国立科学博物館

「ミロ……明日は国立科学博物館に行かぬか?」
カミュがそう言ったとき、俺はちょっと考えた。

   科学博物館といえば、1月に 「 翡翠展 」 を見に行ったところじゃないのか?
   あれは実にきれいだったな、今でもまぶたの奥にあの鮮やかな緑が浮かんでくるぜ!
   カミュの白い肌に翡翠の首飾りがどれほど似合うことか、と思ったから忘れるはずもない♪
   いやまったく、実に楽しいひとときだった♪
   明日はカミュとゆっくりしっぽり♪……と考えてはいたのだが、
   アカデミックな環境でカミュのことを考えるのも、なかなかオツなものだろう♪

「いいぜ、行こう♪」
俺は軽い気持ちで答えると、もう一度カミュに口付けていく。
「ねぇ、カミュ……こないだの翡翠展、覚えてる?」
「ん………」
目を閉じているカミュは小さい吐息を洩らすのみで、はっきりした返事が返ってこないのも無理はない。 いつくしんでいる俺はともかく、いつくしまれているカミュに返事をする余裕などあるはずもないのだから。
「お前の肌には、きっと翡翠が似合うぜ♪」
俺の言葉が聞こえたのかどうか? 甘い溜め息が俺の耳をこころよくくすぐった。


国立科学博物館は、上野の森の中にある。
翡翠展に来たときは冬真っ只中だったが、3月ともなれば光の色も春めいて、柳の芽も膨らんで見えるのだ。
「この公園には博物館や美術館が数多くある。 その中でも東京国立博物館は、明治5年3月10日に湯島聖堂大成殿を会場として文部省博物局によって開催された日本で初めての博覧会をその前身としている。 その翌年には内山下町 ( 現在の帝国ホテルのあたり ) に移り、ここ上野には明治15年に移転してきている。 」
「ん? それは科学博物館じゃないのか?」
「うむ、東京国立博物館は美術・歴史の二分野を受け持ち、これから私たちが向かう国立科学博物館とは別物だ。 科学博物館の変遷はもう少し複雑だが、やはり湯島聖堂の博覧会から始まって、昭和14年には国立博物館から動・植・鉱物標本を主とする収蔵品が譲渡されている。 上野の本館が落成したのは昭和5年だから、国立博物館に遅れること35年ということになる。 国立博物館には、他に京都国立博物館と奈良国立博物館があるが、今年の10月には、これに九州国立博物館が加わることになっている。」
これだけのことをすでに頭の中に入れているカミュには、まったく感心させられる。 俺など、ギリシャの博物館の変遷を覚えようと思ったこともない。博覧強記とは、まったくカミュのことをいうのだろう。

気がつくと、たくさんの日本人が同じ方向に歩いており、俺とカミュが科学博物館に入るときには、さらに先を目指す人々の方がはるかに多いのだ。
「あれ? みんながここに来たわけじゃないんだな。」
「あの人々は、この先にある東京国立博物館に行くのだろう。 広大な敷地内に本館・東洋館・平成館・表慶館・法隆寺宝物館などがあり、その規模は日本有数のものだ。 日本の有名な仏像の展覧会があるから、そこへいくのではないのかと思われる。」
「ふうん、 俺たちはシャカじゃないから、日本の仏像にはあまり興味がないな。」
そんなことを話しながら科学博物館の中のエスカレーターに乗った俺は溜め息をつく。
「どうした?」
「このエスカレーターっていうのが、どうにも性に合わなくてさ。三段跳びくらいであがったほうが早いし、気分がいいぜ。そうは思わんか?」
「速さを求めているのではなく、足腰の弱い人間のためなのだろう。 私もできることなら階段が好ましいのだが、郷に入っては郷に従えともいう。 それに階段なら十二宮に、それこそ十二分にあるのだ。 たまにはこういう乗り物もよかろう。」

   十二宮か……もしもあの階段がこれみたいなエスカレーターだったら??
   老師にはいいかもしれん、いくら黄金聖闘士とはいえ、当年とって261歳だからな。
   しかし、デスマスクあたりはとても我慢できんだろう!
   あいつがこんなまだるっこしいものに毎日乗るとは、とても思えん、
   設置した翌日には、巨蟹宮までの分は、破壊されてるんじゃないのか?

