味 噌 カ ツ

明治村から名古屋駅に戻り、帰りの新幹線にはまだ時間があるので味噌カツを食べることにした。名古屋に来たからには当然だろう。
「そうなのか?」
「そうだよ。なんならデザートに小倉トーストをつけてもいいぜ。」
「いや、それは遠慮する。」
カミュが笑いながら言う。俺としては実は食べてみたかったりするんだが、次の機会に譲ることにしよう。

聞くところによると、名古屋の喫茶店で朝にコーヒーを頼むと必ずなにか、たとえばトーストやゆで卵などがついてくるのだそうで、ほんとかどうか試してみたい。コーヒーと言われてコーヒーだけ出すのではだめだというのだが、そんなことがあるのだろうか?
単なる噂に過ぎないのか、それとも特筆すべき県民性なのか、ぜひとも知りたいところだ。

「私はトーストは頼んでいないが。」
「サービスでおつけしております。」
「摂取予定カロリーをオーバーするので困る。」
「そりゃ、そうだな。残すのももったいないから、俺がお前の分も食べてやるよ。」
「いまトーストを二枚も食べたら、昼食の味噌カツに差し支えるのではないのか?」
「あ…」
そんなことになりかねないと思うんだが。

「ええと、どこの店がいいかな?」
「まったくわからぬときは、デパートのレストラン街にいくのがよかろう。味に間違いはあるまい。」
「そりゃ、そうだ。」
駅周辺の地図を見ると名古屋駅に直結して松坂屋がある。
「ここにしよう、松坂屋だ。」
地図を見ながら7階に上る。明治村で相当歩いたので、なにか食べたくてしかたがない。

   味噌カツも食べたいが名古屋コーチンもいいし、悩むところだな
   それから名古屋といえば…

「海老フリャア。」
「…え?」
「名古屋といえば、海老フリャア、常識だぜ。」
「ほんとうにそう発音するのだろうか?」
「う〜ん、どんなもんかな?実際には誰も言わないって話も聞いたことがあるし、真偽のほどはわからん。」
来なさい⇒いりゃあ、見なさい⇒見やぁ、書きなさい⇒書きゃあ、というような語尾活用があるらしいから、その転用で誰かが冗談で言い始めたのかもしれない。
こんなことを考えるのはカミュの影響かな?やっぱり。

「…あれ?」
「ここがそうか?」
目標のレストラン街のはずがなんだか様子が違う。
「ほんとに松坂屋?」
「違う区画に迷い込んだのだろうか?」
そう思うくらいに雰囲気が違う。時々行く東京のデパートのレストラン街は、資生堂パーラー、なだ万、今半などの名だたる店が軒を連ねていて客が気後れすることもあるくらいに高級な雰囲気にみちあふれているというのに、ここはずいぶん庶民的に見えるが、気のせいだろうか?
店の前に出されたテーブルにはところ狭しと料理のサンプルが並べられ、『 おすすめセット料金 』 とか 『 夕方5時からはアルコール半額!』 などの人目を引くキャッチコピーが大きな字体で踊ってる。
その隣の店では暖簾の向こうにずらりと並ぶ丸椅子に座って賑やかにやっている客の後ろ姿が見えて、ほとんどガード下の飲み屋と変わらない。これにはまったく驚いた。
「名古屋だとデパートのレストラン街はこうなのか?」
「ほかのデパートを見ていないのでなんともいえないが、東京だけが特別ということも考えられる。」
「う〜ん、入りやすいのは間違いないな。東京と違って全然緊張しない。」
もちろん俺たちはどんなレストランでも緊張などしないが、それでも最上級のマナーを心掛けるように気を使ってる。
ところがここは…
「恐ろしく庶民的だな。」
「せっかくノンアルコールビールを飲めるようになったのに、お前がやいのやいの言うので飲み屋というところに来たことがなかったが、なるほどこんな感じなのだな。」
「ええと………まあ、そんなところだ。」
本格的飲み屋はまだまだこんなものではないが、カミュに見せるには十分だろう。
味噌カツを出している店が何軒もあるので、その中で適当そうな店を選んで中に入ると、客のほとんどは仕事帰りのサラリーマンらしく、あちこちで声高に喋っているのが賑やかだ。
この店の造りはかなりレストラン的だが、今までに入った中ではいちばんくだけているのは間違いない。
「だって、飲み屋はお前のムードじゃないからな。」
「それは勝手な決め付けにすぎない。」
「そう言うが、そぐわないのは事実だ。」
「私はけっこう好きだが、だめか?賑やかでよい。」
「う〜ん、端正すぎるんだよ、お前は。」
隣のテーブルでは4人組のサラリーマンが仕事の話に花を咲かせながら酒を飲んでいてご機嫌だ。取引先や営業の話に熱が入り、そんな話は滅多に聞いたことがないので新鮮だ。
机上のメニューを見て味噌カツ上定食を頼むことにした。
「それから、ええと……八海山 ( はっかいさん ) がいいかな?」
壁にはお勧めのメニューや酒の値札がたくさん貼ってあって、そんなところも斬新だ。というか、有り得ない。ほんとにデパートのレストラン街だろうか?
そして特筆すべきことだが、東京に比べてずいぶん安い。越後の銘酒八海山がこんな値段で飲めるとは!それも最高級の純米吟醸だ。 新橋で見た値段はこんなものではなかったはずだ。
「じゃ、八海山とノンアルコールビールね。」
「はい、八海山とノンアルコールビールですね、お客さん、東京から?」
国籍を聞かれなかったのは初めてだ。
「東京じゃなくて北海道。国を聞かれるかと思った。」
「聞かれ飽きてるでしょ。お客さん、あんまり日本語が上手いから日本育ちかと思っちゃって。」
「そうじゃないけどね。」
「それだけ喋れてルックスもいいならテレビに出られますよ〜」
「考えておくよ。あと海老フライも頼もうかな。」
「はい、海老フライですね〜。」
年配のウェイトレスはきわめて気さくで親しみやすい。やっぱり東京とはかなり違う。そもそもスタッフがてんでに好きなエプロンをしているところから違っている。

