戻ってからは今夜に備えて五右衛門風呂の掃除をすることになった。
「ほんとに申し訳ないですねぇ、新しいお風呂を作ってからは使ってなくて。」
申し訳なさそうに身を縮める母堂に数え切れぬほど
「大丈夫ですから」 
と繰り返して言いながら、私とミロは母屋から少し離れた裏手にある湯殿の掃除にとりかかった。いつごろに建てられたのだろうか、2メートル四方ほどの古い木造のそれは瓦葺きのきちんとした構造で右側の低い位置から煙突が屋根よりも高いところまで伸びている。薪で沸かす五右衛門風呂には煙突は不可欠だ。
屋根に積もっている雪が30センチほどしかないところを見ると、あまり積もらぬうちに定期的に払い落としているらしかった。小さい建物なので長い竿でも使えば簡単に除雪できるのだろう。母屋の裏手の勝手口から徐々に雪かきをして通路を確保してからガタピシいう引き戸を開けて中の掃除に取り掛かる。
「ふうん、面白い造りだな!わくわくするぜ!」
「これはまったくの初見だ。こんな構造とは思わなかった!」
二畳ほどの広さの木造の浴室はきわめて合理的な造りになっていた。
大まかに言って全体を四分割してその右手奥を浴槽、右手前が一段低くなった焚口、左手奥が一段高くなっている洗い場、左手前が沓脱と簀子という配分だと考えてもらえばよいだろう。実際には浴槽部分と洗い場で奥から三分の二を占めている。
もっとも肝心な鉄製の浴槽自体は直径は80センチ、深さが70センチほどの円形だが、その周囲は暗灰色のセメントのような材質でかまどのように分厚く包まれており、職人の鏝 (こて) 仕事だろうか、表面はとてもなめらかだ。浴槽の周囲は土手のように10センチほど高くなっているが左手の洗い場に向いた辺は浴槽の縁と同じ高さになっているので入浴した時にあふれた湯はこの箇所から洗い場に落ちるようになっているらしい。そうでないと右手前の低い位置にある焚口に湯があふれてきて困ったことになる。
なにぶん昔の風呂のことだから、ガスで沸かすのではない。薪である。この段階でわくわくする気持ちを抑えきれない。温泉もいいが、薪で風呂を沸かすというのは一つの憧れだ。
「ふうん、こうなってるんだ!面白いな!」
ミロが焚口の前の地面に降りた。焚口の場所は浴室の中では一番低くなっていて履物を履いたままで薪をくべられるようになっている。サンダルが置いてあるのは、入浴中に薪を足したくなった時でも濡れた足のままで降りられるようにとの配慮だろう。
五右衛門風呂は鉄製の浴槽の底に直接炎を当てて湯を沸かす仕組なのでごく低い位置に鋳鉄製の15×25センチほどの扉があって、かがみこんでのぞいてみると奥までかなり深くなっていた。火床には鉄製の簀子がはまっていて、下に灰が落ちる仕組みになっている。
「これが灰の掻き出し棒だろうな。」
ミロが傍らの長い鉄製の道具を手に取った。先端に5×10センチほどの板状のパーツがついている。焚口から奥に差し入れて灰を掻き出すのには良い形状だ。右の壁の隅に立てかけてあるちり取りで灰を片付けたのだろう。
「子供のころ辰巳さんも使ったんじゃないかな。風呂掃除は子供の仕事になりそうだ。そう考えると面白い。」
「出窓には子供のおもちゃがある。あれもおそらくそうだろう。」
少し古びた青いプラスチックの水鉄砲が出窓に二つあるのは子供時代の名残に違いない。子供が幼い時に遊んでいたおもちゃは親にとっては捨てがたいものだと聞いている。
「これは宿に帰ったら五右衛門風呂の思い出大会だな。」
「現代では貴重な体験だ。」
笑いながら掃除に取り掛かる。もう長い間使っていないとみえて、どこもかしこも埃だらけでやりがいがある。浴槽の右の窓と左の出窓は何の変哲もない曇りガラスで古い蜘蛛の巣がいくつかかかっていた。
「全部この中で済ませられるんだな。靴を履いてきて中に入ったらこの簀子のところで靴を脱ぐ。それから服を脱いで…ええと、どこに置くんだ?ああ、この出窓に篭でも持ってきて置いておけばいいんだな。で、この洗い場で身体を洗う。薪を足すときも中でできるから人を呼ばなくていいし。そういえば水戸黄門ではときどき宿の者が、湯加減はいかがですか、って外から聞いてたぜ。人手があり余っている時にはいいが、いちいち頼むのも大変だ。自分で薪を足すのも珍しくていいよ。」
壁も窓も天井もすべて木造のこの浴室は、建てた当時としては当たり前だったろうが今となっては貴重な建築だ。
