温泉パスポート

ミロは退屈していた。 
 
「それでは、すまぬが、ちょっと行ってくる。」 
そう言ってカミュがシベリアに出かけてから二日が経った。 例のマンモスの骨格発掘の件で、どうしてもカミュが現地で立ち会わねばならぬことになり、数日間の予定でのシベリア行きなのである。 
そんな事情を宿の主人に話して驚かせるのも煩雑なので、「 知り合いのところに泊まりにゆく 」 ということにして登別駅まで送ってもらったカミュは素早くテレポートし、ことを簡略化したのである。 
「1週間はおとなしく待ってるからな!」 
とカミュを笑って送り出したミロだが、二日も経つと、もうやることがない。 
そこでミロは、かねてから考えていた計画を実行に移すことにした。 なにを隠そう、「 登別温泉巡り 」 である。 
 
宿には 「 登別温泉の魅力 」 なる写真集があり、そこには数え切れぬほどの様々な温泉の写真が載っている。 娯楽室でそれを発見したミロは、カミュと一々検分しながら、わからない点は美穂を呼んでカミュの通訳で聞きただしてゆき、正しい知識を得たのである。 
それによると、登別温泉組合発行の 「 温泉湯浴み手形 」 なるパスポートを所持していれば、加盟する数十軒の旅館の温泉に入浴できるというのである。 
カミュはなんとも思わなかったようだが、ミロの方はそうはいかぬ。 この宿の温泉こそ全部制覇したものの、まだまだ温泉に対する興味は尽きることがない。 宿泊せずともあちこちの特徴ある温泉に入れるというのは、なんとも魅力的なのだった。 
もちろん、カミュは怖じ気を振るって拒否するに違いないので、ミロはその願望を口にしたことはない。 温泉で入浴するカミュを人に見られるなどもってのほかだし、カミュ自身も断固拒否なのはわかりきっている。 しかし、じつのところ、ミロは人に見られることはさほど気にならぬのだ。それよりも、知らない温泉に対する興味や憧れのほうが一層強い。 
それを実行に移したいのは山々だったが、もし万が一カミュが、 「私は、ミロの身体をほかの誰にも見られたくない…」 とでも言おうものなら、その気持ちは嬉しいのだが、見知らぬ温泉に心ゆくまで浸かる、という嬉しい冒険の芽が摘まれてしまうのだ。 
カミュの気持ちを無視してまでの強行突破は、とてもできぬミロである。 
 
こうして、「 温泉湯浴み手形 」 の夢を胸に押し隠していたミロにとっては、カミュのシベリア行きは、またとないチャンスではなかったか!退屈から冒険へ。 
ミロのワクワクする一日が始まろうとしていた。

行ってみたい温泉旅館はすでにチェック済みである。 
例の写真集でお気に入りの露天風呂や内風呂をピックアップし、温泉街の地図に印をつけてもらってあるので、地図の活字の漢字と、現地の宿の看板とを照らし合わせれば、日本語の苦手なミロにも、温泉手形をかざすだけで目当ての温泉に浸かれるという寸法なのであった。 
パスポートは午後から有効らしいので、宿で昼食を済ませたミロは、気を利かせた美穂からタオルや石鹸を入れた袋を手渡され、意気揚々と宿の車に乗って登別市内の温泉街へと出かけたのである。 
一番最初の旅館には車で乗り付けて、宿の主人に地図を指差され現在地を教えてもらうと、あとは車から降りたミロの単独行である。 ちょっとはドキドキするのだが、そこはすでに滞日10ヶ月を超える度胸と温泉に対する憧れがものをいい、ミロは老舗旅館の玄関に入ったのだった。 
宿のつくりは似たようなもので、二段ほど上がったところにはずらりとスリッパが並び、左側にはフロントがある。 外人客と見て寄ってきた従業員に例のパスポートをかざして見せると、「ああ!」といった顔をして行くべき方向を教えてくれる。 といっても日本語が読めないのは想像がついたのだろう、従業員が浴場まで先導してくれるのは親切なものだ。 
外人客とはいえ、一人で来たくらいだから湯の入り方はわかっているだろうと考えてくれたらしく、脱衣場の入り口を指し示すと従業員はお辞儀をして戻っていった。 
さて、これからは完全にミロ一人での初の入浴になる。 さすがに心臓が高鳴るのだが、そこは黄金聖闘士の貫禄で、ミロはいささかも臆することなく男湯の暖簾をくぐったのである。

脱衣場の中は一段高くなっており、その手前にスリッパが3足並んでいるところをみると、すでに3人が入っているらしい。 誰もいないことをひそかに期待してきたミロだが、そうは問屋がおろさぬようだ。 スリッパを脱いで、内心おそるおそる脱衣場に入っていくと、服を脱いだ日本人が浴場へのガラス戸を開けて中へ入っていくのが見えた。 
そしてミロがほっとしたことには、腰に白いタオルを巻いて片側で結んでいたではないか! 
 
