親知らず 1

朝食を食べていたミロが箸を運ぶ手を止めた。
「………やっぱり歯が痛い。」
「…え?」
起きたときから口数が少なかったのはどうやらそのせいだったようだ。 苦虫を噛み潰したような顔をしているミロを見たカミュが、手を挙げて美穂に合図した。

「俺が歯医者に? 鎮痛剤じゃだめなのか?」
「虫歯は自然治癒しない。 早期治療が望ましい。」
「だって、見たところ、どこにも虫歯なんかないぜ?」
「素人目にはわからなくても、どこかにあるのかもしれぬ。 一度見てもらったほうがよい。」
「……どうしても行かなきゃだめ?」
しかしミロのささやかな抵抗は一蹴され、「とてもいい歯医者さんですのよ。」 という美穂の励ましの言葉に送られたミロは宿の車で登別市内の歯科に出かけていった。

「スイヘイマイフクチシって……なに?」
生まれて初めて歯科の診療を受けているミロが怪訝そうな顔をした。
無理もない。 いくら日本語に不自由しなくなったとはいえ、初めて聞いたこの言葉を漢字変換することは難しい。
最新型の診療台はたいそう寝心地がいいのだが、さっきから口元を照らしている妙な形の照明やら、ステンレスのコップが置いてある うがい台とおぼしき設備やら、はたまた可動式のステンレストレイの上に濃い緑や茶色の小瓶と一緒に行儀よく並んでいるメスや錐や研磨器の先端部分に見えるような物体はいったいなんだろう?
天井のスピーカーからは心を和ませるためらしいストリングスが聞こえてくるが、とても平静ではいられない。
「典型的な水平埋伏智歯です。 第三大臼歯、親知らずともいますが、歯列の一番奥の智歯という歯が普通に上向きに生えてくることができず、歯茎の中で半ば顎の骨に埋まりこんだまま横向きになっていますね。 それがそのすぐ前にある第二大臼歯をぐいぐい押していてそれが痛みの原因になっています。 」
歯科医がミロの歯列のレントゲン写真を指し示した。 顎の周囲をぐるっと回るようにして歯の全体を写してある写真は見ていてあまり気分のいいものではない。 壁で仕切られた隣りの診療台からは、頭の芯に響くようなキュイィィィ〜ンというあまりにも無機質な音が間断なく聞こえてくる。
「ですから、この部分の歯茎を切開して埋まっている歯を幾つかに分割して抜きます。 分割するのは出血をなるべく少なくするためで、むろん麻酔をするので痛みはありません。 このままにしておいてもますます痛みがひどくなるので思い切って抜くことをお薦めしますが、どうなさいますか?」
歯医者も初めてなら、むろん麻酔もしたことがない。 歯茎の切開という言葉があまり嬉しくなかったが、ここは抜くしかあるまいとミロは考えた。 それに、なにもしないで帰ったら、カミュになんと言われるか。 子供ではあるまいし、まさか電話で相談するわけにもいかないだろう。 だいいち相談した結果は見えている。
「…では、お願いします。」
「麻酔の用意を!」
頷いた歯科医が助手に指示をした。

ミロが帰ってきたのは昼食の終るころだった。
「ミロ様、お帰りなさいませ。」
玄関で美穂が御辞儀をすると、どことなくぎこちない笑顔で頷いたミロだが 「お食事はいかがなさいます?」 と訊かれてちょっと考えたようだった。
「時間的には大丈夫みたいだけど、とても食べられる気がしない。 やめておこう。」
その口調がなにやらいつもと違ってくぐもって話しづらそうだ。 声にも抑揚がなく唇だけで話しているらしかった。
「実は口が開かない。 歯茎を切開して水平埋伏智歯を抜いたんでね。」
「…え? スイヘイ…マイフクチシ……ですか?」
美穂も水平埋伏智歯を知らないことにちょっとだけ優越感を覚えたミロだが、術式を説明するのは次の機会に譲ることにした。なにしろ、まだ麻酔が効いていて顎全体に違和感がある。

   切開部分は小さかったかもしれないが、あれはやっぱりオペだろう!
   なにしろ凄まじかったからな………
   身動きできずにスカーレットニードルを15発撃たれるっていうのは、ああいう気分じゃないのか?
   慈悲深い技だと思っていたが、間違いかもしれん!
   生まれて初めて頭蓋骨が軋んだぜ、軋むのはベッドだけでたくさんだ!

「え〜と………たしか、親知らずって言ってた。」
「まあぁ〜〜、親知らずっっ!!ミロ様が親知らずを!! そうだったんですか!」
美穂がいつにない大声を出し、事務室の奥にいた宿の主人がびっくりして顔を上げた。

   ……え? なんだ?

