東 大 寺

「奈良はいつ来てもいいな。」
2月にしては暖かい日が続きその点では楽なのだが、あいにく今日の奈良は小雨が降っている。
昨夜は遅く宿に入ったのでミロお気に入りの鹿にも会えず、宿泊した奈良ホテルの朝食を早く済ませた二人は傘をさして東大寺へと向かった。
「雨の日だと鹿はどうしてるんだろう? この間来たときは晴れていたから雨のときのことなんか考えもしなかったが。」
「奈良の鹿は人に慣れているとはいえ野生であることに変わりはない。 台風ではあるまいし、雨の日でもそれなりに過ごしているだろう。」
「それもそうか。」
昨日までいた京都と違い、奈良の寺は堂々たる寺域を誇り、その中に金堂や五重塔が配置されている古代らしいおおらかさがミロの気に入っている。
「東大寺は明らかに奈良公園の中だろうが、興福寺は、あれは奈良公園?」
「興福寺は寺域を奈良公園に開放している。 塀で囲まれているわけでもないので昼夜を問わず人の出入りを妨げない。 五重塔はいつでもライトアップされていて美しいそうだ。」
「ふうん………俺たちの宮もライトアップしたらどうだろう。 もちろん、お前のところは神秘のブルーで、俺のところは煩悩の赤ね♪」
「またそんな恥ずかしいことを……」
「あ、お前の頬が幽玄の赤に染まった!」
「お前の語彙だけは誉めておく。」
カミュをあきれさせながら歩いていくと最初の鹿に出くわした。
「ほら、お前の好きな鹿だ。」
公園の木の下で立ちつくしている雌鹿は彫像のように動かない。
「濡れてて寒くないのかな?」
「野生動物だ。 雨の降るのも当たり前だと思っているのだろう。」
「俺たちは野生じゃないからな。 もしお前が外で雨に濡れていたら、俺は切なくていとおしくて、すぐに駆け寄って毛布で包んで連れ帰ってやるよ。」
「気を遣わせる。 せいぜいそんなことのないように気をつけよう。」
「いや、時々はやってみたいから、気をつけなくていい。 おおいに濡れてくれて結構♪」
「では傘をさすのをやめて、もっと雨を降らせてもよいか?」
「今はだめだ。 鹿を見てから東大寺に行くんだから。 それにお前をかかえて奈良ホテルに駆け戻るのは俺も遠慮する。」
「お前も思慮が働くのだな。」
「当たり前だ。」
そんな他愛のない会話をしながら二人は東大寺の前までやってきた。 雨はけぶるような霧雨に変わり、これでは傘をささなくてもよさそうだ。
「おい、極端にすいてないか?」
きれいに手入れされた木の下に広がる芝生は鹿がまんべんなく食べているのでまるでゴルフ場の芝のように滑らかに整えられている。 はるか遠くに大仏殿を望む広い参道には誰もいず、鹿せんべい目当ての常連の鹿たちが遠くに群れているばかりである。 二人の近くにも何頭かじっと立っているが、せんべいを持っていないのははなからわかっているらしく寄ってもこない。
「東大寺の開門は八時と早いが、シーズンオフの二月の平日でしかもこの天気では観光客の出足も鈍いのだろう。 私とお前で貸切だ。」
「鹿は風景だからな。 うん、俺たちって、とっても贅沢!黄金には贅沢がよく似合うってどこかで聞いたことない?」
