人 間 ド ッ ク

「じゃあ、行ってくるから。」
「一週間後に戻ります。」
「はい、いってらっしゃいませ。」
頭を下げた美穂の前で二人の姿が消えた。

あらかじめ連絡しておいた時刻に城戸邸の無人の一室に現れたミロとカミュは、留守居の者に挨拶してからグラード財団付属東京病院に向かう。
「やっぱり飛行機よりこっちのほうが簡単でいいな。時間の無駄がなくて効率的だ。」
「公的資金投入を受けた航空会社経営再建のためには正規のチケットを購入したほうがよかったろうか?」
「う〜ん、俺達がそこまで考えることもないと思うが。それよりギリシャの経済危機のほうが重大だと思うな。」
「それはたしかに。」
タクシーで10分ほどのところにあるグラード財団付属東京病院は都心には貴重な緑の中に立つ二十階建ての建物で、同じ敷地の中に病理学研究所や遺伝子工学総合センターなどの先進医療研究施設を併せ持っている。
ずらりと並んだ予約受付機に診察カードを入れると18階の受付を指示されるのはいつものことだ。連れ立ってホール右手に向かうと、五機並んだエレベーターの前には十数人の人がいて、外国人の姿も混じっているのは東京では珍しいことではない。
「いつもながら混んでるな。」
「人間ドックは一年先まで予約で埋まっているそうだ。」
「なんといっても健康が一番大事だよ。一般人でもそうだが、俺たちはそれに輪をかけて…ああ、上に行くのが来た。」
ドアが開いたが一度に乗り切るのは無理なようで、二人が乗る前に満員になった。
「次のに乗ろう。あんな混んでるのに無理して乗ったらお前が他人と接触する。お前は混雑とは無縁の存在でいて欲しい。」
「またそんなことを…」
言うまでもなく、こうした会話はギリシャ語だ。英語と違って、日本においてギリシャ語が理解される確率は限りなく低い。
カミュに軽く睨まれて笑いながら次のエレベーターを待っていると、だんだん人が増えてきて、いざ乗り込んだときにはさっきと同じくらい混んでいる。こんなときのミロは、奥の隅に立っているカミュをかばうように立つのが常だ。このくらいならまだ許せるが、以前渋谷の山手線ホームで見た通勤ラッシュはひどかった。

   まさに人間サンドイッチだな、あれは!
   いや、日本だから押し寿司か?
   もしも俺とカミュが日本に生まれてサラリーマンをやってたら、毎日ああなってるかと思うとぞっとする

途中階で次々と人が降り、18階まで行ったのはミロとカミュの二人だけだ。
「おはようございます。一週間コースの人間ドックを予約した者ですが。」
「おはようございます。あちらの部屋でスケジュールをご説明しますので、中の椅子に掛けてお待ちください。」
受け付けカウンターで手続きをして待合室に入るとすでに10人くらいが待っている。この病院の1週間ドックの費用は70万円にもなるので利用者には社会的地位の高い層が多い。幾組かは夫婦で来ているらしい。

   ふうん……夫婦だと140万だぜ
   とても一般庶民とは思えんな、おっと、俺たちも似たようなものか

手渡されたパンフレットを見ながら説明を聞く。半年に一度は来ているので検査のスケジュールや要領はとうに理解済みだ。半日コースや一日コースとは違って日程に余裕があり、企業の最前線で働くトップエグゼクティブの贅沢な休息時間となっているともいえる。
「では、お部屋にご案内しますので、30分後に2階の12番カウンターにお越しください。」
案内された部屋はホテルで言えばスイートルーム並みのクラスでたいそう居心地がよい。
「ここってシングルしかないんだよな。」
「当たり前だ。ホテルではないからな。」
半年に一度の人間ドックは黄金全員に課せられた義務である。闘いで命を落とす可能性もある黄金を疾病で失うことはとうてい許されないことで、教皇庁は聖闘士の健康管理には細心の注意を払っている。むろん、本人の自己管理がもっとも重要であることは言うまでもない。これまでの人間ドックで二、三の小さな病変が発見されたが早期に芽を摘んだので大事に至らないで済んでいる。
「人間ドックの検査項目って面白いのも多いけど、衝撃的なのもあって最初は驚いたな。」
黙って頷いたカミュの耳が赤くなる。いやでも思い出すのは大腸の内視鏡検査だ。あれに比べれば胃カメラなど可愛いものだ。
それぞれの部屋に入り、備え付けの検査着に着替えると受付で個人のファイルを受け取り2階へ行く。
初日の今日は身体計測、血圧測定、オリエンテーション、脳高次機能検査などだが、問題の大腸の内視鏡検査は四日目に行われることになっている。あの検査に比べれば、ただ寝ているだけでいいCTやMRI は涙が出るほど安楽だ。三日目の胃カメラも熟練した技師が行うのでそれほど苦痛を感じることはない。
「四日目だな、例のやつは。」
ミロがスケジュール表を確認した。
「そんなことは忘れたほうがよい。部屋から見える東京の夜景も素晴らしいし、もっと楽しいことを考えたほうがよかろう。」
「といってもここじゃ酒は飲めないし、温泉もないし、もっと問題なのはベッドが別ってことだ。早寝早起きか?」
「そういうことだ。」
「お前、退屈じゃない?」
「ネットは出来るゆえ、ゆっくりと碁を打たせてもらおうか。」
「あ〜、つまらん。ここって監視カメラなんかないんだろ?病室じゃないから看護師の見回りもないし。少しくらいよくない? せっかくのスイートルームだぜ。」
「だめだ!」
「冷たいんだな。」
「私は凍気の聖闘士ゆえ。」
「いいよ、あとで溶かすから。」
「ミロ!」
「冗談だよ。」
ほんとに冗談かは朝になるまでわからないが。

