「タクシー その前の前」


アメリカに端を発したリーマンショックは日本にも多大な影響を与え、様々な業種で倒産が相次いだのは記憶に新しい。
古谷が勤めていた東京の外国語専門学校もそのあおりを受けて生徒が急激に減少し、ついに職を失ったのは去年の春のことだ。
「あ〜あ、僕らもついにハローワークだなぁ。 古谷先生はこれからどうするんです?」
「故郷に戻ってタクシーの運転手でもやろうかと思うんだよね。おふくろも歳だから心配だし。」
「ほかの語学学校も求人はないですしね。」
「子安先生は英語だからまだいいじゃないですか。 私なんてギリシャ語ですからマイナーすぎて就職口は皆無ですよ。」
「いえいえ、英語もメジャーすぎて人が余ってますからね。 まあ、お互い頑張りましょう。」
こうして古谷は東京を引き払うと親の待つ園部町でタクシー運転手を始めたのだった。

日本でギリシャ語が話せる人間は数少ない。少なすぎて今までに一人も出会ったことがないのが現状だ。
「ギリシャに行かないと喋れないかな、やっぱり。東京だとギリシャ語を話す人間の交流会なんていうのもあったんだが、ここいらじゃ有り得ないしな。あ〜あ、役に立たないっていうのはしょうがないな。」
そう思いながらたいして変化のない生活を送っていたある日、大雨の降る夕方に二人の客が乗ってきた。
行く先を聞いて走り出してすぐに後ろの席から聞こえてきたのは、なんとギリシャ語だ。あっと驚いた古谷が懐かしさのあまり得意のギリシャ語で話しかけようとした途端、交わされている話の内容が頭の中ではじけた。

   あ………だめだ………とても話しかけられないっ!

短い会話はすぐに流暢な日本語になり、話題もいかにも無難な台風や地勢のことになる。ギリシャ語の会話があれ以上発展しなかったことに胸をなでおろしながら、古谷はハンドルを握って安全運転に心掛けた。さよう、ミロが話す内容によっては交通事故にもつながりかねない状況だったのだから、まさに人間万事 塞翁が馬とはこのことである。

「それよりはもっとシンプルに、犬も歩けば棒に当たる、のほうがこの場合はふさわしいことわざじゃないのか?」
「ミロっ!そんなことを言っている場合ではなかろうっ!」
「はい…」


            壁に耳あり障子に目あり、ですね。
            「タクシーには壁も障子もないから油断したんだよ」  ← 言い訳