   え? 日本人は、ああやって風呂に入るのか? 
   いくら裸の付き合いといっても、そこのところが気になってはいたのだが、 あれでいいのなら、こんな気楽なことはない! 
 
唯一といってもよい懸案が片付いたミロは、手早く服を脱ぐと、さっきの日本人に倣ってタオルを巻き浴場へ乗り込んだ。 
ここの浴場は全体が木でできていて、大きな四角い浴槽は長年の使用により木の肌が丸みを帯びていかにも古めかしい。 洗い場も木の板が敷き込んであり、そこを浴槽からあふれ出た湯が間断なく流れてゆくのだ。 
二人の先客が緑の庭に面した窓の方を向いてのんびりと湯につかっており、さきほど入っていったらしい客は鏡に向いて頭を洗っているようだ。 
さすがにどきどきするのだが、初回の入浴としては、この環境は大成功である。 ミロは慣れた振りを装って、積んである椅子と桶を取ると、手近の位置になんなく陣取ることができたのだ。 
あとは、いつも通りに髪と身体を洗う。ここまでくれば、しめたものである。 日本人の動きをこっそり観察していると、湯から上がった二人が上がり湯をかぶって出て行く拍子にちらとミロを見たのだが、さして気にしたふうでもなく脱衣場に行ってしまった。 
 
OKである。 日本人は、外人が温泉に入っていても気にしないのだ! 
気を大きくしたミロは、やたらと自信がついて、最後の泡を流すと浴槽に身を沈めた。 
いつもの宿の温泉にも木の浴槽はあるのだが、なんといっても新しいので表面はすべすべしている。 それはそれで気持ちがよかったのだが、ここの浴槽はよほどに使い込んでいるのか、表面の木目が浮き出て、縁の角もすっかり丸くなっている。見たときは古くて気持ちが悪いように思ったが、背中をもたせ掛けて両腕を木の枠にながながと伸ばすと、これが思ったよりも身体に馴染むのだ。 
透き通った湯が気持ちよく、窓際の湯面には木漏れ日がちらちらと当り、反射光が壁に明るい模様を作る。 
 
   なんていい気持ちなんだ! 
   これこそ温泉の醍醐味というものだな♪ 
   カミュにも味わわせたいが、まあ、これは無理な相談というものだろう、 
   帰ってきたら土産話の交換会でもやるか! 
 
手足を伸ばしくつろいでいると、もう一人の客が窓の横のドアを開けて外から戻ってきたではないか。 この日本人も、ミロをちらっと見ただけで脱衣場へと姿を消した。 
 
   ふうん、向こうにはなにがあるんだ? 
   みたところ露天風呂らしいものはないんだが…… 
 
ドアの横には矢印と日本語でなにやら書いてあるのだが、むろんミロにはわからない。 
興味津々のミロがさっそくドアの向こうに出てみると、右手の方に通路が続き、なにやら暗い場所に入ってゆく。 首をかしげながら5、6メートルほど行くと、岩をくりぬいたような薄暗い場所に浴槽が作ってあるではないか! 
ミロの知識に岩風呂というのは入っていない。 なんとなく不気味な気がして、入ったものか迷ったが、ここで帰っては男がすたるというものだ。 
だいいち、さっきの日本人はここに入っていたに違いないのだ、岩穴の奥にはぼんやりとした灯りがついているだけで、はなはだ心もとないのだが、ミロは勇気を出すことにした。 
おそるおそる足を入れると、底は砂利敷きになっておりその感触がいかにも珍しい。 思い切って一番奥まで湯を掻き分けて進み、入り口のほうを向いて顎までつかってみた。 
 
   ふうん………周り中が岩で、なんだか大昔の風呂みたいだな…… 
   暗いっていうのも、かえって落ち着くような気がするぜ 
   薄暗い中を湯気が立ち昇るところなんかは、なんともムードがあるじゃないか♪ 
 
カノンだったら絶対に入らないだろうが、ミロはスニオン岬の岩牢の件はまったく知らないので、暢気なものである。 
こんなとき、ミロの頭に浮かぶのはやはりカミュなのだ。 
 