「これって明治村に持って行ってもいいんじゃないのか?そのうち日本中探しても見つからない日が来るぜ。」
「それはたしかに。」
以前ネットで探したことがあるが、日本各地に五右衛門風呂があることを謳っている宿は数あれど、このような形で湯殿が残っているケースは見当たらなかった。いずれももっと現代風か、あるいは露天に設置してあるような野趣あふれるものばかりで私をがっかりさせたのだ。しかしここはほんとうに面白い。
洗い場は一段高くなっており、やはり木製の簀子が敷いてある。浴槽からあふれた湯は洗い場の床を流れて低い溝から建物の外に流れていくようになっているので靴を脱いだ場所や焚口のほうには行くことはない。水じまいはうまくできている。
それからここが面白いのだが、洗い場の床から80センチほどの高さの浴槽に入り易くするために途中を奥行20センチくらいの階段状にして一段上って入ることができるようになっている。重ねて言うが既製品ではない。こて職人の手仕事だ。
「これって面白くないか?階段にもなってるけど、ここに腰かけて浴槽に背を向けて身体を洗うこともできるんだぜ。すごく便利だと思う。椅子がなくても困らないんじゃないのか?」
「実に面白い構造だ。納得できる。」
ともかく目新しくて刺激的だ。水道は引かれているので熱すぎるときには水でぬるめ、冷めてきたら自分で薪を足せばよい。もっとも鉄製の五右衛門風呂はなかなか冷めないのが特徴の一つだ。
釜の底にはめてあった栓を抜いて水を流しながらたわしでこするとすぐにきれいになってきた。
「おい、ここのでっぱりは何だと思う?」
ミロが釜の底から20センチくらい上についている3センチほどの突起を指差した。左右の向かい合う位置にあり、なんらかの用途があるのは明白だ。

   え?これはいったい?
   向かい合っているこの突起の用途は……

二人で考えていると母堂が様子を見にやってきた。
「ほんとうに申し訳ありませんねぇ、お客様にこんなことをしていただいてしまって。」
「いいえ、なんでもありません。とても興味深くてかえって嬉しく思っています。」
「なにしろ徳丸が小学生のころに新しいお風呂を作りましてからは、こっちのほうは使わなくなっちゃって。」
徳丸というのは宿の主人の名だ。名刺をもらったことがあるので知っている。
「ところでこの突起はなんでしょう?いくら考えてもわからないんですが。」
ミロが尋ねると、
「ああ、それはお風呂に入るときに底板を沈めるのでそれを動かないようにするためなんですよ。お分かりになりませんよねぇ。」
そう言った母堂が浴槽の脇に立てかけてあった丸い板を持ち上げた。見ると縁に突起と対応する切込みが二か所ある。
「なにしろ底が熱いもんですからこれがないと入っていられないんです。そこでこれを最初に浮かべておいてその上に上手に乗りまして。すると体重で板が沈みますでしょ。そしたら身体を縁で支えながらこのでっぱりに合わせて足で底板を沈めてはめ込んでからちょっと足で回すんです。すると底板がひっかかって浮かばなくなりますからゆっくりと入れます。」
「なるほど!」
「なるほど!」
感心のあまりミロと声が揃ってしまった。なんという合理性!弥次喜多道中のときも同じ造りだったのだろうと思うとますます感慨深い。
「う〜〜ん、日本人にはほんとに感心するな。聞けばなんてことないけど、よく考えてある!クールだよ!」
長年使った底板はそのつどたわしで洗っていたのだろう。木目が浮き出て年代を感じさせる。
「上がるときには底板を外しておかないとお湯が混ざらなくて底のほうばっかり熱くなってしまいますし、浮かべっぱなしでは次の人がお湯を汲み出して使う時に困るので、脇に立てかけておくのがよろしいです。でも温度がちょうどいい時はなるべく冷めないように浮かべておいたほうがいいですねぇ、もちろん木の蓋もしますけど。」
「なるほど!」
ますます感動である。鉄も木も保温性が高い。その二つの素材の特性をうまく生かしているのが五右衛門風呂だ。
それから母堂に五右衛門風呂を使っていたころの話を聞いた。
薪のくべかた、湯加減の調整、しまい湯のマナー、灰の始末。
以前はどの家にも五右衛門風呂があったが、今では新しい浴槽とガスが普及したため取り壊した家も数多く、そのまま残っているケースは稀だという。
