オ オ ス カ シ バ

「ここの前の庭にクチナシを植えたいと思う。」
六月も半ばを過ぎたころ、朝食に出かける前に離れの外を見たカミュがそう言った。
「え? クチナシを?なぜ急に?」
「いや、急ではない。先日の趣味の園芸を見て考えていたのだが、やはりクチナシが欲しい。」
「ああ、あれね。そんなによかったか?」
趣味の園芸というのは日曜の朝に教育テレビでやっている番組のことだ。毎回テーマを決めて植物の栽培とか世話のことを解説する番組でカミュは熱心に見ているのがいつものことだ。ついでに言うと、それに引き続いて日曜美術館を見るのも定番だ。
俺は植物にはそれほど興味がないのでパソコンをしていることが多いが、内容くらいはちらちらと見て把握はしてる。そうでないとカミュとの話題についていけないからだ。
「北海道は寒すぎてクチナシは越年はできないが、本州から取り寄せて、できればここの前に植えて秋まで楽しむことができればと思っている。」
「ふうん、いいんじゃないのか? といっても、宿の庭だから主人に聞いてみないとわからないが。たしか真っ白い花が咲いて、いい香りがするんだったな。」
食事をしながらクチナシの話をする。窓の外には白樺やナナカマド、カラマツ、アオダモなど北海道でよく見かける樹木が緑の木陰を作っていて爽やかだ。。北海道は寒すぎて、本州とはだいぶ植生が違う。キンモクセイや柿が育たないのは寒すぎるせいだ。
番組では背の高いクチナシや矮性のクチナシを混植して楽しむようなことを言っていたはずだ。たしかに離れの庭先でいい香りがしたら素敵だろう。俺が賛成したのでカミュが顔をほころばせた。
「八重咲きのものよりも一重のほうが香りが強いそうだ。真夜中にもっとも強く香るという説もある。オオスカシバも来るし、実も橙色で美しい。クチナシの実は料理の色付けにも使われて、栗の甘露煮やキントンにも欠かせないし、漢方薬にも使われる。八重咲きのクチナシは実をつけないので、もちろん一重のを頼むつもりだ。」
「夜中にいちばん香りが強いなんてムードがあるな。気に入ったよ。香りを楽しむ花なんだからもちろん一重がいい。」
このときの俺は、夜中に窓を開け放ち、甘い芳香の中でカミュを抱くことに興味がいったため、オオスカシバという語句については完全にスルーしていた。カミュの話も香りや実のことに重点が置かれていたのだからしかたあるまい。
「クチナシって役に立つんだな。善は急げだ。さっそく、植えてもいいかどうか聞いてみようぜ。」
カミュとの甘い夜を心楽しく思い浮かべながら朝食をすませると、フロントに向かう。ちょうど出勤してきた宿の主人をつかまえたカミュがクチナシのことを頼むと、
「クチナシですか。そういえばうちにはありませんな。ええ、場所も空いておりましたし、よろしいですよ。」
と快諾してくれた。
「しかし冬になったら枯れるのではもったいないですな。」
「それゆえ、秋になったらこちらで責任を持って本州に送り返します。この夏に間近で観察をしたいので。」
「なるほど。さっそく手配いたします。」
「それからクチナシの木を選ぶときにちょっとした条件があるのですが、」
ちょうどそのときフロントの電話が鳴った。
「先に電話をどうぞ。あとでまた参ります。」
「これは おそれいります。」
主人が受話器を取り、俺たちは離れに戻ることにした。
「ところで、なぜクチナシっていうんだ?変な名前だな。」
「クチナシの実は秋に橙色に熟しても口が開かないのでクチナシという名になったそうだ。東アジアに自生するアカネ科クチナシ属の低木で、実には黄色色素のクロシンが含まれており、昔から料理の染色に利用される。」

   すると ”死人に口無し” とは関係ないんだな  ちょっとほっとしたぜ

こんな諺は言わないに限る。カミュとの話題で死に関することはご法度だ。二度も不本意な死を遂げているカミュはそういったことに関しては必要以上にクールになって気の毒になるくらいなのだから。

そして一週間後にクチナシが到着した。 出入りの植木屋が運んできたクチナシは2メートルほどの高さでつやつやとした緑色の葉がいっぱいに繁っている。植木屋が二人掛かりで日当たりのいい場所に大きな穴を掘り、腐葉土や肥料を適度に混ぜ込んで大きな苗木を植えるのをカミュは嬉しそうに見ていて、そんなカミュを見るのが俺も嬉しかった。こんなことは宝瓶宮にいたのでは考えられない。好きな木を注文して朝夕に眺められるところに植えるというのは贅沢だと思う。
「この木の世話は私がしますから、庭木の消毒のときも除外して欲しいのですが。」
「そのことでしたら前々から承っております。」
「ではどうぞよろしく。」
やがてクチナシの周りにたっぷりと水をやった植木屋は、お辞儀をすると帰っていった。