   もしここにカミュがいたら…… 
   暗がりの中に白い肌が浮かび上がって、さぞかしきれいだろうな♪ 
   偶然、肩が触れ合って……驚いて身を引こうとするところを俺がそっと引き寄せて… 
   「あ……」 
   「いいじゃないか……誰も見ていない…」 
   「でも……」 
   「太古の昔に戻ったようなこの場所で、俺はお前を愛したい……いけないか?」 
   「ミロ………」 
 
のぼせかけたミロが脱衣場に引き上げたのは、それから30分後だった。
ゆっくりと休みながらたんねんに髪を乾かしていると、数人の年配客が入ってきた。 しかし、すでに服を着込んでいるので気にせずにドライヤーを使っているミロは、新来の客たちが見事な金髪に驚いていることにはさっぱり気付かないのだ。 ギリシャでも、このくらい見事な金髪となると羨望の目で見られることが多いのだが、国民すべてが黒髪の日本では、そこに好奇と感嘆の意味合いが加わってくる。 
それに加えて、カミュが「美しい」と形容するほどの顔立ちのミロである。この 「 稀に見る美形の外人 」 に出会った日本人は老若男女を問わず惚れ惚れしているのだが、じっと見ては失礼だ、という共通の観念が働き、気付かない振りをしたり、ちらっと見るにとどめているのだ、という事実をミロはいまだに知らないのであった。それでも、自分に向けられる視線を感じないわけではないが、ただ単に、外人だから日本人には珍しいのだろうと解釈しているのだった。 
 
すっかり満足して玄関をでたミロは、ほかに2箇所の旅館を回り、居合わせた日本人を少々驚かせながらそれぞれに工夫を凝らした浴室や露天風呂を堪能することに成功した。あと一つはいけるな、と思いながら坂を上って行くと、かなり大きい旅館の前に出た。 
大きすぎてどうかとも思ったが、地図には特別に大きな赤丸がつけてあり、どうやら入ってみる価値はありそうだ。 これだけ回数を重ねれば何も迷うことはない。 ミロはもの慣れた様子でフロントに行き、例のパスポートをかざして今日の最後の温泉にチャレンジすることにした。 
もう夕方に近くなり、玄関の外には団体の乗ったバスが三台到着したのだが、そんなこととは知らないミロである。 ちょうど手の空いた従業員が、日本語のわからないミロを先導して廊下の奥に消えたとき、広いロビーにどやどやと人があふれ、従業員が総がかりで対応に当り始めた。 
 
男湯のドアを開けると、そこは今までで一番広い脱衣場である。 十人ほどが身体を拭いたり、服を脱いだりしていてミロをドキッとさせた。今までの温泉では、たまたま脱衣場には人がおらず、ミロの更衣を見た者はいない。 
どこもそんなものだろうと安心していたミロには、どの位置でも人目がありそうなこの状況は予想外である。かなり広いので、脱衣籠を載せてある棚は何列にも並び、素遠しというほどではないが、着替えている最中に誰かが通りかかる可能性は高いのだ。 こういってはなんだが、最愛のカミュにさえ見せたことのない着替えを、どこの誰とも知れぬ日本人に見せるわけにはいかないではないか。 
それでは浴室の中ではどうなのだ、といわれると困るのだが、入浴中は当然の格好でも、着替えているのを見られるのはなんとも落ち着かないのである。 
なるべく目立たなそうなところに場所をとったミロがちょっと困惑していると、一人の日本人がやってきて着替え始めたのが目についた。 
すると、これはどうだ! 
この旅館の泊り客らしいその男は、浴衣の帯を取ると肩に羽織ったままで下着を脱ぎ、慣れた様子で腰にタオルを巻いたようなのだ。 それから浴衣を脱ぐと、タオルをもって浴室に行ってしまったではないか。 
 
   え? ものすごく上手くないか? 
   ああやれば、全然恥ずかしくないじゃないか! 
   服を着るときも同じ要領でできるしな♪ 
   これで、オッケーだぜ♪ 
 
美穂が用意してくれたものの中には、浴衣も一枚入っているのである。 美穂としては、湯上りにすぐに服を着るよりも浴衣になってしばらくくつろいだほうがいいのでは、と思った結果なのだが、ミロには、着替えを恥ずかしがる外人の自分のために気を利かせてくれたように思えるのだ。 そのころにはミロと同じ並びにも入浴客がやってきたのだが、もはやなんも心配もない。ミロは口笛を吹きたい気分でタオルひとつの姿になると、大浴場へと向かったのである。 
湯気で曇っていたガラス戸を開けたミロは驚いた。 中は今までに行ったどこよりも広く、天蠍宮のホールの2倍はありそうだ。 天井も高く、まずは十二宮並みといってよい。高低差もあり、全体の半分ほどは十段ほどの階段を上ってゆく作りになっている。 
唖然としていると、あとから入ってきた客が傍らの湯を満たしてある区画に近寄り、備えてある手桶で何杯か身体にかけてから迷いもせずに歩いてゆく。 
 
   あ、なるほど、かかり湯ってやつか! 
   普通は蛇口から汲むんだが、ここにはかかり湯専用の場所があるんだな! 
 
