ラーメン

「寒っ!」
暖かい聖域から日本に戻ってきた最初の一声はこれだった。 わかっていながらつい首をすくめてしまう。
「しかたあるまい。 今日のギリシャの最高気温は17度。 しかし時差が7時間ある登別の今夜の気温はマイナス2度だ。」
「そう冷静に言うなよ。 3月の登別の夜11時が暖かいだろうなんて俺も思わない。 ところで腹が空いてないか?」
「うむ、それはたしかに。」

そんなことを話しながら玄関を入ると、最後の片付けを終えたらしい美穂が慌てて迎えに出てきた。
「まあ、ミロ様、カミュ様、お帰りは明日かと思っておりました。 あの、お食事はお済みになられました?」
「いや、大丈夫だ。 急に帰ってきてすまないが、明日の朝食は用意できる?」
「ええ、大丈夫でございます。」
「それならよかった! 」
「急なお帰りでしたので、お部屋の暖房をつけておりませんで申し訳ございません。」
「寒いのは慣れてるし、部屋を暖めている間に風呂に行くからかまわないさ。 じゃあ、お休み。」
「はい、お休みなさいませ。」

「作らせると悪いと思って美穂にはああ言ったが、やっぱりなにか食べないととても眠れないな。」
寒さに急ぎ足になりながら離れに入った俺は急いで暖房をつけた。
「あそこで空腹だと言ったら美穂も困る。 その判断はいいが、どうしたものか。」
「駅前に行って何か食べてくるしかあるまい。 それでいい?」
「よかろう。」
こうして俺たちは離れから登別駅前にテレポートした。

「さて、開いてる店は……あれ?」
「コンビニとそのほかには………なさそうだ。」
困ったことに夜の駅前の店のほとんどはすでにシャッターを下ろしている。
「う〜んと……」
カミュがコンビニ弁当の類をあまり好まないことはもとよりわかっている。 それは俺だって、アクエリアスのカミュにコンビニ弁当を食べさせたいとはまったく思わない。 それは読者諸氏も同じことだと思う。
二人でちょっと迷っていたとき、俺の目にいいものが映った。
「おい、あれはどうだ?」
「え?………ん…」
思ったとおりカミュはいい顔をしない。
「たまにはいいじゃないか、屋台のラーメンも♪」
「しかし………私はラーメンは…」
「たしかお前、昨夜、許してくれたらなんでもする、って言わなかった?」
「………それは……言ったと………思う…」
「じゃあ、決まりね♪ 今夜はラーメンにする!」
あらぬ情景を思い出して赤面しているカミュには気付かないふりをして、俺は道の向かい側のビルの駐車場の脇に店を出している屋台に近づいた。

ラーメンの屋台というものには前から興味があった。 しかし、カミュがその方面には一顧だにしないので俺としても誘うこともできないし、かといって一人で食べるのもはなはだ面白くないというものだ。
いくらなんでもスコーピオンのミロがたった一人で屋台のラーメンをすするというのはあまりにも不釣合い、侘びしすぎるというものだろう。 しかし、カミュと一緒なら楽しいことは間違いないし、日本の風俗習慣を実地見聞するという理屈も成り立とうというものだ。
ところがカミュとラーメンの相性は悪い。
初めて北海道に来た翌日にさっそく牧場で馬に乗り、それ自体はなにも困ることはなかったのだが、昼食のときに普通の食事のほかにラーメンも出た。 「よろしかったらどうぞ! ラーメンは北海道の名物です。」 とか言われたカミュは素直に頷いてまだ慣れていなかった箸を取り、恐る恐る幾口か食べた後、さっそく真っ白いシルクのシャツに汁を幾つか跳ね飛ばしたのだ。
「あっ!」
思うに、周りの日本人の箸の使い方をじっと観察していたカミュは、慣れない箸を日本人と同じように持ち、同じように器用に食べようとして失敗したらしかった。 いくら論理から実践に入るカミュでも、年期の入った日本人と同じにはいかないに決まってる。 一方、俺は、最初から二本の木の棒としか思えない箸なんかとの相性を信じるほど自己の可能性について楽観的ではなかったので、堂々とフォークを要求して、それでも不安が先に立ち、ほとんど器に口をつけるようにしてラーメンなるパスタを慎重に食べていたのだから汁が跳ねるわけがない。
それを横目で見て 「 郷にいっては郷に従え 」 とかの諺を思い浮かべていたに決まっているカミュは、不器用な俺のことを哀れんでいたに違いないのだが、結果はカミュの惨敗、と言って悪ければ惜敗だった。
「……それ、落ちるかな?」
「さぁ………無理かも。」
胸元の汚れを布巾でそっと吸い取りながらちらりとラーメンを見るカミュははなはだ面白くなさそうで、このときからラーメンとの相性が悪いと判断したらしい。 たしかに北海道のラーメンは全国的にも評判がいいのに、あれ以来カミュは一度も食べたことがないはずだ。 むろんシルクのシャツはその後 二度と日の目を見なかった。

