熱 帯 夜
熱帯夜とは日本の気象庁の用語で最低気温が摂氏25度以上の夜のことをいう。
近年の日本では都会のヒートアイランド現象だけでなく地球温暖化の影響もあり、年間の熱帯夜の日数が徐々に増えてきているのだ。
「私たちも日本に来ているからには、ギリシャにはない日本独特の様々な事象を体験するべきだと思う。」
「うん、それはそうだな。 いままでにずいぶんたくさんのことを経験したつもりだが、まだ知らないことがたくさんあると思うぜ、知的好奇心を持つのは大切なことだ。」
美穂が持ってきてくれたアイスコーヒーを飲みながらミロが頷いた。 ストローでかき混ぜると氷がカラカラと澄んだ音を立てるのがなんとも言えず涼を呼ぶ。
「お前も賛成してくれるとは嬉しい。 では、さっそく熱帯夜を経験してみたい。 よいな?」
「………え? 熱帯夜って………おいっ、ちょっと、待て! 熱帯夜って、あの熱帯夜か?? SPEED とか RIP SLYME の曲じゃなくて??」
「なんのことだ? 日本列島は連日の猛暑にあえぎ、最高気温は観測史上最高の値を記録した。 夜間も温度が下がらず25度をはるかに上回る室温で寝ることもあるという。 ここ北海道は本州に比べかなり涼しいが、それでも日中に暑い日があったのはお前も知っての通りだ。」
「たしかに今年は30度近い日があってちょっと驚いたが、だからといって、なにも俺たちが熱帯夜を経験しなくても!ギリシャだって暑い日はすごいぜ! 今年は40度を越えた日が続いたっていうじゃないか!」
「いや、湿度の高い日本の夏の夜は特別に寝苦しいらしい。 私はぜひ経験してみたい。 お前は嫌か?」
「嫌って………そうだ! こないだ京都で送り火を見たじゃないか! あの夜は暑かった! 日中の京都の最高気温は38.6度で物凄かったのを俺は覚えてる。 あの経験で充分だろう!」
「いや、あの日は柊屋に戻り、エアコンの効いた涼しい室内で寝たのだから熱帯夜を体験したとは言えぬ。」
今日のカミュは強硬で、ミロがうんと言わぬ限りあとに引きそうもない。
ミロがかき混ぜていた氷がいつの間にか小さくなっている。
「わかった、付き合うよ。 で、宿の当てはあるのか?」
「宿の主人に依頼してすでに確保してある。」
カミュが爽やかに微笑んだ。

「………これで寝ろと??」
たしかに自分達が泊まるのにふさわしい立派な離れだ、それは間違いない。 十畳と八畳の続き間で、茶室や控えの間の造りも実に手が込んでいる。 年月を経て風格を増した数寄屋造りは昭和初期の名建築に違いない。
しかし、暑いっっ!!
「特別に頼んでエアコンは朝から切ってもらってある。 日中の気温を反映して室温も………うむ、34度だ。 湿度は85%に達していよう。」
「もう外のほうが気温が低くなってきているんじゃないのか? ここも少しは涼しくなるんだろう?」
「いや、今夜は風がないので網戸にしていても殆ど風が入らず、日中の室内の暑さが去ることはないだろう。 私たちの希望に沿ったよい環境が得られている。 それから、念のため、高温に弱そうな由緒ある掛け軸や漆器などはここから本館の方に移してあるそうだから安心だ。」
「あ……そう…」

   俺も高温に弱いから本館に移してほしいっ!
   ロビーの片隅でもかまわんっっ!!