「ほう!そうなのですか、それでは私たちは運がよかったわけですね。」
「私の親のころはまだ水道がなかったので井戸から水を汲んでましたしねぇ。今でも夏にはスイカを冷やしたりして便利に使ってますが。」
この話にミロが目を輝かせたのも当然だ。
「井戸があるんですか!それならぜひ井戸水で風呂を沸かしたいんですが!」
母堂がだめだといってもミロは実行したに違いない。ことによると、昔は谷川の水を何往復もして汲んできた、と言ったら欣喜雀躍として実行したに違いないと私は思う。
井戸は雪かきが大変ですから、と言う母堂を力いっぱい説得したミロは、苦笑する私を引き連れてまたまた井戸端までの雪かきを精力的に済ませると、釣瓶を使ってせっせと井戸水を汲み上げた。予想通り井戸水はかなり温かく、沸かすために使う薪の量が少なくて済んだのはよかったと思う。
「面白いな!薪で風呂を焚くなんて憧れだよ。それも井戸水だぜ!水戸黄門にはよく出てくるけど、ふうん、こんなふうなのか!」
ミロは大喜びで風呂に蓋をするとさっそく焚口に屈み込んだ。すぐ横の簡易な棚には当時から置いてあるらしい大きなマッチ箱があって、象が鼻で火のついた燐寸を持っているというレトロなデザインだ。いや、持つのではなく、つかんでいるといったほうが正確だろうか。
「ふうん、こんな大きいマッチ箱ってあるんだ。初めて見たよ。」
焚口の蓋を開けたミロが先ほど母堂が用意してくれた古新聞を丸めて中に入れた。マッチ箱の上蓋中央の切込みからマッチを一本取り出して火をつける。
「湿ってないぜ、ちゃんとつく。」
「もう入るのか?」
「だって待ちきれないだろ。五右衛門風呂だぜ、五右衛門風呂!俺は夜まで待つ気はないね。面白すぎる!」
教わった通りに紙屑から始まって小枝や細い薪、その火が安定したのを見計らって太い薪をそっと置いてゆく。
「うまくいきそうか?」
「うん、大丈夫だ。どのくらいの時間で涌くのかな?火が強すぎるとどんどん熱くなって入れなくなるから加減が難しいな。やっぱり経験がものを言うんだろうな。お前、水温と水量と鉄の熱伝導率から、41度まで沸かしてその後安定させるのにちょうどいい薪の本数を割り出せる?」
「無理だ。」
笑いながら答える。かまど部分の熱伝導率がわからないと計算は無理だし、煙突から逃げる熱量もある。
風呂には半月形の木の蓋を二枚合わせてかぶせてあり、待ちきれないミロは何度も何度も蓋を取って温度を確かめている。
「う〜ん、まだぬるいな。かき混ぜたほうがいいかな?」
「対流が起こっているので、底で温められた水は上昇し代わりに降りてきた冷たい水は再び温められて循環しているはずだ。それほど温度に差はあるまい。」
「なるほどね。蛇口から熱い湯を入れていくのとは全然違うんだな。風呂焚きも科学ってわけだ。」
火が安定したのでいったん母屋に戻ると母堂がお茶の用意をしてくれた。
「ほんとに申し訳ありませんねぇ。なにしろ古いので建て付けが悪くて隙間風がすごくって。お湯に浸かれば温かいですけれど、それまでが大変なんです。」
「いえいえ、昔はそれが当たり前ですから。」
現代の浴室には床暖房まであることを考えると隔世の感がある。とくに日本人の入浴にかける情熱は世界一と言っていいだろう。
「それから、先の方がお入りになって10分くらいしたら次の方が行かれるといいですよ。」
「え?でもそれでは…」
あの浴槽は狭くてとても二人では入れない。というより私はここでミロと一緒に入浴しようとはまったく思っていない。
「ええと……それはどのような趣旨でしょう?」
無碍に断るのは失礼なので一応理由を訊いてみる。
「なにしろ冬は湯殿が冷え切ってますので最初に入る人は寒くて震え上がってしまうんです。次の人も湯殿が温かいうちに入らないと大変ですから、10分くらいたてば最初の人が湯に入ってますから洗い場が空いていてちょうどいいんです。」
「あ…そういうわけですか…」
「それでも最初の方には寒くて申し訳ないですねぇ……ああ!そうしたら、石油ストーブを入れて温かくしておきましょう。」
いいことを思いついたとばかりに母堂が言うと、ミロがすぐに口をはさんだ。
「いえ、せっかくのお話ですが、冬に寒い五右衛門風呂に入るのが醍醐味のような気がするのでそのままで大丈夫です。寒いのには慣れていますし。」