なにしろマイナス2度の北海道の夜だ。 聖域で食事も摂らずに用事を済ませ、ついうっかり日本に戻ってみれば夜中の11時だったのだから、空腹と寒さで暖かいものが恋しくて仕方がない。
「塩ラーメン、二つね♪」
冷たい風にひらひらとはためいている赤い暖簾をちょっとよけて丸椅子に座ると、入れ替わりに年配のサラリーマンが 「ご馳走さん!」 と言って出て行った。 足元がだんだん冷えてくるが、気の効いたことに膝掛けが用意されているのはさすが北国だ。 一枚しかないのをいいことにカミュと少しばかり膝を寄せ合って膝掛けを使うところなどは、うん、なかなかいいものだと思う。
初めて間近で見る屋台の合理的な構造に感心しながら待っていると、あっという間にラーメンが出来上がって目の前に置かれた。
「ふ〜ん、ほんとに早いな。 ほら、割り箸♪」
「うむ。」
いくら相性が悪いといってもすでに3年近くも滞在していて箸の使い方は日本人と比べてもなんら遜色がない。
思い出せば、カミュが最初に牧場で食べたときには塗り箸を使っていたように思う。 うまく使えないのは当たり前だったろう。
それはさておき、寒い風に吹かれながら食べるラーメンはことのほか美味い。 熱いところをふうふういって食べるのはなんとも言えず、これを暖かい室内で食べることを思えば寒さがラーメンの味わいをいっそう深くするというものだ。
どうやらカミュも同じことを思ったらしい。
「うむ、なかなかよかった! これをシベリアで食べるのもオツかも知れぬ♪」
「ああ、それはいいな!今度やってみるか? 北海道には生ラーメンの宅配セットがいくらでもあるからな。 最初からわかっていれば、アイザックと氷河の修行時代にいくらでも届けたんだが、惜しいことをした!」
「気持ちだけ受け取っておこう。 それにしても美味しかった!」
暖かいものを食べたおかげでカミュの口もほぐれて機嫌がいいようだ。 これでラーメンとの相性もよくなるだろうと考えた俺が支払いを済ませ道を歩き出したとき、屋台の主人が裏側にひょいっと出てきた。 おや?と思ったとき、あまりきれいそうには見えない大きな青いポリバケツの蓋を取った主人がその中の水をひしゃくで汲んで、俺たちが今食べたと思しきラーメンの器を洗い始めたのだ。

   ………え?

ざっと水をかけてから洗剤のついたスポンジでくるくるっと洗い、またひしゃくで水をかけまわしたあとで器は屋台の棚に納まった。傍らの駐車場の隅にある水栓から緑色のホースが屋台まで延びているところをみると、あれで水を汲み足しているのではあるまいか。
ちらっとカミュを見ると、気付いたのか気付かなかったのか、前を見て歩いている。 そういうことなら、ここは気付かない振りをしているに限るのだ。

   あれならシベリアのほうがよっぽど衛生的だろう!
   考えもしなかったが、夜だけ店開きする移動式屋台に水道が引いてあるはずはないからな

人目のないところまで行って離れに直接テレポートした俺たちは内湯を済ませて早々にフトンにもぐりこんだ。
「ベッドもいいが、このフトンの寝心地も好きだな。 すぐ横が畳なので、なにをしても落ちる危険がない♪」
「なにをしても、って………あっ、ミロ!」
「いいから、いいから♪」
くすくす笑いながらカミュを抱きこんでゆくのはいいものだ。 ひとしきり楽しんだあとで、しっとりと寄り添ってくるカミュを抱きながら今日のことを思い出す。
「初めての屋台の経験もよかったな、一度は行ってみたいと思ってたんだよ。」
「しかし、私は一度でたくさんだ。」
「………え?」
「器の衛生管理体制にいささかの懸念がある。」
「あ………気付いてたの?」
「あれに気づかぬ筈はない。 でも…」
「………でも、なに?」
「美味しかったのは間違いがない。 いい経験だった。」
「ん………俺もそう思う。」
今度、カミュと氷河がシベリアに滞在するようなことがあれば、突然ラーメンセットを持っていって驚かしてやろうと思う。 そのときには海底神殿からこっそりアイザックも呼んでやろう。 久しぶりに顔をあわせたらどれほど喜ぶことだろう。
春分の日といっても北海道はまだまだ寒い。 楽しい計画を練りながら、カミュと一緒に肩までフトンにくるまって俺も目を閉じていった。






       
なぜか突然にラーメンの話を書きたくなりました。
       横浜のラーメン博物館も頭をよぎりましたが、ここは地に足をつけた経験をしていただくことに。
       ラーメン博物館にはるばる行くのもたいへんですし。
       ………あれ?私、昨日、そのそばを通ってますね、電車で(笑)。
       あそこにあるとは知らなかったわ♪
       お話の最後はせっかくの春分の日なので、抱いていただくことに。ちょっとしたサービス。 春ですし。

       そして今回からアイザックも復活させることにしました、ええ、彼はいい子なので(笑)。

           ※ ラーメン博物館 ⇒ こちら