「幸い、夕食は涼しい食事処でゆっくりと食べられたのがありがたいね。 もしも部屋食だったらとおもうとゾッとする。」
「いや、それはない。 この室温では鱧の煮凝りや刺身の鮮度が落ちるので、これほどの格式の宿はそのような食事の出し方はけっしてしないものだ。」
「あの………俺の鮮度も落ちるんだけど。」
溜め息を付きながら早くも汗がじっとりと滲みてきた浴衣にげんなりしながら横になる。
「おい、扇風機はないのか?」
「この離れには扇風機はない。 むろん、大浴場の脱衣所にはあるはずだが、それを持ってくるというのも問題がある。」
「そんなみっともないことができるか! いいよ、団扇で。 床の間の団扇立てに品のいいのが二つある。」
パタパタと仰ぎながらじっと横になっているのだが、なにしろ湿度85%、34度の室温だ。 寝苦しいを通り越して、とても寝る気にならないのだ。
「う〜ん、接地面積が大きいとますます暑くなるような気がする。 といって、立っていたんじゃ寝てるとはいえないからな。 カミュ、お前、暑くないのか? 暑いだろう?」
隣りでじっと横になっているカミュに呼びかける。
「暑い。 暑いが、これを体験しに来たのだから、寝苦しいのも当然だ。」
「それはそうだが………」
いつもならすぐに抱きにかかるミロなのだが、この暑さではさすがにその気にはなれない。 眠れないままに何度も起き上がって枕元においてあるポットの冷たい水を飲み、悔し紛れに口に含んだそれをカミュに口移しで飲ませてやった。むろん触れたのは唇だけで、こんな姿勢はミロも初めてなのだ。
「ぬるくなったが、せめてこのくらいはさせろよ。 あまりの暑さに一指も触れる気にならん。」
「ん………たしかに暑い……」
「お前、大丈夫? 普段から暑さには弱いのに、脱水症状なんか起こしてくれるなよ。」
「そんなことはしない……」
「心配だな、ほら、もっと水を………」
「あ…」
かがんだミロの額からぽたりと汗がしたたり落ちる。 ねっとりした暑さの中でミロの汗が濃く匂ってきてカミュをどきっとさせた。

   私のせいで、ミロにつらい思いをさせている………
   あんなことを言い出しさえしなければ、ミロは涼しい部屋で私を抱いて幸せに眠っているころなのに

「ミロ………私の方が体温が低い。 私を抱けば少しは涼しい気持ちになれるかも知れぬ。」
「だめだよ、そんなこと! そんなことをしたらお前が暑くなるじゃないか! 俺の身体の方がきっと熱いから、お前につらい思いをさせることになる。 そんなことはできないね。」
「ん………すまない。」
そうしてまったく眠れないまま我慢すること二時間。 ついにミロが音を上げた。
「もう、だめだ! 俺はシャワーを浴びて来る。 新しい浴衣に着替えたら少しはましかもしれん。 お前はどうする? そうしたほうがいいと思うが。」
「そうだな………私もそうする。」
頷いたミロが起き上がり、やれやれといった様子で浴室に行った。 汗にまみれた浴衣を脱ぎ捨ててシャワーのバルブをひねる。

   ああ、いい気持ちだ、もっと早くこうすればよかったぜ!
   エアコンを入れるわけじゃないんだから、それなりの熱帯夜の過ごし方ってことだ

気分よく頭からシャワーを浴びて生まれ変わったような気でいるミロの後ろでドアの開く音がした。

   ………え?

目の前の鏡に映る肩越しにカミュが入ってくるのが見えた。
「あ………」
「あの………私もシャワーを浴びたいと思って……」
蚊の鳴くような小さい声で言い訳がましく言ったカミュはうつむいていてミロを見ようともしないのだ。
「ええと………それはいい考えだと思うな。 汗を流したほうが気持ちがいいから………」
暑いせいなのかどうか、真っ赤な顔をしているカミュの腕をつかんで引き寄せると二人して頭からシャワーを浴びた。
「どう? いい気持ちだろう?」
「ん……」
動揺を抑えこんだミロがそっと抱き締めてゆくと小さな喘ぎが洩らされた。
「ミロ………私は……」
「………なに?」
「なんでもない……」

   熱帯夜も悪くないじゃないか………
   朝までこのままじゃ、まずいかな?

シャワーを浴びながらカミュを抱き締めるのは初めてでミロの胸が高鳴る。 合わせた胸の間を湯がさらさらと流れ落ちるのが心地よい。
二人の熱帯夜はこれから始まるらしかった。