その悠長極まりないエレベーターを二回乗り換えて着いた3階フロアには、子どもの数が圧倒的に多かった!
「え?なんだ、これは? どうしてこんなに子どもがいるんだ??」
俺は唖然として立ち止まった。

   博物館というのは、教養ある大人が静かに展示物を見てさらに知識を身につけるところじゃないのか?
   カミュじゃなくたって、そのくらいは常識だろう。
   この間の翡翠展だって、大人ばっかりだったぜ。
   なのになぜ、こんなに子どもがいる???

カミュが俺の思っているとことを察知したらしい。
「子弟の教育のために、科学博物館の入館料は高校生までは土曜日に限り無料になっている。 もっとも、平日も70円と安価なので子どもには来やすい額だと思われる。」
気がついてみると、このフロアは森の自然を模してあり、昆虫だの動物だのの展示に工夫を凝らしてあるようだ。
そして、フロアの半分は大型動物や、角の見事な動物などの剥製が並んでおり、なかなか壮観だった。
特に大型の牛や羊の類の角はムウの聖衣を思わせるものがあり、思わず頷いてしまう。 それは確かに俺の聖衣も両肩に角状の突起があるが、ムウのほどには目立たない。蠍の毒針をイメージしてあるのだから、角とはまったく違うのだが。
角といえば、アルデバランは牛の、そしてシュラは山羊の角をデザインした聖衣らしいが、そういえば今までそんなことは考えたこともなかったものだ。
なにしろ、聖衣といえばカミュの聖衣しか考えたことがない。
なんといっても、カミュの聖衣の美しさときたら、他の全てを圧倒するといえるだろう。 その比類なき聖衣を、これまたこの世で一番美しいカミュが身につけるのだから、美の極致の具現化といえる。
もう長い間、カミュの聖衣姿を見ていない俺は、心の中で黄金の姿態を思い浮かべて陶然となる。 聖衣をつけた姿はあんなにも凛々しく美しいのに、俺に抱かれるときは一転して限りなく艶めくのが、えもいわれぬ魅力なのだ。

   聖域に帰ったら、なんとか理屈をつけて黄金聖衣を身につけてもらおう!
   それをたっぷり鑑賞したあとで、ゆっくりとカミュを………♪

そんなことを考えてニヤニヤしていると、さすがのカミュも子どもの多さに辟易したのだろう、下の2階のフロアに降りることにしたようだ。
下の階は………「科学技術の発達の歩み」とやらで、大型機械の発明の変遷やら、航空機や自動車のエンジンの設計図・資料なんかが飾ってあるだけだ。
ちらっと見ただけでつまらなくなった俺は、カミュに、下に行こう、と誘うために振り向いた。
するとどうだろう、カミュが日本人の男と(おそらく)英語で話を始めているではないか! IDカードを首から下げているところをみると、どうやらここの職員らしい。

   え? え? どうしたんだ?
   ああ………説明の札を指差しているところを見ると、詳しい解説を聞いてるんだな  
   説明文の英語の部分だけでは、短すぎてカミュの学問的欲求に応えきれんというわけだろう………

しかし、そのあとが長かった!
展示品が渋すぎるせいでこのフロアには子どもは一人もおらず、係員も暇だったのか、カミュの問いに懇切丁寧な説明を始めたらしい。 しかたがないので順路を一巡して数分で戻ってくると、最初の場所から一歩も動かずまだ話が続いている。
それも、さっきより親密度がましたようで、あのカミュが時折り笑顔をみせているではないか!

   な、なにぃ〜〜〜っ!!
   冗談じゃないぜっ、カミュの百万ドルの笑顔は俺だけに向けられてしかるべきだっっ!!!!
   どうして見知らぬ男にそんなに親しげにできるんだ???

俺がイライラし始めているのにも気付かないのか、一つの展示場所に短くて5分、長いときには15分もいて、俺はだんだん怒りの小宇宙が増大するのを押さえるのが困難になってきた。

   どうやら今聞いているのは、百年前の工作機械の話らしいが、
   そんな古臭い錆だらけの機械より、俺のことをもっと気にかけてくれてもいいんじゃないのか??
   俺の身体が錆付いたら、お前を抱けなくなるんだぜ?
   お前は俺の潤滑油なんだから、俺から離れてくれるなっっ!

