パルプンテの巻物

ことの起こりはたった一つの巻物だった。 パルプンテの巻物、それがこの はた迷惑な巻物の名前だ。

教皇の間に隣接した小さい部屋には古くからの古文書が多数収められている。ほとんど神話に近いような逸話しか書かれていないという代物なので、そこに入ろうとする者すら滅多にいない忘れられた場所である。 そこへ入って来たのはカミュだ。なにか調べ物があるらしい。
「もしかしたらここにあるかも知れぬ……」
そうつぶやきながらあちこちの棚を調べていたカミュの目が古びた巻物に留まった。巻き留めた紐の色も定かでないほどに変色し微細な埃が分厚く積もっているのはよほどに古い時代のものなのだと思われた。
「これは珍しい。 東洋にはこの形態が多いと聞いているが、ギリシャにもあろうとは。」
手を伸ばして巻物を手に取ったカミュが丁寧に紐をほどいてするすると広げたときだ。 まぶしい光が巻物からほとばしり、カミュは一瞬気を失った。

「あ……」
床に倒れていたのに気付いたカミュがようよう起き上がりながら見たものは………いや、見なかったものは、と言ったほうが正しいだろう。床についているはずのおのれの手が見えなかったのだ。 袖口の先には何もない。
「……え? なに?」
さすがに慌てて目を凝らしてじっと見たが、見えないものは見えないのだ。 湧き上がる不安を抑えつつ見えない手で袖を捲り上げてみた。
「……ない! いや、ないのではない。 確かに存在しているが見えないのだ!」
それは恐ろしい体験だった。 波立つ胸を抑えながら調べてみると、カミュの身体はまったく見えなくなっていた。 透明人間である。髪の毛一本の先に至るまで、視覚に映るものはなにもない。
「そんな馬鹿な! 人体が透明になるなどあり得ない!」
夢を見ているのではないかと手をつねり、頬を叩いてみたが痛覚はある。 体温も平常と変わりなく、なにも異常は見られない。ただ透明になっていることを除いては。
困惑しながらふと思い当たったのは巻物のことだ。 なんら論理性は見出せないが、あの巻物がこれに関係しているのではないだろうか。
広がって落ちていた巻物を手にとって古い書体を慎重に読み進めていくと、カミュにはおおよそのことが理解できた。その巻物は神話の時代から伝えられているパルプンテの巻物で、手にとって広げただけで身体が透明になる効果を生じさせるというのだ。

   論理性はともかく、事実は事実だ
   この効果が恒久的なものであったら、いったいどうすればよかろう?

いかに冷静なカミュといえども、この事態は突然すぎた。 恐慌に陥りそうになるのをかろうじてこらえながら最後の記述に来たところで、カミュを安心させる事が書いてあった。

   『 巻物の効果は一昼夜続くものなり 』

「すると24時間だ。 私がここに入って巻物を広げたのはおおよそ10時だから、明日の午前10時までなんとか切り抜ければよいわけだ。」
先の見通しが立ってほっとしたものの、このあとどうすればよいだろう。 予想される困難を秩序立てて考えていると、扉の外で人の話し声がした。
はっとして耳を澄ますとそれは教皇庁に勤める女官たちなのだった。 数人が通り過ぎてゆきほっとしたのもつかの間、すぐにまた誰かがやってきて人の気配の絶えることがない。このまま出てゆけば騒ぎになるのは明白で、おそらくカミュが説明をする前に何人もが悲鳴を上げて倒れ、あちこちから警備の兵や居合わせた聖闘士が異変を感じて駆けつけてくるのは確実だ。 どう考えても歓迎できる事態ではない。
できるものならひそかに宝瓶宮に戻って、明日の午前十時まで息を潜めているのがもっともよいのは言うまでもない。 訪ねてくるのはミロくらいのもので、ミロにならばこのことを話してもいいのは当然だ。 ちょっとは驚くだろうが、24時間で効果が消失することを知れば面白がるのかも知れなかった。
「やむを得ぬ。」
教皇の間からテレポートすることは固く禁じられている。 歩いて出てゆくしかないカミュが取り得る手段はたった一つしかなかった。