それから一ヶ月ほど経った朝にカーテンを開けるとなんだかクチナシの様子が違う。カミュと一緒に一週間ほど聖域に帰っていて、昨夜遅くに戻ってきたのでクチナシを見るのは久しぶりだ。
「あれっ?なんで?」
白い花が幾つも咲いているのは嬉しかったが、なぜこんなに葉っぱが少ないんだ?
「おい、カミュ、クチナシに問題ありだぜ。」
振り向いて寝床のカミュに呼びかけると、「ん……」 とため息とも声ともつかない返事が聞こえてようやく起き上がったカミュが向こうを向いて浴衣を直している。昨夜のことを思い出しながらカミュがそばまで来るのを待った。
「ほら、葉っぱが少なすぎるだろ。こないだまではこんなじゃなかったぜ。」
指差すとカミュが嬉しそうにした。
「これはオオスカシバだ。」
「え?なんだって?」
「オオスカシバとは蛾だ。 幼虫はクチナシを食草とする。」
「え? 幼虫がいるのか?いったいどこに………うわっ!」
庭下駄をはいて庭に降りたカミュにならってクチナシのそばに行って驚いた。 ゆうに8センチくらいはありそうな緑色の太い幼虫がムシャムシャとクチナシの葉を食べている。それも何匹もいて俺を唖然とさせた。
「い、いつの間にっ!」
「最初からいた。もっともここに植えたときはまだ卵だったので目立たなかったが。」
「だって、せっかくのクチナシが台無しだろう!」
あのつやつやした葉っぱは見る影もなく、部分的には丸坊主に近い。
「いや、最初からオオスカシバを育てるのが目的だ。近くで観察したかったので、あらかじめ発注のときに卵を産み付けてある木を選んでもらうように依頼しておいた。オオスカシバについては、お前もあのテレビを見たときに説明を聞いたと思っていたが?」
「いや、そこまで注視していたわけじゃなかったからな。ふうん、オオスカシバっていうのか。だから消毒もさせなかったんだな。」
ぷっくりと太った緑色の幼虫はカミュの周到な配慮のおかげで消毒の惨禍を免れたことなど知らぬげに盛んに葉を食べていて、顔を寄せるとシャクシャクとというささやかな音さえ聞こえてくる。体側には白い筋が走り、白とオレンジのごく小さな斑紋が間隔をおいてついていた。尾の先がツンと尖っているのがアクセントだろう。
「やっぱりこの尾の先が俺の聖衣と似てるって思ってるわけ?」
「いや、そんなことは…」
カミュが口ごもったところを見ると、そう思っているのは間違いないだろう。
「いいよ、別に。俺だって似てると思うんだから。」
「そうか、よかった。」
「いや、よくもないけどさ。」
笑いながら幼虫を数えてみると6匹もいた。
「でもどうするんだ?成虫になっても北海道じゃ繁殖できないぜ。このクチナシも枯れる前に返すんだろう?」
「それなら考えてある。そろそろ終齢幼虫ゆえ、今日中に周りを網で囲んでその中でサナギになってもらう。羽化したら、そのたびに東京の城戸邸に持っていて庭園のクチナシのそばに放してくるつもりだ。」
「なるほどね、さすがは先の先まで考えてあるんだな。」
突然で驚いたが、わかってしまえばオオスカシバの幼虫も愛らしい。もちろんカミュの愛らしさとは天と地ほども違うけど。

午後からカミュはかねてから用意してあったらしい金網でクチナシを囲んだ。細い支柱を4本立ててきちんとした長方形の覆いができた。
クチナシの周りの地面はカミュの指示通りに丁寧に掘り返してから腐葉土を混ぜ込む。
「なんでこんなことをするんだ?」
「オオスカシバは土にもぐってサナギになる。地面が固くては困るだろう。」
「えっ!土の中って!アゲハなんかとは違うのか?」
カミュの言うところによると、夏の初めに生まれたオオスカシバの幼虫は土にもぐってサナギになると夏のうちに羽化して成虫になり、それが卵を産むと今度は土中で越冬して次の夏に羽化するのだそうだ。
「ふうん……すると今ここにいる幼虫は、去年サナギのままで越冬してから大人になったオオスカシバが産んだ卵が孵ったやつなんだな。」
「そういうことだ。」
「なんか輪廻転生とか思わせるな。命って、つながってるんだな。」
小さな蛾の命も自然の営みの中で受け継がれているのだなとしみじみ思う。