それは、富士には月見草がよく似合う、という太宰治の名言である。
運慶・快慶ら二十人がわずか69日間で作ったといわれる左右の金剛力士像の巨大さにあらためて驚きながら南大門を抜け、左手の回廊入り口から拝観料を払って中に入ると、目の前になにさえぎるものもなく雄大な大仏殿がその全容を現した。 以前にも見てはいるのだが、想像を絶する巨大さがミロを再び唸らせる。
誰もが感嘆とともに仰ぎ見る木造建築では世界最大の威容を誇る大仏殿の巨大な甍の両側にある鴟尾 (しび) の金色がよく目立つ。
「鴟尾って、なんの尻尾だ?」
「魚の尾といわれている。 屋根に置くことによって水を呼び防火の意味を持たせたのだろう。 天井絵や彫刻に龍を用いるのも同様だ。」
「なるほど。 龍は雨と風を呼ぶというからな。」
うんうんと頷くミロは龍も好きである。 中国では国王や帝の象徴ともなり、吉祥の霊獣だ。
「奈良の寺は全般に大きくて気持ちがいいが、ここは別格だな。このとてつもない広さが俺は好きだよ。 なんともいえず心がおおらかになる。」
「まったくだ。 昔の人の広壮な気風がしのばれる。」
「ほんとに信じられんほど大きいな! よくもまあ、人がこれを作ったものだ。 これって江戸の建築だったよな。」
「うむ、東大寺の始まりは神亀五年 (728) に建てられた金鐘山寺 (きんしょうせんじ) に端を発するが、大仏として知られているこの盧舎那仏 (るしゃなぶつ) の開眼供養は天平勝宝4年 (752) に孝謙天皇、聖武太上天皇、光明皇太后の行幸のもと僧侶一万人が参列して盛大に行われた。 この数はけっして誇張ではなく、正倉院に当時の名簿が残っているそうだ。 その後1180年に平重衡による南都焼き討ちにより伽藍のほとんどを焼失、1567年には松永久秀により焼かれてそのたびに再建が行われている。 しかし、予算の関係もあって創建当時と同じ大きさのものを造ることはできず、江戸期に復興された現在の大仏殿は奥行きと高さは変わらないが、間口は約三分の二となっている。」
「これで三分の二か!」
「大仏殿を支える柱も創建当時と同じような巨木を国内で用立てることはできず、芯柱の周りを用材で囲み、金具や金輪でとめて太い柱としている。 ちなみにこの参道は、昭和大修理のときにあらたに作られたもので、仏教伝来のルートを示すため、インド、中国、韓国、日本それぞれで産出された敷石を並べてある。」
「ふ〜ん、考えたもんだな。 しかし、お前がそれだけの知識を蓄えてるのにも感心するよ。 俺にはとても無理だ。」
「さほどのことはない。 お前が昨夜入浴している間に本を読んで得た知識も数多い。」
「俺の入浴中にもっとほかの事を考えてくれるわけにはいかなかった?」
「ミロ! 場所柄をわきまえて発言してもらおう。」
「ああ、すまん、以後気をつける。」
相変わらず参拝者の姿は少なくて、二人のほかはほんの数人がいるだけだ。
「う〜ん、この東大寺を貸切とはね! 日ごろの行いが反映されてるってことかな。」