「寒くないのは幸いだな。」
衣服をすべて脱いで目立たない棚の奥のほうに押し込んだカミュが、外に人の気配がなくなった瞬間にそっと扉を開けてすべり出た。 左右を見回し、人がいないのを確認するとほっと息をつく。 こんな格好を人に見られたら………というか、見られるはずもないのだが、なにしろ生まれたままの裸であることを思うと動悸も高まろうというものだ。 ともすれば臆する自分を、なにも心配することはないのだと励ましつつ外へと向かう廊下を忍び足で進む。 むろん小宇宙の気配も完全に絶っているのですれ違う者にも気付かれることはないのだが、若い女官たちがなにか話しながらやってきたときなどはドキドキしすぎて眩暈を起こしそうだった。
さらに進んでゆくと次の部屋の出口にデスマスクとアフロディーテが立ち止まってなにか話しているのに出くわした。 話が弾んでいて、少し待ったくらいでは道をあけてくれそうにない。
仕方なく、開いていた右の扉を抜けてゆくとその廊下の向こう側の扉が開いて教皇シオンがやってきた。 具合の悪いことに教皇庁の職員を10名ほど引き連れていて、それが廊下の幅一杯に広がっているのですれ違うこともできはしない。
カミュの姿がごく普通に見えていればむろん遠慮したろうが、なにしろ誰もいないようにしか見えない通路である。 ドキッとして後に下がると、今し方出てきたばかりのドアからサガがやってきて、ドアをきちんと閉ざすとそのままそこで控えている。
万事休すである。 まさか、この広い建物の中で挟み撃ちに遭い逃げ場を失うことなど考えもしなかったのでカミュはパニックに陥りかけた。 一糸もまとわぬおのれの身体に触れられたら、と思うと冷や汗の滲むどころの
騒ぎではない。 テレポートはできず、といってまさか相手を殴り倒して逃げるわけにもいかないのだ。 黄金の身で裸でいる現場を取り押さえられたら一巻の終わりだろう。 行列がますます近付いてきて限りなく動悸が高まったとき、一人の職員がすっと前に出て、右手のドアを恭しく開けた。

   しめた! 教皇の執務室の脇扉だ!

職員が脇によけ、シオンが通ろうとするほんのわずかの一瞬をとらえたカミュが絶妙のタイミングで先に通り抜け事なきを得たが、そうでなければどうなっていたことか。
カミュが人の来なさそうな隅に避難してじっと様子を窺っていると、シオンはさっそく机で書類を読み始めた。 隙あらば部屋を出たかったのだが、人の動きが頻繁で果たせないでいるうちに、ノックがしてサガが入ってきた。 入れ替わりに職員たちが出て行き、やはりカミュが出て行くことはできないのだ。 一難去ってまた一難である。
シオンとサガが冥界との条約の締結問題について話し始め、それに関連した懸案が次々と持ち出されてきて、話がいつ終わるのかさえわからない。 寒くはないのだがどうにも心もとなくて落着かないし、さっきのようになにかの弾みで部屋の隅に追い詰められでもしたらとんでもないことになる。
緊張したままで二時間が過ぎ、カミュが疲労を覚え始めたときだ。 再びノックの音がして部屋に老師が入ってきた。 もしかして出られるのではないかと少しドアの近くに寄っていたカミュだが、あまりにも早くドアが閉められてしまい内心で溜め息をついていると、老師がカミュのほうをちらと見た。 目を細めてなにかつぶやいたようにも見える。その距離、約2メートル。

   ………え?まさか………

しかし、何事もなかったように老師は椅子に掛けると話に時々加わって、もうカミュのほうを見もしない。 そのまま10分ほども経った頃、老師がぽんと膝を叩いた。
「おお、そうじゃ。 用事を思い出した。 わしはここで失礼しよう。」
シオンが頷き、サガが立ち上がって礼をする。 ドアを開けて出て行きかけた老師が、
「そうそう、明日の午後じゃが、若い者に講義をするのは2時からだったかのぅ?」
と振り向いてシオンに話しかけた。 そのまま2、3歩戻った老師がシオンと明日の予定を確認し合っている隙にカミュが開いたままの扉を目指して足を早めたとき、老師が腰の後ろに回した手でなにか合図をしたように見えた。

   ……えっ?

ドキッとしながら忍び足で部屋を出て左右を見ると、これはなんとしたことか、どちら側のドアも閉まっていて進めない。 開けることは簡単だが、おのれの小宇宙を完全に絶っていると他人の小宇宙もつかめない。 ドアの向こうに誰かがいたら、その場で不審を持たれてとらえられる可能性すらあるのだ。
また足止めかと考えあぐねていると、部屋から出てきた老師が外へ向かう側のドアを開けた。 妙にゆっくりとした動作であたりを見回したり欠伸をしたりして、カミュがすり抜ける暇が十分にある。 そんなことが3回も続いてやっと外階段に出られたときにはさすがに恣意的なものと思わざるを得なかった。 どう考えてみても、老師は目に見えないカミュの存在を感じ取り、あまつさえ部屋から出られなくて困っているのを察知して助けてくれたとしか思えないのだ。
問題はカミュの姿が見えていたかどうかということで、単に害意のない善の存在とか精霊のようなものととらえているのなら名乗る必要はないわけだが、カミュと知ってそ知らぬ顔で助けたのなら事情を話して礼を言うのが当然だ。
どちらとも判別がつかなかったが、、老師ならと覚悟を決めて名乗って礼を言おうとしたときに、ちょうど階段を登ってきたアイオリアが老師に話しかけ、カミュはその場を離れざるを得なかった。  それでもきちんと頭を下げて一応の礼は尽くしたつもりだ。いくら礼儀を尽くしても裸では笑える、などと考えるのは切実感のない第三者の思うことであって、すんでのところで窮地を救われたカミュ本人は至って真面目である。