まったくだ。 私はなにかというと、シベリアでTシャツを腕まくりして弟子に修行をつけていたことをいまだにミロに引き合いに出されている。
「ほんとによろしいんですか?それでは、先に入られる方は洗い場に十分にお湯を流して少しでも温めてからお入りください。五右衛門風呂はそこがちょっと大変で。中に入れば身体は温まっていいんですけど。ではどうぞごゆっくり。いま小豆を煮始めてますので手が離せなくてほんとうに申し訳ありません。」
そう言ってお辞儀をした母堂は急ぎ足で台所へ戻っていった。
「聞いた通りだ。完全入れ替え制じゃなくて、部分入れ替えだな。で、どっちが先に入る?」
「完全入れ替えがいい!」
「我を張るなよ。一人が上がるまで待ってたら、あとの一人が冷え始めた風呂場に入ることになるっていうのを聞いただろう?俺が先に入ってそのあとでお前が冷えるのはいやだし、お前が先に入ってもあとからの俺を冷えさせたくはあるまい?だから、10分くらいずれて一緒に入るのが理想だな。」
「しかしっ…」
「むろんあの浴槽は狭いから残念ながら二人一緒には入れない。お前が入るときには俺が上がるから。これが五右衛門風呂の作法ってことだな。」
「ううむ……」
とんだところに落とし穴があったものだ。たしかに掃除している最中も隙間風が容赦なく入ってきて寒かったのは事実だ。服を着ていてもあれなのだから、裸になったらどれほど寒いことだろう。
「で、どっちが先に入る?」
「俺はお前を寒い目に遭わせたくないから先に入りたい。十二宮の並びでも俺の宮のほうが早いし。どっちが先でもいいんだから俺が先に入る。」
「わかった。」
「じゃあ、決まりね♪」

そして当初の予定通りに私が10分後に行くとミロはすっかりいい気分で鼻歌を歌っている最中だった。
「あまりにも気持ちがよくてもっと入っていたい。裸になるのはもう少し待ってくれないか?」
「ではいったん部屋に戻っていよう。上がりたくなったらテレパシーで知らせてくれればよいから。」
「え〜、それじゃ話ができないじゃないか。そこの焚口に小さい椅子があるだろう?そこなら温かいからそこにいてくれればいいよ。」
「勝手だな。」
「うん、俺が先に入ってお前を待たせるのはほんとに申し訳ないと思ってる。でも、この風呂がたまらない。」
そう言ったミロが大きくため息をついた。
「やっぱり違うよ、五右衛門風呂は。 温まり方が違う。普通の風呂と違って底で直接火を焚いているから釜の肌からじっくりと熱が伝わってくる。背中を押しつけていると実にいい気持ちだ。普通の風呂では味わえない感覚だよ。タイルやステンレスの風呂なんて目じゃないね。もうやめられない。」
「そんなにいいのか?」
「ああ、最高だね、ほんとにここに来てよかったよ。五右衛門風呂万歳、辰巳徳丸万歳だ。」
狭い浴室の中に白い湯気が上がり、それに加えて風呂の焚口からの熱があるので服を着ている分には寒くはない。
「それから底板を足で加減しながらはめ込むのも実に面白かった。板を沈めていくときの加減がちょっと難しいんだ。水の抵抗があるからな。俺が上がるときにははずしておくから、自分で試してみるといい。こんな経験はほかでは絶対にできないぜ。」
「わかった。そうする。」
「あ〜、いい気持ちだ。天国だよ。」
古い浴室の中にミロの声が響く。何十年もの間、辰巳家の人々がかわるがわる入った風呂はその後の長い休息期間を経て今は異邦人のミロと私を楽しませてくれている。
「さあ、そろそろ上がろうかな。明日はお前が先に入るといい。最高だぜ。それからそこの段に腰かけると風呂の熱が伝わってきてじんわりと温かい。ほんとにうまくできてるよ。」
ミロがざぶりと湯を割って立ち上がった。
「ああ、やっぱりだいぶ減っちゃったな。水を足しておくから薪を一本くらい足してくれ。」
「わかった。」
ミロが蛇口をひねった。
「水戸黄門のころはきっと足し水の入った桶があったんだろうな。もっとも俺はかげろうお銀よりお前のほうがいいけど。」
「ばかもの…」
服を脱ぎ始めた私を見ないようにしながらほてった身体をタオルで拭いたミロは浴衣の上に丹前を羽織ると素早く戸を開け閉めして出て行った。ぬくもりの残る浴室を白熱灯の裸電球が暖かい色で照らしている。湯気の粒子がゆらめいて昇っていった。


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