そして四日目がやってきた。
「これがいやなんだよ、最初はともかく途中から嫌気がさしてくる。飲みたくもないものを飲むのは苦痛だな。」
指定された部屋でほかの受診者とともに内視鏡検査の説明を受け、各自のテーブルの上に置かれた大きなペットボトルと紙コップを前にしたミロが溜息をつく。指定された間隔で時間をかけて2リットルもの腸洗浄剤を飲み切らなくてはならないのだ。スポーツドリンクのような味で、以前よりも飲みやすく改良されたというのだが、どこが?という気もしてくる。

   もっとも、このあとの生理的現象と、そのあとに待ってる内視鏡検査に比べたらなんでもないが

すでに一杯目を飲み始めたカミュが背筋を伸ばして小さくため息をつく。覚悟を決めたミロもコップになみなみと注いだ液体をグイッと飲んだ。たっぷり入ったペットボトルがうらめしい。
「まさに苦行だ。こんな検査しなくとも、シャカに内臓を透視してもらってポリープを早期に発見してもらうっていうのは無理かな? あいつなら出来るんじゃないのか?」
「そのほうがよほど恥ずかしかろう。」
「それもそうか。」
ポツリポツリと話しながら徐々にボトルの中身が減っていった。

「はぁ……」
先に呼ばれて検査を受けていたミロがほっとしたような顔で出てきた。
「お先…」
「うむ…」
続いて呼ばれたカミュが少し頬を染めて検査室の中に姿を消した。待っている間、ミロは持参の本を読み、ひたすら雑念を払うように努力する。さっきまでの自分と今現在のカミュの状況を考えるのは慎むべきだ。なにしろこの検査は……
検査を終えたカミュが出てきた。
「お疲れさん。」
「…うむ」
「午前中のあとの予定は腹部超音波検査と脳神経外科の診察だ。楽勝だよ。」
「ん…」
黙ったままのカミュがなんだか気の毒なようだが、慰めるのもいかがなものか。

   どうだった?なんて、口が裂けても言えないからな
   まったく衝撃だよ、何回やっても有り得ない検査だ

胃カメラは終わってしまえばあとからいくらでも語れるが、大腸の内視鏡検査は…いや、筆者も語る言葉を持たない。
というわけで、最大の難関を終えたあとは粛々と検査をこなすだけだ。眼科の診察は1時間近くもかけて徹底した検査が行なわれ、ミロの青い目を覗いた医師がつい感嘆の声を漏らすのも恒例になっている。半年ごとにやってくるミロとカミュはどの診察科でもお馴染みでどこに行っても看護師がとびきりの笑顔で迎えてくれる。
「お待ちしてました。その後おかわりありませんか?」
「ええ、体調はいいです。なにしろずっと二十歳ですから。」
笑わせておいて和気藹々と検査を受けるのは楽しいものだ。メタボなどという聞くに堪えない言葉とは百億光年離れたところにいる二人である。

「あれ?」
「どうした?」
「大腸の内視鏡検査ってオプションだぜ。特に希望しない限りは注腸造影検査って書いてある。いちばん最初にここを予約したのは教皇庁だからなんの疑問も持たずに毎年同じ検査を受けてたけど、こっちのほうが楽だったりして。」
一日の検査が終わり、部屋でパンフレットを見ていたミロが声を上げた。
「注腸造影検査ってどんなやつだ?レントゲンみたいに簡単だったらこっちのほうがいいんじゃないのか?」
「注腸造影検査とは硫酸バリウムと空気を造影剤とする検査方法だ。かなり疲れると聞いたことがある。」
「よくわからんな?どっちがいいんだ?造影はなんとなくわかるが、注腸ってなに?」
「そう言われても…」

   腸に造影剤を注入する具体的手法など言いたくないっ!

これ以上言及したくないカミュがミロにパソコンを譲った。口で説明するよりもそのほうが理解が早いのは明白だ。
「う〜〜〜ん……どっちも、ちっとも嬉しくない。」
「そうだな。」
「でも聖域でやるよりはいいぜ。」
「聖域で?なぜ?」
「だって、聖域で医療行為をする設定の話だと、たいていはムウが医療従事者だからな。俺はムウに内視鏡検査をして欲しくはない。」
「もちろんだっ!」
カミュの返事は悲鳴に近い。どうしてあんな姿を晒せるだろう。一人の知人もいないグラード財団付属東京病院、万歳である。
「お前的には内視鏡のほうがいいんじゃないのか?なにしろモニターで大腸の中の映像を見られる絶好のチャンスだからな。科学的探究心を満足させられる。」
「それは……まあ、そうだ。」
「医学だから、気にするな。俺も気にしない。」
「ん…」
窓の外には東京シティの夜景がどこまでも広がっている。すぐそばには美しくライトアップされた東京タワーが見えるという絶好の立地条件だ。
「そのうちにスカイツリーが遠くに見えるようになるんだろうな。それまで日本にいられるといいんだが。」
「私たちはきっといる。大丈夫だ。」
「そうだな、そうありたいものだ。」

   聖戦なんか起こってくれるなよ
   俺とカミュはもっと先まで生きるんだからな

ミロが明かりを消した。そのほうが夜景が映える。
「綺麗だな。」
「いや、お前のほうが綺麗だ。」
「ばかなことを…」
「ほんとだよ。お前は綺麗だ。」
どちらからともなく寄り添った二つの影が闇に溶けていった。





              こういった検査は、ひたすら科学的探究心を奮い起こして乗り切るのがよろしいかと。
              検査の詳しい内容はスタジオで!

              「スタジオとはどこの?」
              「白羊宮だそうだ。」
              「断るっ!」