「親知らずでしたか! それはいけませんでしたな。」
出てきた主人がいかにも気の毒そうに言い、首を振る。
「ご夕食は流動食をご用意させていただきます。 痛み止めはお持ちでいらっしゃいますね、何かありましたら、時間にかかわらずフロントにお電話ください。」
聞きつけたほかの従業員も同情の眼差しでミロを見る。
不安をいだいたミロが離れに向っていったあと、みんながいっせいに自分の体験談や知人の苦労話をしゃべり始めた。

「今、帰った。」
「どうだった?すまぬが先に昼食は食べさせてもらったが。」
「うん、俺は食べなくていい、というかとても食べられない。」
顔の下半分は麻酔が効いて変な気分なのだ。 それに血止めのために 「ぎゅっと噛んでいてください」 といわれた傷口のガーゼに盛大に血がしみて鬱陶しいことおびただしい。
「歯を抜いてきた。 ちょっとガーゼを取り替えてくる。」
洗面台でそっと口をひらきガーゼを引き出すと、血と唾液にまみれたぞっとする代物が出てきてミロをげんなりさせた。 替えのガーゼをなんとか押し込むと少し気分がましになる。
「すごい手術だったんで口が開かない。 できることなら何もしゃべりたくないぜ。」
「そんなにたいへんだったのか?」
「うん、水平埋伏智歯ってやつ。 親知らずとも言うそうだ、へんな名前だな。」
「親知らずか! それはいけなかった!大丈夫か?」
「え?お前も知ってるの?」

   どうしてみんな驚くんだ?
   だいたい親知らずってなに?

「人間の食生活が昔とは大きく変わったせいで、顎の骨は小さくなってきたが生える歯の本数は変わらない。 そこであとから生えてくる歯の並ぶ場所がないため横向きに生えたりして元から生えている歯を圧迫することになる。 それが俗称 親知らずだ。 昔は人の寿命が短かったので、その歯の生えるころには親のいないことが多く、そのため親知らずという名がついたのだろう。」
「ふうん………智歯とも言ってたが。」
「英語では wisdom teeth 知恵の歯という。 大人の知恵のついてくるころに生えるからだろう。」
そんなことを話していたら痛みがミロを襲ってきた。
「カミュ………ものすごく痛くなってきた…」
「鎮痛剤はあるか?」
「うん、二回分。 すぐに飲む。」
蒼ざめたミロが白い錠剤を飲む。
「今日は入浴と酒と運動は控えてくれって言われてる。」
「血行をよくすることは慎むことだ。 顔が腫れるかもしれぬぞ。」
「とすると、やっぱりだめ?………夜の運動は。」
「当たり前だ! だいたい、その痛みで私を抱けるか?」
「いや、無理だ、さすがにその気にならない。 それにしても、こんなときに限ってお前もはっきり言うんだな。」
「……え?」
「どうせなら元気なときに 『今夜は抱いてくれるか? 』 とか色っぽく迫ってくれないもんかな? そうすれば勇気百倍なんだが。」
「ただでさえ元気なのに、勇気が百倍になられては私が困る。」
「それがいいんだよ、たっぷり困らせてやるからさ♪……痛っ!!」
激痛がミロの顎を襲い、頭の芯までしびれる気がする。
「もう寝る………とてもだめだ。 夕食に流動食を用意してくれるんだが、食べる自信がなくなってきた。」
その後、鎮痛剤がきいたものの時々は激しい痛みが波のようにやってきてミロを苦しめた。
「考えられるか? メスで歯茎をサクサク切開して横向きに寝てる歯のてっぺん部分を輪切りにして取り出してスペースを作ってから残りの根っこの部分をその場で割ってかけらを取り出していったんだぜ! 」
唸りながら解説するミロはどことなく自慢げで、どうやら百聞は一見にしかず、ということをカミュに言いたいらしい。
「わかった、わかった。」
相槌を打ちながら、やや腫れの残る頬に手を当てるとまだ熱が引いていないのだ。
「顎の骨も少し削ったんだからな! ノミや金槌みたいな道具が出てきたときは、正直 俺もゾッとした。 頭蓋骨がミシミシ軋んで、もう死ぬかと思ったよ、頭蓋骨なんてものの存在を認識したのは今日が初めてだ。 お前に親知らずが生えないことを祈るよ。 うっ、痛っ…!」
夕食は美穂の心配そうな視線を感じながらなんとか半分ほどは食べ、むろんカミュを抱くこともなくフトンに横になる。

   つまらんっ、これじゃキスもできない!
   ただでさえ血の味がするし、口も開かないんだからな!

湯上りのカミュが隣りに滑り込んできた。
「まだ痛むか?」
「ん………かなり。 こいつは明らかに骨の痛みだ。」
「早く直ればよいのに……」
ミロの胸にそっと押し当てられた頬が熱い。
「……俺に抱かれたい?」
「ん……」
親知らずのあとがひとしきり疼いた。
                                


            
なんの理由もなく親知らずという語句が心に浮かび、次の瞬間には書くことに決定!
            抜かれるのはむろんミロ様。
            だって、診療台で口を開けるカミュ様なんて想像できませんから。

            もちろん歯の壁紙なんてないので、考えた末にこの壁紙に。 「葉」。
            新緑が美しい季節なので、緑の子も友情出演です。