   東京感覚は捨てるべきだな
   なぜか名古屋のデパートのレストラン街は特殊な形態に発展を遂げたというわけだ

店内はサラリーマンたちの話し声で賑やかで、こんな雰囲気はカミュには珍しいに違いない。俺にしてもこんな感じは去年の夏にデスマスクと新橋で飲んで以来だ。
「どう?珍しいだろ?」
「実を言うと面白い。テレビでよく見る飲み屋のようだ。」
本格的飲み屋とは違うが、客のほぼ全員が飲んでいるサラリーマンなので、間違いでもないだろう。
さりげなく観察していると、お目当ての味噌カツがやってきた。
「ああ、これこれ!楽しみにしてたんだ!」
「美味しいですよ〜、ゆっくりあがってくださいね。」
うん、やっぱり東京とは違う。東京の松坂屋でこんな会話はしないのは明白だ。味噌カツはこんな雰囲気のほうが似合う気がする。
そして、初めて食べた味噌カツはたいそう美味だった。
「ふ〜ん、けっこう甘いんだ!」
「これはコクがあって美味しい!」
名前だけしか知らなかった味噌カツだが、最初の一口で俺もカミュも気に入った。
トンカツ自体はごく普通だが、とろりとかかっている濃い焦げ茶色のソースが甘めの味噌味で、なんの予備知識もなかった俺たちには予想外だった。
「こんな食べ方もあるのだな。」
「この色の濃いのは?」
「このあたりの名産の八丁味噌を使っているのだろう。」
「ああ、これが八丁味噌か!」
これまでずっと普通のトンカツソースで食べていたので、初めて食べる味噌カツはとても印象的だった。キャベツとの取り合わせもよくて俺もカミュもきわめて満足したのだった。

店の出口で会計をしていると、カミュが味噌だれを売っているのを見つけた。
「これはよい。一瓶買って帰ってスタッフへの土産にしよう。 私たちの分も買ったほうがよいか?」
「ああ、それっていいな。 二瓶買って、一つはボトルキープしようぜ。」
こうして俺たちはソース二瓶を持って帰路についた。

「…あれ?」
「どうした?」
「松坂屋のフロアマップを見たら6階までしか載ってないが、あのレストラン街って、松坂屋じゃないのか?」
離れでパソコンを見ていて気がついた。だからあんなに庶民的だったのか?
「当初は東京風だったが、客足が伸びないため、地元企業に場所を譲ったのだろうか?」
「さあ?……あ、7階は 『 名古屋駅前地下街 』 の管轄らしいぜ。 これで、妙に庶民的だった理由がわかったな。松坂屋とは関係ないんだよ。」
「うむ、納得できた。」

ところが、その数日後のことだ。新聞を読んでいたカミュが驚いたような声をあげた。
「どうした?」
「経済不況の影響でデパートの閉店が相次いでいるが、この秋をめどに松坂屋名古屋駅店も閉店するそうだ。」
「えっ、そうなのか?!そうすると、あのレストラン街はどうなるんだろう?」
「松坂屋傘下ではないのなら閉店はしないだろうが、地下から6階までの全フロアが閉鎖されて商売が成立するのだろうか?」
「う〜ん…」
あの気さくなウェイトレスはどうしているだろう。
楽しく飲んでいたサラリーマンたちもびっくりするだろう。
ちょっとほろ苦い思いがした。





              「味噌カツも毎日では飽きると思われる。」
              「お前の勝ちだな。」
              「え?」
              「毎日食べても飽きないから。」
              「……」


            
  名古屋の喫茶店の 「モーニング」 ⇒ こちら 初めて本気で調べて心底驚きました。
              もっと高級な八海山 ⇒ こちら  普通の店に置いてあるはずはないです