川 床 (かわどこ) |
洛中の喧騒を離れて京都の北・貴船あたりまで足をのばせば、先ほどまでの暑さとは無縁の涼しさが二人をほっとさせる。 「ふうん、これはいい! 京都は暑いばかりと思っていたが、こんなところもあるんだな。」 「市内より10度ほどは低いと思われる。 涼しいのも道理だ。」 透き通った水音を立てる渓流に沿って登ってゆく小径は木々の緑が目に鮮やかで、先の楽しみに心も躍ろうというものだ。 初めての夏休みに黄金の国ジパングを選び、欧米人のエキゾチックな憧れの的である京都をその最初の訪問地に定めたミロの狙いは正しかったが、あいにく季節は夏真っ盛りである。 周囲を山に囲まれた京都の夏は蒸し暑い。 夏に一滴の雨も降らないギリシャから訪れた二人にはいささか酷に過ぎるというものだ。 「料理も素晴らしいし、お前が寺社仏閣に感嘆の声を上げるのももっともだ、京都は確かにいいところだと俺も思う。しかし、」 ミロが額の汗をぬぐった。 賀茂川べりの散策路には夕涼みの人影が三々五々見えてはいるが、日中の暑さはいまだ腰を据えている。 「この暑さはなんとかならんのか? だいたい、お前はどうしてそんなに涼しい顔をしていられるんだ?」 「私か? 自己の自律神経の働きにより体表面に接する大気の温湿度を最適に保ち活動が円滑に行なわれる環境を維持しているだけの話だ。」 「………素直に、小宇宙で楽をしている、って言えば?」 「それでは簡略化しすぎているうえに主観過多で、説明にならないが。」 「いいんだよ、学会で発表してるんじゃないんだから。 で、俺にも、それ、やってくれる?」 「そのためには……」 白磁のような頬にさっと朱が刷かれた。 ………え? どうしたんだ? 「私だけならいざ知らず、お前にもその環境を維持するためには、二者間の距離を可能な限り小さくすることが望ましいが、一般論として夏の京都の屋外では物理的に難しい。」 「ふうん………つまり、抱き合っている状態がベストってことね。 わかった、今はあきらめることにする。」 「ミロ! そんな大きな声で…!」 「平気だよ、ここじゃ、誰もギリシャ語なんかわからないんだから。」 「しかし…」 赤い顔をしてうつむいているカミュが人目にたつような気がして、今度はミロが慌ててしまう。 「おい、若い娘じゃあるまいし、赤面なんかしてくれるな。 わかった、俺が悪かったよ。」 そう言いながらミロがくすくす笑った。 出町柳から叡山電車に乗り込んで貴船口までは30分ほどである。 「ほぅ! これはよい!」 同じ京都とは思えぬほどに深山幽谷といった趣きがカミュを喜ばせ嘆声を上げさせる。 「なかなかいい風情じゃないか! ここから30分ほど渓流沿いに登って行けばすぐに着く。」 並みの日本人にとってはかなりきつい上り坂も聖闘士の二人にとってはなにほどのこともない。青息吐息の観光客をあっさりと追い越して行く背の高い二人の外国人は、市中と同じく目立つ存在なのだった。 「ほら、ここだ! このメモと同じ漢字が並んでる。 あとはお前の出番だぜ。」 予約しておいた店を見つけたミロがカミュを振り返った。 玄関先で東洋式にお辞儀をした従業員にカミュが英語で話しかけ、ミロにはわからぬ会話が交わされる。 「最上の席を用意してあるそうだ。 行こう。」 「そいつは楽しみだね、このためにはるばる来たんだからな。」 通された先は言わずと知れた川床である。 日本人にはよく知られているが、聖域に暮らしてきた二人にはいかにも物珍しい。 「ふうん! こいつは驚いた! パンフレットで見てはいたが、ほんとに川の上で食事するとはな!」 「川の水音もかなりのものだ。ギリシャではとても考えられぬ!」 渓流の中ほどの岩が速い流れを二つに裂いて、それがまた合流し飛沫を上げて流れ下る有様は、そんな流れを目にすることのなかった二人を喜ばせ、促されておそるおそる靴を脱いで歩く薄べりの感触も珍しい。 夕風に吹かれて座布団の上で早くも膝を崩しているミロがさっそく運ばれてきた冷酒を口に含む。 「こたえられないね、お前も少しはいけるだろう?」 「では少しだけ…」 きちんと正座をしたままのカミュがわずかに唇を湿し、やがてその頬は薄紅に染まるのだ。あたりの木々の緑が夕闇に包まれる頃には流れの上に張り渡された提灯に灯りがともり、それがまた水に映えていっそう美しい。 夏の暑さをのがれた京都の人々は昔からこの洛北の地に涼を求め、それがこの川床を生み出した。 山を流れ下る渓流に杭を打ち、台を掛け渡してそこで食事をするというやり方は、目にも耳にも涼しくて夏の暑さを忘れさせる格好の避暑の方法である。 