蚊帳 (かや)

「あれっ?これはいったいなんだ?」

浅草から戻ってきて美穂たちに土産物を渡した二人が夕食を終えて離れに戻ってくると、奥の十帖間に見慣れない不思議なものがある。
二組のフトンがしいてあるのは今までとなんら変わりはないのだが、その周囲、部屋の空間をいっぱいに使って、向こう側が透けて見えるようなごく薄手の織り地で作られた大きな立方体が室内に設置されているのだ。
「ほう! これが蚊帳か!」
「蚊帳? 蚊帳ってなんだ?」
ミロが淡い緑色の薄い布地を指先でつつくと、思ったよりも張りがあり、どうやら麻でできているもののようなのだ。
「昔の日本には、網戸というようなものがなかったので、外から蚊が侵入するのを防ぐ手立てがない。 湿気の多い日本では蚊も大量発生するので、暑い夏に安眠を得るために考え出されたのが、この蚊帳なのだ。 」
「ふうん、蚊除けなんだ!」
「蚊帳の歴史は古く、西暦720年に完成した日本書紀という伝存最古の歴史書に、中国の呉から蚊屋衣縫 (かやのきぬぬい) という蚊帳作りの女性技術者が渡来したことが記されている。 もっとも中世までは貴人が用いるもので、庶民の手の届かぬものであったようだ。 現在の日本では、網戸が普及し、建物の機密性も高くなったので、蚊帳はほとんど使われていないらしい。」
「で、どうしてここに蚊帳が? こうやって入ればいいのか?」
ミロが蚊帳の裾を持ち上げて、中に滑り込んだ。 いつもと同じフトンなのだが、柔らかい緑色に包まれてなんだか違った気分になってくる。
「お前が日本の古いものに興味を持っているので、文献で読んだことのある蚊帳のことを思い出して美穂に聞いてみたところ、用意をしてくれたのだ。 どうだ、気に入ったか?」
「ふふふ………気に入ったか、なんてものじゃない♪ そんなとこに立ってないでお前も入ってみろよ、ちょっといいぜ♪」
さっそくフトンに寝そべったミロは、天井を見上げてご満悦である。

   カミュのやつ、なんて気が効いてるんだ♪
   こともあろうに、俺たちの愛のしとねにこんな風流なしつらえをしてくれるとはな!
   俺はもぅ、笑いがとまらんよ♪♪

「なるほど、これは面白い! 私達には頭がつかえるが、小柄な日本人なら立って歩けそうだ。 」
蚊帳を部屋の四隅から吊っている仕組みを確認したカミュが、優雅な物腰で薄地を持ち上げてすいっと中に入ってきた。 麻の匂いがちょっと独特で、それもまた異国情緒をかき立てる。
「行灯の灯り………小さくするぜ…」
ミロが手を伸ばし行灯の紐を引くといつもと同じ暗さのはずが、見慣れた襖や床の間が淡緑の薄いヴェールを透かしてぼんやりとして見えて、なにやら不思議な心持なのだ。
「ほう………これが蚊帳というものか。 やはり本で読むだけでは、感覚がつかめぬものだ。 」
天井の隅から空調の風が出て蚊帳の薄地をふわふわとそよがせているところなど、案外に面白い。
「なかなかいい贈り物じゃないか♪」
「え?」
「浅草土産のお返しに、せっかく用意してくれたんだ。 俺は大いに感謝している………」
「あ……」
蚊帳の裾を整えていたカミュの手が引き戻されたときには、もうミロの唇が甘い蜜を求めてカミュのそれに重ねられている。 たちまち朱を散らしてゆく玉の肌に気を惹かれ、物慣れた手つきで襟元をくつろげてゆけば、恥じらいのうちに洩らされる浅い喘ぎがミロを歓ばせるのだ。
「カミュ………」
その声に呼応して伸ばされた腕がしなやかにミロの背をとらえ、我が胸にかかえこみ離そうとしないのはカミュなりに夜を待ち焦がれていたからなのだろう。
「どうして欲しい?………やさしくも、またそうでなくても、お前の好きなようにしてやるぜ♪」
「そんな………」
そむけた顔をのがさず薄桃色に染まった耳朶を軽く含んでやると、しなやかな身体に震えが走り、さらに口中でまろばせれば、口をついて出るのは喜悦の声に他ならぬ。

   この反応の良さがなんともいえないんだよ……カミュを好きにできるのは、俺だけの特権だからな♪

「いいね……もっと聞かせて……カミュ………」
そう言われて我に返り、唇を噛みしめるカミュだが、もう次の瞬間にはミロの唇が首筋から胸に伝い下りてきて甘い吐息を洩らさせている。 次の仕打ちを予感して震える身体がミロにはたまらないのだ。
「お前の声は天上の音楽だ……俺が満足するまでリピートしてもらおうか♪」
甘くせつない喘ぎが、ミロの耳をこころよくくすぐっていった。

