカミュにはそぐわないが、たまにはいいことにしよう。 銀座の一流店ばかりが五つ星とは限らない。U字溝、軍手、一斗缶、紙皿、そしてすぐそこにある海。どれも産地のカキ小屋には欠かせないアイテムだ。 「そういえば、なんで牡蠣って牡っていう字が入ってるんだ?牡牛は雄の牛だから、牡蠣の牡も雄っていう意味だろ?」 「牡蠣は雌雄同体で環境によって雄になったり雌になったりする。」 「えっ!そうなのか?」 「しかし、外部から確認できる生殖腺が同じであるため、すべてが牡であると考えられてあの字が当てられたのだろう。」 「ふ〜ん、知らなかったな。」 もしもカミュが雌雄同体で、状況により雌雄が入れ替わるとしたら……? ………いや、そんなことを考えるのはよそう! ろくなことはない そうそう、学問以外の話題を忘れるところだった 「知ってるか?」 ふっくらとした牡蠣をぱくっと食べる。 「え?なにをだ?」 「牡蠣には媚薬効果があるそうだ。牡という字は伊達じゃない。昔からそう言われていて、それを仄めかした絵画も残ってる。」 「えっ…」 「今夜まで効き目が続くかな?どう思う?」 「そ…そんなことは知らぬっ…」 「では二人でよく観察しよう。百聞は一見にしかずだ。」 「ん……」 「ほら!この牡蠣のふっくらぷっくりとしてるところなんか、いかにも美味そうじゃないか!なんだか官能的だな!」 「知らぬ!」 「艶々して弾力があってジューシーで。」 「……」 「機嫌、損ねた?」 「…そういうわけでは……」 「牡蠣の媚薬っていう話は単なる言い伝えだと思うぜ、気にすることはない。だいたい、そんなに都合のいい話がある筈はないからな。もしほんとだったら、ここに来ること自体がそうとう恥ずかしいことになるが、誰も気にしてるようには見えないぜ。迷信の類だろう。」 「そうか……そうだな。」 ほっとしたようなカミュが軽く頷いた。入り口の方を見ると、次から次へと客がやってくる。家族連れもいてにぎやかさが増してきた。 牡蠣に媚薬効果があると言うのはまんざら間違いではないようだ。牡蠣に多く含まれる亜鉛やミネラルは性欲を高めると言われているテスタスタロンを増加させる働きがあるという。そのくらいはとっくに調査済みだ。 「そろそろよかろうか。」 「うん、そうだな。今日は牡蠣を堪能したよ。」 「うむ、美味しかった。」 俺たちはいい気分でカキ小屋をあとにした。 今夜が楽しみだ。 テレビで見て羨ましく思っていたカキ小屋に、ついに行ってきました。 ワクワクして食べながら、ミロ様とカミュ様の会話を思い浮かべていたのは当然です。 連れていってくれた友人に感謝です。 絵画 「牡蠣を食べる娘」 → こちら 牡蠣は口が堅い → こちら |
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