   ミロのあの言動で?
   あれが反映されて、この静けさか?

いつに変わらぬミロの行動を思い出してすこしばかり頬を染めたカミュが仏教の仏の鷹揚さに感心しながら大仏殿の中に入ると、ひんやりとした空気の巨大空間に鎮座まします大仏のなんと大きいことか。
「ほんとにすごい………」
「圧倒されるな!」
大仏のみならず、仏前に供えられた蓮の花やそれを挿す花瓶、それにとまっている蝶、座っている蓮台、その他の彫刻や瓦などの建築資材の展示品にいたるまで何もかもが並外れた大きさだ。
「火災や天災が度重なったため、大仏の創建当初のままの箇所は台座、右脇腹、袖、大腿部などにすぎず、あとの部分は後世に修理されたものだ。」
「ふ〜ん!」
「松永久秀が戦国時代に焼いたときには時代が時代だったのでなかなか復興が進まず、やっと仮堂ができたのだがそれも1610年の大風で倒壊。 このときは大仏の首が落ち、雨ざらしの首なし状態が百年ほども続いた。」
「ええっ! それはあんまりだろうっ!」
今の大仏殿を見ているミロにはそんな無残な有様を想像することさえ難しい。 たしかに大きすぎるためすぐには直せないだろうが、それをずっと見ているしかなかった寺の僧侶たちはどんな思いでいたろうか。 百年といえば、一生の間、一度もまともな大仏の姿を見なかった人間が数多くいたということになる。
ため息をつきながら大仏を見上げるミロは、はるかギリシャからやってきて、完成された荘厳な姿の大仏を見ることのできる自分の幸運を思わないわけにはいかない。
「で、この穴が気になるんだが。」
ミロが指差したのは大仏の後方にある太い柱の根元に開けられた四角い穴だ。 なんの説明の札もないが、これをくぐりぬけられると幸せになるとか厄除けになるとかいう話は有名だ。
「こんな立派な建築に穴なんか開けていいとはとても思えないが、いつごろ誰が開けたんだろう? 出来心や悪戯でやれる仕事ではないし、手間暇かけて大工がやったとしか思えないが。」
「そういえば、たしかに………この建物は江戸中期の1709年に落慶しているから、そのときに計画的に穴が開けられたのだろうか。 私がたった一つ読んだ話では、物事のすべてが完成するというのはよくないのでどこかに未完成の部分を作っておいたほうがよいからだ、ということが書いてあったが真偽のほどはわからない。」
「そういえば、西遊記でも玄奘三蔵が天竺で経をもらって帰る途中で川に落ちて大事な経文が濡れてしまい、川岸の石の上で広げて乾かしていたらその一部が貼り付いて取れなくなって破けてしまった。すると、物事にはなにかしら欠けたところがあるほうがよいからわざとそのように計らったのだ、と菩薩だか誰だかが言ったという話があるが、それと似たようなものか?」
「ほう! 詳しいのだな!」
「このスコーピオンのミロを見くびってもらっては困る。」
実のところは、地獄草紙の件で、眠っているカミュを連れて帰る途中でシャカから無理やり聞かされた説法のなかにこの話があったのだ。 全部はとても無理だが、この話は面白くて覚えていたというわけだ。
「俺たちじゃ、とても通れないな。 ちょっと発育しすぎてる。」
「貴鬼くらいが妥当だろう。」
この柱の穴は東大寺によると、縦37センチ、横30センチ、奥行き108センチだそうで、数珠の数が108つということを考えると妙に含蓄が深い。
「もしかするとそれを考えて柱の寸法を決めてるのかな?」
「あり得る事だ。」
「処女宮の柱の数とか太さも、実はこれにのっとってたりして♪」
「ふうむ……」
「冗談だよ、ギリシャ建築にそれはないだろう。」
のちに十二宮に帰ったミロが笑いながらこの話をシャカにして、「そのとおりだが、君は何がおかしいのかね?」 とクールに言われて息を飲むことになる。

「おい、蝋燭を供えていこうぜ。」
「うむ。」
神妙な顔で志納金を木箱に入れたミロが二本の蝋燭を取り、一本をカミュに渡した。 朝早いためまだ誰も蝋燭を上げてはおらず、種火になる大きい蝋燭だけが炎を揺らしている。
炎を移して二本並べて蝋燭をあげ、手を合わせてなにごとか祈る。
「これでよし!当分は安泰だ!ここの大仏ならハーデスが出てきても勝てるんじゃないのか。」
「そう願いたい。」
異国から来た二人が大仏殿を出て行った。 はるか上から盧舎那仏の慈眼が注がれる。
大和路の春が霧雨にけぶっていた。





                  
東大寺はあまりにもいろいろありすぎて、長編の一つや二つ書けそうです。
                  なにをピックアップするか悩み、結局はミロ様の思うがままに動いていただきました。

                  柱の穴くぐりの動画、これは絶品です。  ⇒ こちら
                  
「お前もやらないか? 動画投稿するから♪」
                  「いやだっ!」