「どう? 初めての蚊帳の夜は……?」
「…ん………」
「なかなか良かったぜ♪ 麻の匂いがエスニックで。 むろん、お前の反応も♪」
「そんな……」
恥ずかしげにミロの胸に顔を伏せるカミュが可愛くて、艶やかな髪に口付けを繰り返す。
「知ってるか? 蚊帳を使ってたってことは、戸を開け放して風を入れてたってことだ。 安土桃山時代に日本に来た宣教師も、人々が戸に鍵をかけず開けっ放しで寝ていることに驚き、日本人は人を疑うことを知らぬ幸せな民族だという書簡を残してる。 つまり、そのころのヨーロッパでは戸締りが必要だったということだ。でも日本では、昔から、夜の戸締りなんかしなかったんだよ。」
話しながらミロの手が再びカミュをいつくしみ始め、枕元に流れていた黒髪が蚊帳の裾をわずかに震わせる。
「だから……」
「……だから?」
問い返す声もかすれて、薄闇に紛れて消えそうなのだ。
「蚊帳の中で寝ていると、いつ誰が入ってくるかわからない……好き者が外を通りかかる可能性だってあるってことだ。」
カミュがびくりと身を震わせて、ひしとしがみついてきた。
「そんなとき、お前が声を出してたら……」
「ミロ……ああ…ミロ……」
不安げな声で名を呼ぶカミュがいとしくて、ミロは微笑んでしまうのだ。
「でも、大丈夫だよ……それは昔の話だ。 ここは戸締りも厳重だし、こう見えても、俺も密かに小宇宙を発動してる。 大事なお前との閨には誰も近づけないから安心して♪」
やさしく額に口付けると、ほっとしたのか溜め息を一つついて身を揉み込むようにするのがたまらない。
「つまり蚊帳には、そういう危ういところもあるってことだ。 風情だけじゃなかったんだよ、昔はね♪」
「今でよかった…」
「まったくだ! 大事なお前を人に見られるわけにはいかんからな、ほんとに現代でよかったよ♪」
くすりと笑いながら抱き寄せて白い肩を包んでやった。
「大好きだ、カミュ……」
「私も…」
こころよい眠りが二人を包んでいった。

ミロが目覚めたのは夜中過ぎである。 枕元に手を伸ばしたが、水差しを置くのを忘れていたのに気付き隣室に行く。
喉を潤して戻ってきたミロを瞠目させたのは蚊帳の中のカミュである。
半ばこちらを向いて寝入っているのだが、少し乱れた髪が滑らかな頬にかかり、力なく投げ出された二の腕の白さが目にまぶしい。申し訳け程度に身体をおおう掛け物は、艶めいた線を隠しきれずにしどけない寝姿を露わにするばかりなのだ。 それだけでも十二分に頭に血が昇るというのに、そのすべてを、蚊帳の薄緑のヴェールがさらに魅惑的に見せているのではなかったか! よく見えないぶんだけ、即刻 払いのけて近寄りたくなるというものだ。 聞こえているのは無心な寝息なのに、ミロの頭の中では自分の心臓の音が響き渡っているのだった。

   これは驚いた!
   ただでさえほうっておけない気分になるっていうのに、蚊帳を透かして見るとここまで扇情的とはな!
   ほんとに今の時代でよかったぜ、昔だったら、このカミュをおいては1分たりとも留守にはできんところだ!

思いもよらぬ蚊帳の実力に舌を巻いたミロがそっと寝床に滑り込むと、なにかつぶやいたカミュが身を寄せてくる。 その魅力に効しきれず、背を流れる髪ごとそっと抱き寄せてしまうミロなのだ。

   ほんとにお前は世界一の聖闘士だよ、俺は諸手を挙げて降参するぜ♪

このあと果たして眠れるものか、かなりの危惧をいだきながらミロも目を閉じていった。





                       あっさり書くつもりが、ちょっと(かなり) 黄表紙に。
                       蚊帳で寝たことがないので、すべては想像です。
                       でも、きっとこんな感じ。
                       ミロ様にはお喜びいただけたことと思います。

                       え? カミュ様ですか?
                       さ、さあぁ〜〜? たぶんお喜びいただけたのかしら??

                      
 「カミュのことなら任せてくれ。 結局あのあと、カミュを歓ばせて……」
                       「やめぬか、ばかものっ!」
                       「あっ、カミュ〜〜〜っ!!」