もっともカミュも、俺をほうっていることが少しは気になるようで、時々は俺の方をちらっと見ることは見る。
しかし、カミュに俺の不快感をあからさまに悟らせるのも嫌なので、俺はカミュの視界からははずれた角度に立っている。
そして、カミュが俺のほうを見るときにはこちらも知らん顔して展示品を見ている振りを、ついしてしまうので、カミュは俺の不機嫌さをさして重大なものとは考えていないらしいのだ。
結局このフロアで2時間もかかり、俺は手持ち無沙汰なのと、カミュを独占している係員に対する嫉妬のあまり卒倒しそうだった。
しかし、久しぶりに学問的好奇心を満たして嬉しそうなカミュに、俺のほかの男としゃべるな! などという大人気ないことを言えるわけがない。 一刻もはやくこの建物からカミュを連れ出したい、と思いはするものの、次の1階のフロアは「生物の進化と多様な生き方」というテーマで、またまたカミュの目が輝くのだ。

   頼むから、目を輝かせるのは俺を見たときだけにしてくれ!
   それもベッドの上なら、さらに理想的だ!
   昨夜俺に抱かれたときに、お前の蒼い目が歓びに輝いたのを俺は忘れんっ!
   どうして、ジャイアントケルプやキリンの舌を見て、そんなに喜ばねばいかんのだっ!

このフロアには子どもがあふれていたので、これなら係員も忙しいだろうと思ったのも束の間、子どもの教育環境を重視しすぎているためか、係りに質問などしなくても解説を読めば子供にも納得できるらしく、やはり暇そうな係員がカミュを捕まえてしまうのだった。 真実は、カミュが係員を見つけたのだが、俺にはどうしても係員が邪魔者に見えてしまうのだからしかたがない。

   カミュを捕まえるのは、このスコーピオンのミロだけだっ!
   げんに昨夜だって、俺がこの腕でカミュを……っ!
   俺に捕まえられたお前は、控え目ながらあんなに歓びの色を見せていただろうが!!

数ある展示品の中には鮮やかな金属光沢の緑に輝く蝶や、体長13cmもある巨大なカブトムシなどがあり、説明の読めない俺にもそれなりに面白くはあったのだが、そんなものはいつまでも続きはしない。考えるのに疲れ果てた俺はフロアの壁際に用意されている椅子に腰掛けて、カミュの知的好奇心が満たされる瞬間を待つことにした。 ふと気付くと俺のそばには、あちこち動き回る子供について歩くのに疲れた親たちがぐったりと腰を下ろしているのだった。

   どうして、このスコーピオンのミロともあろう者が、こんなていたらくを晒さねばならんのだ!
   俺の青い目は南米のモルフォ蝶より美しいとは思わんのか?
   おれの金髪はオウゴンオニクワガタより輝いているんだぜ?
   その俺をほうっておいて、カミュ、お前は俺の爪より小さいゴマハゼなんかに見入っているのか???

なんだか情けなくなってきた俺は、深い溜め息をついた。
1月に翡翠展を見に来たときは、ともかく楽しかったものだ。 同じ科学博物館といっても特別展だったので、会場中が翡翠で埋め尽くされ、緑の洪水だったといっても過言ではなかったろう。
俺にとって翡翠といえば、燕の昭王が浮かんでくるのは当然だ。 昭王が身につけていた佩玉は銀と翡翠の品だし、カミュとの逢瀬にはめていた腕輪は、色鮮やかな緑の翡翠に手の込んだ浮き彫りが施してあったではないか。それに首にも銀と翡翠の首飾りめいたものを掛けていたはずだ。 カミュもそのことを考えていたらしく、幸い、おせっかいな係員もいなかったので、俺たちは美しい翡翠の展示品を眺めながら十二分に夢に浸ることができたのだ。
浮き彫りこそなかったものの、美しい緑色の腕輪もあり、俺の胸は喜びでいっぱいになった。 ギリシャあたりでは翡翠は一般的ではないのでろくな知識もなかったが、最上級の翡翠の緑のなんと美しいことだろう! これが昭王の身の回りを飾っていたのかと思うと、どきどきせずにはいられない。
逢瀬の夜に昭王が腕輪をはずさなかったとすれば、時折り白い肌に触れる翡翠の冷たさがカミュを震わせなかったろうか。?
槐の葉をこぼれ落ちてくる月の光に緑の翡翠が濡れたように耀いたのではなかろうか?
翡翠展を見ていたときの俺たちは幸せで、小声で様々なことを話し合い、夢見て歩いたものだった。
あの時の俺たちは、いったいどこへ行ったのだろう?