様子がよくわからないので、ミロは先ほどの客の後についてゆくことにした。すると目の前に三つの浴槽とその間に川のように流れている水路があるではないか。 
それぞれの浴槽はかなり大きく湯の色が違い、気泡で泡立っているものもある。 さっきの客は、ひざ下までの湯の川をざぶざぶと流れに逆らって歩き終えると、今度は階段を上っていく。 
 
   ふうん………上にはなにがあるんだ? 
   それにしても、こんなに広い温泉は初めてだな、 
   以前、宿の主人が 「千人風呂」 のことを言っていたが、これがそうかもしれん、 
   温泉好きという噂のあるサガにも想像できまい! 
 
そんなことを考えながら階段を上がると、目の前が開け、一段と大きい円形の浴槽があり、その中央には太い柱が立っている。周囲には大小五つほどの浴槽があり、それぞれに客がのんびりと浸かっているのだ。 
とりあえず中央の湯に入り、周りの様子を見ていると、たいていの客は数分で次の浴槽に移動して、全部を体験しようとしているようだ。 
 
   なにか違いがあるのか? 
   そういえば、どの浴槽にも説明のプレートがついてるな、 
   日本語がわからんのが口惜しいが、湯の成分が違うのかもしれん 
 
この大浴場にはなんと15もの浴槽があり、湯温・成分などの違いから、様々な名前がつけられているのだ。ミロが日本語を読めていたなら、そのなかに 「美人の湯」・「美肌の湯」などがあることを知り、いささか考えることが違ってきたろうが、あいにくミロにとっては、なんの役にも立ちはしない。 
多くの日本人にならい浴槽巡りをしたあとで、外に続くドアの向こうに露天風呂があるのに気付いたミロはさっそく行ってみることにした。 
ミロの考えでは、すべての風呂の中で露天風呂が最高なのである。 
 
   最初から気付けばよかったな! 
   中の空気は暑苦しいが、外の大気のすがすがしさはなんともいえん♪ 
 
既に5人ほどが入っていたが、気にしないことにしてちょっと離れたところに身体を沈めてみる。 ここの露天風呂は緑がかった白色で、北海道では初めてお目にかかるのだ。 
気分よく顎まで浸かっていると、近くにいた年配の客がどうやら英語らしい言葉で話しかけてきたではないか。 
当惑したミロが、とりあえずギリシャ語で 「言葉がわからないから」 と答えてみると、その客はなにか呟きながらちょっと頭を下げてあきらめてくれた。 しかし、それを機に、ほかの客もミロに注目し始めたようだ。 そこは日本人らしく、不躾に直視するものはいないのだが、なんとなくミロを見ているような気配がある。くつろげないような気がして、中に戻る気になり、湯から上がると背中に視線を感じないものでもない。 
やれやれと思い、中へのドアを押し開けたミロが驚いたのはそのときだ。 
ただならぬ広さのせいもあってさっきまでは人がまばらだった空間に、驚くほどの人があふれているではないか! 
 
   ………え? 急にどうしてこんなことになったんだ?? 
   それに、なんだか様子が違うが…… 
 
ミロが当惑したのも無理はない。 正面からこちらの方へやってくる5、6人が意外そうにミロを見つめ、なにやら意見を交わし始めたではないか。 長い髪をタオルで巻いていたのも珍しかったのか、額にこぼれる金髪を指差すものさえいるのには閉口してしまうのだ。 
知らぬ顔をしてすれ違ったとき、彼らの話す言葉が耳に飛び込んできてミロに事態を知らしめた。 
 
   日本人じゃないのか! 
   どこかほかのアジアの国らしいな…… 
 
ミロは知らなかったのだが、このホテルは海外客の誘致にも熱心で、旅行社のツアーに組み込まれることが多い。ミロにとっては運の悪いことに、今日は300人の団体がやってくる日で、しかもそのほとんどが男性では、さしもの大浴場も人で埋まるのは当然なのだった。 団体旅行というものに馴染みのないミロには、実に不思議な現象なのだ。 
もう少し湯巡りをしようと思っていたミロだが、どの浴槽も混雑し、しかも四方八方から遠慮のない視線が飛んでくる。 
 