誰もいない階段を下りてゆくのは心地よい。 誰が来ても簡単に避けられると思うと足取りも弾もうというものだ。 あたりに人のいないのを確かめてから自宮の扉を開けて中に入ったときはほっとした。
シャワーを浴びてバスローブを羽織ってほっとしながら今日の冒険を反芻しているとミロがやってきた。
「来たか。」
あらかじめ考えていた通りに寝室に入りドアを閉めると、ミロが居間に入ってきたのを見計らってドア越しに声をかける。
「ミロ、私の姿は見えない。 透明になっているからそのつもりでいてくれ。」
「……はぁ?」
ミロが思いっきり間の抜けた声を出し、それからカミュはことの次第を説明した。
「ゆえに、私の身体は見えぬ。 今からそちらに行くが、お前の目にはバスローブが歩いているように見えるから驚かないでくれ。」
「驚くなって言われても、普通は驚くぜ。」
ドアを開けて出てきた白いバスローブにミロは唖然としたようだ。 バスローブが人間の形にふくらんで、しかし中身は空気としか思えない。 すたすたと近付く部屋履きだけが足の存在を主張している眺めも奇妙すぎる。
「ほんとにお前だろうな? ちょっとさわらせてくれ。」
緊張した顔で近寄ったミロがそっと手を回して抱くと、確かに充実した中身の感触はある。 しかし、キスをしながら視線を落とすとバスローブの裏側が見えるばかりで身体は何もないのだ。
「ふ〜〜ん、信じられんが本当のようだな。 で、明日の10時には元に戻るのか?」
「そのはずだ。 そうでなければ困る。」
「まあ、それを信じてここにずっといるんだな。 なにか用事ができたら全部俺が引き受けるから大丈夫だよ。」
「うむ、頼みたい。」
「それにしても面白い! 24時間限定というなら、なんの心配もないからな。 明日お前の服を取りに行くついでに俺も透明人間になってみようかな。」
「とんでもない!」
「え?」
それからカミュが抜け出すのに冷や汗をかいた苦労話をして、それさえもどうやら老師に助けてもらったらしいと付け加えたものだからミロがむっとした顔をする。
「するとなにか? 老師はお前の裸を見たかもしれんのだな?」
「いや、そうとは限らない。 気配を感じて外へ出そうとしただけかもしれぬ。 話しかけようかと思ったときにアイオリアが来たので諦めた。」
「ふうん……なにしろ前聖戦の生き残りだからな、そこらの凡人とは違うということも考えられる。 あれ? そしたらシオンはどうなんだ? シオンの目にはお前が見えなかったんだろう?」
「さて? 思うに、シオンより老師のほうが大滝の前で座していた時間が長かった分だけ感覚が鋭敏になられているのかも知れぬ。」
「そのあたりは中国三千年の歴史のなせる技だな。 案外、シャカの周りに魑魅魍魎が飛び回っているのが見えているのかもしれん。 まあ、老師のおかげで助かったんだから、もしもお前の裸を見られていたとしても文句を言える筋合いではないが。 」

   それになんといっても261歳だからな
   その年でカミュの裸をみてもどうということはあるまい

のんびりとそんなことを考えていられるのも相手が老師だからであって、もしそれがサガだったらミロの血は沸騰していたかもしれぬ。
「ともかくこれで安心だ。 今夜はゆっくり抱いてやるよ。 見えないお前っていうのも一興だ。」
「ん…」
「あ〜、頬を染めたのが見えないっていうのも問題だな。 表情もまったくわからないし。」
ちょっと助かる、とカミュは思ったのだがそれはミロには内緒である。
その夜はちょっとというか、かなり特別で、二人ともおおいに満足したとだけ付け加えておこう。

その翌日、カミュがまだ眠っているうちにミロは教皇の間へ出かけていった。 人に見付からないうちにカミュが残してきた服を回収しようというのである。
「ええと………ああ、ここだ。 よかった! 誰も見つけてないらしい。」
ほっとして手を伸ばしたとき、そのすぐ横の目立たない隅に古ぼけた巻物があるのに気がついた。 例のパルプンテの巻物である。
「ああ、これか、カミュを透明にしたってやつは。」
興味津々で手にとって、初めて見る巻物の装丁を調べていると、すぐ外の廊下でいきなりサガの怒鳴り声がした。
「カノンっ! また貴様の仕業か! 何度言ったらわかるのだ!」
ドキッとしたミロの手から巻物が滑り落ち、床に落ちた拍子にくるくると転がりながら広がった。
「あっ!」
金色の光がほとばしる。
さよう、歴史は繰り返すのである。






       見聞録にしては珍しく、聖域を舞台にしています。
        「パルプンテの巻物」 とは、「トルネコの大冒険」 に出てくる純和製アイテム。
       巻物を読むと、あらかじめ定められている幾つかの効果のうちのどれかがランダムに起こります。

       透明になる効果は、うちだけの特別です。