「ミロ、すまぬ、遅くなった。」
そう言ってカミュが俺のところへやって来たときには、ここに入館してから5時間が経っていた。
「ああ……満足したか?」
「うむ、実に有意義な時間だった。 あまりに長くなったゆえ、残念だが残りのフロアは次の機会にしようと思う。」
「………え? ここでおしまいじゃなかったのか???」
「科学博物館は地上3階、地下3階の建物だ。 あとの3つのフロアのテーマは 『 恐竜の謎を探る 』 と 『 誕生と絶滅の不思議 』と 『 宇宙・物質・法則』 となっている。」
ここが1階だったので、つい最後のフロアだと思い込んでいた俺は仰天せずにはいられない。 言われてみれば、今までのところには宇宙のことはなかったし、水と氷の魔術師といわれるほどのカミュがもっとも興味を持ちそうなのは、 『 物質の三態 』 とか 『 熱の放射 』 とかのことではなかったのか? 一番上から見てきたので、俺たちは、カミュが一番見たい展示を見ていなかったのだ。
考えてみれば、聖域に戻れば、カミュがこんな科学の殿堂とでもいうべき場所で時間を過ごすなど有り得ない。 俺には苦痛でしかなかったこの時間が、カミュにとっては、またとない学究の時間なのだろう。 自分のことばかり考えていた俺は、ちょっと反省せずにはいられない。
「もういいのか? 閉館時刻まで下のフロアを見てもいいんだぜ?」
出口に向かって歩きながらそう聞いたら、
「いや、私ばかり楽しんでしまい、お前にはすまぬことをした。 またいつか来よう。」
きっぱりとそう言ってくれたカミュが嬉しくて俺が微笑んだとき、出口のところに貼ってあるポスターに目が行った。
「カミュ、俺はこれを見たい♪ この近くでやってるんじゃないのか?」
「え………? ほぅ、 『 The Dancing Satyr 』 ではないか! ちょっと聞いてこよう。」
近くに立っていた係員に話しかけたカミュが、すぐに戻ってきた。
「ここから5分もかからぬそうだ。 十分に見ることができる。」
「よし、ゆこう♪」
「うむ、ゆこう♪」
ポスターの中から、一体の青銅像が二人を見送っていた。




                     カミュ様とお付き合いしていると、本当に物知りになります。
                         国立博物館も科学博物館も大好きですが、
                         その沿革まで学習することになるとは、思いもよりませんでした。
                         その余波で登場した九州国立博物館は大宰府に置かれます。
                         全くの新設なので、他の三館のような重みのある建物でないのは残念ですが。
                         
                         先日、サテュロスを見たあとで科学博物館の平常展を見てきました。
                         入り口からいきなりエスカレーターで一番上の3階まで行ったので、
                         ミロ様と同じく、地下部分があるなんて、さっきパンフを見て気がつきました…。
                         面白くて時間がかかり、一階を回ったところで帰らなくてはならなかったのです。
                         
                         で、見ている最中に 、
                         「見聞録にしよう!」 と思いつきました。
                         そう思うと、回り中、ネタだらけ♪
                         ミロ様、ちょっと可哀そうだったでしょうか?
                         この 「 科学博物館」 には、続篇が2つできる予定です。
                         こんなに長大になっちゃったので、とても一つにはできなくて。
                         
「 あまりに長くなったゆえ、残念だが残りのフロアは次の機会にしようと思う。」
                         と、カミュ様もおっしゃっておられますので (笑)。

                         最後のお二人の台詞は 「 陰陽師 」 からの引用です、ちょっと遊んでみました。