宿のフロントでこのパンフレットを見たミロがカミュをせっついて英語で質問させて概要をつかんだあとは早かった。 その場で予約の電話をかけさせて、その夕方にはこうして貴船に来ていたのである。 「ん? 今度はなんだ?」 「これは…………たしかテンプラ………だと思う。 野菜や魚の揚げ物だ。」 「ふうん………このつゆにつけて食べるんだったな。 これはたぶんキノコだ。お前のはなに?」 器用に箸を操ったカミュが一口食べてから、折敷の左手に置いてある献立を書き出した紙片に目をやった。 「………キス…」 「…え?」 「キス………と書いてある。 あとのは野菜や海老なので、それしか考えられぬ。」 「キスって………」 一瞬黙り、それからちらっとカミュを見ると真っ赤な顔をしてうつむいている。 髪の間からわずかにのぞいている耳朶も同様で、見ているミロの方もつられて赤くなる。 渓流の水音が急に大きくなった。 「ええと………よくわからんな……ともかく、俺のも食べてみよう!」 同じ形のを選んでぱくっと頬張ったミロが、ほぅ!という顔になる。 「こいつは美味いぜ。 外側はさっくりとして中はふわりと甘いじゃないか! 俺のみるところ、どうやら白身魚のようだ。 それにしても、ほんとにキスなんて名前の魚がいるのか? いったい日本人は恥ずかしくないのか?」 「………さぁ?」 そこへ都合よく仲居が鱧 ( はも ) の葛叩きの清し汁仕立てを運んできたので、ミロに催促されたカミュが頬を赤らめながら英語で質問することになった。 するとペンを取り出した仲居が紙になにやら字らしいものを書いて説明を始めたものだ。やがて空いた器を盆に載せた仲居が行ってしまうとカミュが真面目な顔でミロを見る。 「キスというのはやはり魚の名前だが、むろん、いわゆるキスの意ではない。 魚の身が白いことから、潔=きよし、となり、それがさらに変化してキスという名前になったらしい。」 「ふうん、すると、きれいとか清らかって意味なのか!」 「うむ、ちなみに漢字で書くとこうなるのだが、」 献立を書いた紙片に早くも筆順を会得したカミュが几帳面な筆跡を披露する。 「この左側の部分は魚という意味の漢字で、こっちの右側に来るのは、喜ぶ、という意味の漢字だそうだ。 喜ぶ、という漢字は、き、とも発音し、そのためにキスという魚の漢字になったのだろう。 日本では、魚の名前はすべて左側にこの字が配置されているという。」 「ほぅ! それは面白いな。 すると、木の名前の漢字にはぜんぶ、木、っていう字がくっついていたりして。」 [まさか、そんなこと。」 「うん、俺もまさかと思う。」 笑い合った二人は、京の夏を代表する鱧に取り掛かった。 「カミュ………どこにキスして欲しい?」 「え……そんなこと……」 「どこでも好きなところにキスしてやるぜ………ここ?……それとも…」 「あっ………ミ………ロ……だ…め………だめだから…」 「ん〜、ここじゃ困るの?」 「………困る…」 「でも俺はカミュを困らせたい ……もっと、って言ってくれたらやめてもいいけど。」 「そんな………そんなこと、私は……」 「言ってくれなきゃ、やめない。」 「ミロ……あ……」 そんな………そんなこと言えるわけはないのに……… ……でも……このままでは……………あ……ミロ…い……やっ…… 混乱した想いが肌のほてりに拍車をかけ、それがまたミロの唇に熱を与えてゆく。 カミュは決意せねばならなかった。 「ミロ………あ…の………もっと…」 「ん〜どうしようかな………もっと、って言われちゃ、続けたほうがいいのかな………こんなふうに……」 「……ミロっ…」 なおも翻弄される我が身が悔しくて、そむけた瞳から涙がこぼれ枕を濡らす。 「あ………ごめん……………泣かせた……」 やさしい手に抱き起こされて広い胸にかかえられると、あふれる涙は止めようもないのだ。 「ミロ………ミ……ロ……」 「ごめん………ほんとにごめん………」 やわらかい口付けが幾度も髪に与えられ、いとおしげに頬を寄せられた。 「ほんとに愛してるから………なによりも大事だから………カミュ……俺のカミュ………」 わかっている………よくわかって…………… わななく唇が押し当てられていった。 天麩羅の揚げたてはほんとに美味しいです。 うちでは揚げるばかりで、なかなか熱いのは食べられません。 個人的には、天麩羅はお店でいただくのがよろしいかと。 |
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