   やれやれ、そんなに珍しいとはね…… 
   それはまあ、俺にしたって、 外人が風呂に入っているところに巡り合わせたことはないがな…… 
 
ミロはまったく気付かないのだが、彼らの注目を集めているのは金髪や肌の白さといった外人特有の特徴だけでなく、鍛え抜かれた筋肉の均整の取れた美しさも多々あるのだ。 アジア系の人々には、ミロの背の高さや容姿が、まるで完璧な黄金比を誇るギリシャ彫刻の再現に見えて、それが賛嘆の念を呼び起こしているのだが、それがミロ本人にしてみれば、好奇の目にしか受け取れぬのだ。 同じことは日本人も感じているのだが、「直視することは失礼だ」 「不快感をあたえることは日本の恥だ 」という観念が広く浸透しているので、ミロは悩むことがなかったのである。 
 
最後の温泉で衆目の環視を受けたことにちょっと興ざめして脱衣所に出ると、ここもかなりの混みようだが、幸い浴衣を肩にひっかけて着替える技を編み出していたおかげで着替えが苦になることもない。 ほっとして鏡の前で髪を梳かしていると、鏡の中からさらに好奇の視線が突き刺さる。 
 
   おいおい……すこしは遠慮ってものがないのか? 
   温泉初心者だったら、二度と入りに来ないぜ! 
 
廊下に出ると、さすがに普通の外人客とみなされ、とりたててミロに注目するものはおらずほっとする。 お茶をサービスしていたので一杯飲んで喉をうるおしたあと、ミロはタクシーをつかまえて温泉街を後にした。 
 
   ふうん、海外にも日本の温泉は鳴り響いているってことか! 
   アジア系だけじゃなく、俺たちヨーロッパ系ももっと入りにくればいいんだがな 
   もっとも他人に肌を見せる習慣はもともと持ち合わせていないんだから、無理な相談か…… 
 
「おかえりなさいませ、ミロ様。」 
宿に帰ると玄関で美穂が笑顔で出迎えてくれ、まるで我が家のような気分になるのはいいものだ。 
「ただいま!」 
その時々にふさわしい挨拶だけはすっかり覚えたミロがにっこり笑うと、美穂はさらに嬉しそうにする。 最初のころはいちいち恥ずかしそうに頬をそめたものだが、さすがにこの頃は慣れたらしくそんなこともない。 
 
一人で食べる夕食はちょっと淋しいが、それはカミュも同じことだろう。 
銚子を一本でやめて部屋に戻ったミロは、しばらくフトンに寝転んでいたが、ふと露天風呂に行く気になった。 泊まりはじめて以来、男性の宿泊客がいなかった二回だけカミュと行ったことがあるのだが、今日の経験からすれば、馴染みの宿の露天風呂に行くのになんの遠慮が要るものか。 
軽い気分でタオルを持って出かけると、先客が一人いるようである。 すでに湯に浸かっていたのは三日ほど前から夫婦で宿泊している年配客で、ミロもロビーや食事処などで何度も黙礼されたことがある。 
「失礼」 といって湯に入ると、驚いた様子もなく 「どうぞ」 と答えてくれた。 
風采からして英語くらいはできそうだが、ミロの様子から英語ができないのは知っていたのかも知れず、なにも話しかけてこないのはありがたかった。 
慣れた湯にのびのびと手足を伸ばし空を見上げると満天の星が美しい。 
しばらくゆっくりしたあと、打たせ湯に行こうと立ち上がると、隣の客がミロを景色の一部として受け入れているらしいことが感じ取れ、ミロを満足させる。 やはり、客の質が違うのだ。 ここに滞在して11ヶ月、一人として不快な客がいないのは驚くべきことだった。 
 
   やっぱりここは最高の宿だ! 
   いいところを見つけたものだな、俺とカミュの隠れ宿にはふさわしいじゃないか♪ 
 
打たせ湯に当りながら遠いシベリアにいるカミュに想いを馳せるミロには、やがて思いもよらぬ客がやってくることなど想像もつかないのだった。





                       日記に現われた連載小説をまとめました。
                       連載することが目的だったので、かなりの長さになっています。

                       ミロ様が入った大きな温泉は、
                       登別にある某ホテル(旅館?)に実際に泊まったときの記憶を元にしています。
                       広くていろいろな浴槽があって愉快でした♪
                       いま流行のスパではなくて昔からの古い作りなのでしっくりときます、

                       ミロ様、注目されちゃいましたけど、
                       ほんとに現れたら日本人は茫然としますよ、美しくて!
                       カミュ様にはありえない設定だけど、好奇心旺盛なミロ様ならできます……たぶん(笑)。