   俺たちって、あとにつなぐ命は生み出さないけど………
   でも、地上の命を救ってるから、それはそれでいいんじゃないかな

作業を終えたカミュがほっとしたように覆いの出来栄えを確かめていた。


数日経ったときにはすべての幼虫が姿を消していた。カミュが用意した土の中にもぐってサナギになったのだ。覆いをしていなければかなりの数が鳥に食べられただろうが、覆いのおかげでそれはなかった。観察に余念のなかったカミュは土中にもぐっていくのを発見して俺にも教えてくれた。土の中では糸を吐いて身体を固定するらしいのだが、そこまでは見られない。
そして二週間ほど経った早朝に一匹目が羽化をした。
「ミロ、始まった!早く来るがいい!」
こんなときだけ俺より早く起きるカミュに肩を揺すぶられて慌てて庭に降りると、クチナシの木の根元に羽化したばかりのオオスカシバがしがみついている。土の中から這い出して手近のものにつかまるのは一苦労だったろうと思う。
二人で地面にしゃがみこんでみていると、だんだん羽が伸びてきた。幼虫の巨大さにふさわしいモスグリーンの立派な胴体で腹部には暗赤色と黄色の帯状の部分もあってかなりお洒落だ。頭には黒くて長い棍棒状の触角がついていて全体的にコンパクトな戦闘機のイメージがある。
「この形はスズメガの仲間か?」
「そうだ。オオスカシバはチョウ目・スズメガ科・ホウジャク亜科に分類される。」
頷いたカミュは、俺がスズメガと推測したのが嬉しかったらしい。ちょっと頬を染めたのでそれがわかる。
やがてピンとした薄い褐色の羽が伸びきったようだ。
「そろそろ飛ぶかな?」
「まだ羽が湿っている。乾いたときが見ものゆえ、目を離さぬほうがいい。」
「え?なんで?」
「そのうちにわかる。」
言われるままにじっと見ていた。オオスカシバもじっとして我慢比べのようだ。
そろそろ腰が痛くなってきたそのときだ。羽が乾きあがったらしいオオスカシバが激しく羽を振るわせた。
「あっ!」
はばたきをやめたオオスカシバの羽は透明になっていた。いや、葉脈のようなものは黒く見えていて、まるで蝉の羽のようだ。あとからカミュが、翅脈というのだと教えてくれた。
「驚いたな。どうして透明に?」
「羽化したときは鱗粉がついているが羽ばたくと落ちてしまう。滅多に見られない光景だ。」
説明するカミュは満足そうで、声の調子から高揚しているのがよくわかる。飼育していても羽化の瞬間に立ち会うというのは珍しいことらしい。なるほど、これを見たくて、わざわざ本州からクチナシを移植したってわけだ。
そのあと飛び立ったオオスカシバは覆いの中をあちこち探検した後で白い花のほうにきた。
「あれっ、なにやってるんだ?もしかして蜜を吸ってるのか?」
空中でホバリングしながら長い口吻を花の中に差し入れて蜜を吸う姿はまるでハチドリのようだ。ものすごく早く羽ばたくのでただでさえ透明な羽はほとんど見えない。すばやい動きで次から次へと花の蜜を吸い、めまぐるしいといってもいいだろう。
「オオスカシバとは漢字で大透羽の意だ。スズメガにしては珍しく昼間に活動するので、クチナシさえあれば都会でも見かけることが多い。」
「ちょっと、いや、かなり可愛いな。蛾に見えない。といって蝶とも思わないから、見てもなんだかわからない人間も多いんじゃないのか?」
「そうか?どう見てもオオスカシバだが。」
「うん、今日からは俺もオオスカシバの権威になったよ。」
立ち上がって伸びをする。ひとしきり蜜を吸ったオオスカシバはカミュにあっさりと捕らえられ、籠に入れられると城戸邸に運ばれた。
「いい子孫を残せよ。それから消毒には気をつけろ。」
籠の蓋を開けると、しばらく縁に止まっていたオオスカシバは弾丸のように広い空に飛び出していった。
「次のやつは箱根の山の中にでも放そう。絶対に消毒されないような土地のほうが安心だ。」
「では分散で。」
こうしてカミュの育てた命は日本の空に飛び立っていった。






       
        
 この蛾を知っている人は多いはず、夏の間に何回かは見かけます。
         テレビでよく見かける南米のハチドリのような俊敏な動きが爽快です。

         オオスカシバの飼育記  → こちら
         写真満載、文章が楽しいです。
         ページの一番下から読むと成長の過程がわかります、芋虫が苦手な人は見ちゃいけません。

         こちら は、成虫の顔写真、これがまた精悍でカッコイイのです。
         男前といっていいでしょう (雌だったらごめんなさい)

         まだ鱗粉のついているオオスカシバの写真 → こちら 
         怖くありません、蝶が大丈夫な人ならOKです。
         その下は芋虫の写真なのでスクロールは要注意。
         この鱗粉のついている姿見たさに飼育する人が多いのです、ほら、カミュ様みたいに。