踊るサテュロス IN 表慶館 ( by ミロ )

国立科学博物館を出た俺たちは、歩いて数分の東京国立博物館にやってきた。
次に見るのは、イタリアの誇る世界の至宝 「 踊るサテュロス 」 で、カミュも係員を質問攻めにしたりできないはずだ。 美術品を鑑賞するのは静かな環境に限るのだから、今度こそカミュとゆっくり過ごせるに違いない。そう思うと足取りも軽くなるから不思議なものだ。

正門前にはかなりの数の人間が列をなしているのが見えて俺を驚かせる。
「ふうん、ずいぶんな数だな!これがみんなサテュロスを見に来たのか?」
「そうとは限るまい。 ここの中には、主要な建造物が5つあり、そのそれぞれで独自に美術品を公開している。 我々の見に来た 『 踊るサテュロス 』 は、その一つに過ぎぬ。」
最初は、混んでいてろくに見られないのではないかと心配したが、幸い、ほとんどの日本人は他の建物で開かれている仏教関係の展覧会のチケットを買っていたらしい。 カミュとゆっくり夢想に浸りながらサテュロスを見たい俺としては希望通りの展開で、つい安堵の笑みがこぼれるのだ。
構内はたいへんに広く、噴水と、端整に刈り込まれた植え込みの向こう正面には、どうやら本館と思しき建物がその威容を誇っている。
「ふうん、あれはなかなか大きいな! 教皇庁くらいはあるんじゃないのか?」
「建築様式は異なるが、規模としては似たようなのもだろう。 明治15年に開館した旧本館は、大正12年の関東大震災で大きな被害を受け、その後立て直されている。 だが、これから我々が行くのはあそこではなく、左側の表慶館だ。」

   ほう! なかなかいいじゃないか!
   中央の丸いドームは、カミュの宝瓶宮を連想させるし、全体の大きさも手ごろだな
   まわりの植栽もすっきりしていて、気に入ったぜ!
   こんなところで、カミュと二人で暮したらどんなに楽しかろう!

しかし、この建物の正面入り口の左右には、高い台座のうえにライオンらしい石像が乗っているが、どういうことだろう?
せっかくのカミュとの住まいが、まるでアイオリアの獅子宮のようで俺にはちょっと面白くないのだ。
「ああ、あれはおそらく、日本の寺社に多く見かける狛犬を西洋化して装飾に使ったものだろう。」
狛犬なら、日本に来てからあちこちで見かけたが、なにも俺とカミュの夢の邸宅にまで進出することもないだろうに、と思いながら俺はカミュのあとを追った。
「あれ? 正面から入るんじゃなくて、左側から行くのか? ふうん、ここにも小さい入り口があるんだな。」
カミュが先に入った入り口は上に続く階段が左右に分かれていて、小さいカーブを描きながらそれぞれ登れるようになっている。 こんな細かい造りが面白くて、俺はカミュとは反対向きに上ることにした。 十段も登らないうちに、反対側から登っていたカミュとばったり会って、カミュが 「 おや?」 という顔をする。

   こんなことが生活を楽しくするんだぜ、カミュ
   宝瓶宮でも、お前と夜を過ごすとき、俺のちょっとした工夫がお前を楽しませてると思うんだがな

くすくす思い出し笑いをしながら中に入ると、奥の部屋まで見通せるようになっていて、一番向こう側に早くもめざすサテュロスの背中が見えている。
「おい、カミュ、あそこにあるぜ!」
手前の部屋の掲示物を生真面目に読もうとするカミュを急かした俺は、急ぎ足でサテュロスの部屋に入っていった。

   芸術なんてものは、論理はあとまわしでいいから、まず直接触れて、その感動を味わうべきなんだぜ
   理論から入っていったんじゃ、自分の感覚が先入観で鈍ると思うんだがな
   まず、白紙の心で感じる! それが一番大切なんだ
   お前を抱くときも、俺はいつも白紙の心でお前を感じることにしてる!
   そしてそのたびに、俺の胸は感動で満ち溢れてるんだよ

そして、サテュロスは素晴らしかった!
2000年の深い眠りから醒めたサテュロスが、俺たちの前にその美しい肢体を惜しげもなくさらしてくれている。
その場所はほの暗く、外から見えていた丸ドームの真下なのだろう、円形の部屋の中央に展示されたサテュロスは恍惚の表情を浮かべながら宙に浮いて、まさに踊っているようだった。 その姿はまるで、夜のカミュを思わせて俺を赤面させた。
この室内は 美術品の保護のために暗くしてあるのだが、俺の名誉の保護のためにもどうやら必要なことのようだ。 世界的美術品を前にしてこの連想は問題があるかもしれんが、考えてみれば、サテュロスもカミュも完成された美しさという点では非の打ち所がないのだから、この連想は俺にしてみれば極めて自然なことだ。 むろんサテュロスの方が、男性的筋肉の完璧な表現においてはまさっているが、俺のカミュがそんな点でこのサテュロスにまさっていては困るというものだろう。
サテュロスの髪の流れはいかにも自然で美しく、これもカミュを密かに髣髴とさせる。 そのほか、上方を見上げる恍惚とした表情や、どことなく少年めいた無垢な面差しはカミュに相通じるものがあり、俺を唸らせずにはおかない。
そんなに混んではいなかったので、周囲を何度も回りながらあらゆる角度から鑑賞してみると、ますますカミュを思わせるものがあり、どきどきしてしまう。 むろんカミュがそんな事を思っているはずもなく、2000年前の芸術に感動しているのは明らかで、ちらちら盗み見ると、その目には純粋な賛嘆の色があふれているのだった。

はるかに見上げる高い天井は、小さいステンドグラスの丸窓から光を落とし、二階部分の窓からも内部の円形バルコニー越しにやはり外部からの自然光を取り入れている。
宝瓶宮の丸屋根の下は居室ではなく広いホールになっているので、ただ通り抜けるだけなのだが、こんな円形の部屋が寝室だったら、と俺の連想はあらぬ方向に進んでゆく。

   部屋の中にある8本の円柱が遠いギリシャ時代への夢をいざない、
   その中央にはお前との愛のしとねを用意しよう!
   丸屋根のステンドグラスからの朝の光に目覚めれば、俺のカミュが至高の微笑を呉れるだろう
   鳥の声に目覚め、月の光に瞳を閉じよう
   朝に口付けて、黄昏どきには手をとって、夜のとばりが下りたらお前を抱こう
   カミュ カミュ 俺の宝、俺の命
   いつまでも共にあらんことを

やがて、俺たちはサテュロスとの逢瀬を堪能して部屋を出た。
「素晴らしかった! 実にみごとだ、来てよかったな」
「うむ、実にすばらしい!」
階段を下りる間際に今一度振り返ってみた。
サテュロスは微動だにせず、髪をなびかせ美しい姿態をみせている。 これでサテュロスとはお別れだが、今夜からは、カミュが俺のサテュロスだ。

   今夜は存分に鑑賞させてもらうぜ、カミュ
   あの表情も、身体のひねりも、みんなみんな俺は手に入れているのだから

視線を戻したとき、やはり振り返っているカミュと目が合った。
その目が、一瞬、俺になにか言おうとしているようにも見えて、
「ん? どうかしたか? 」
と聞いてみた。
「なんでもない。」
そう答えると、カミュは階段を下り始める。
「今日は、いい日だった。」
満足げなカミュに
「ああ、俺もだ。」
そう答えて、俺たちは出口へと向かっていった。