上 野 ・ 阿 修 羅 展

忙しさに日を送っていたとき、テレビをつけたミロが あっと大きな声を出した。
「なにごとだ?」
「いけないっ、忘れてた! 阿修羅展は今週で最後だ!」
「あっ!」
そういえばそうだった。 九州国立博物館での阿修羅展が7月半ばからというのを覚えていたため、つい、東京での公開もまだ続くと思い込んでいたのが敗因だ。
「これはまずいな!」
「ん? どうした?」
ネット囲碁を中断してミロのそばに行くと、テレビに写っているのはどうやらその阿修羅展の会場前からの中継のようだ。
「見てみろよ、この人の波を。 残すはあと三日間という状態で、夕方五時半現在の待ち時間が一時間だそうだ。」
「一時間!」
なるほど画面には小雨降る中を傘をさして長い列に並んでいる人々の行列が写されており、リポーターが阿修羅を見に来た人の熱気を伝えているところだ。
「明日の閉館ぎりぎりに行くのがよかろう。 最終日よりはまだましだろう。」
「それしかないだろうな、俺もそう思う。」
前売り券は買ってあるのだ。 私たちは宿の主人に頼んで航空機のチケットを予約してもらい、翌日東京へと出かけていった。

神田の由緒あるレストランで洒落た食事をしてからタクシーで上野の国立博物館前に乗り付けたのは午後6時50分だ。 あまりの混雑に先月末からはどの曜日も閉館時間を延長し、午後八時までとなっている。
「おい、ちょっと混んでないか?」
ミロが声を上げた。 なるほど、道に面したチケット売り場の列こそたいしたことはないが、続々と人が入っていくのは私たちのように事前に前売り券を買っていたか、他の売り場で買っておいたのだろうと思われる。
「ただいま入場までのお時間は一時間待ちとなっております!」
「えっ!」
「やはりな。」
正門前で声を張り上げる職員は小雨の中をビニールコートを着込んで奮戦中だ。
「どうする?」
「北海道から来たのだ。 むろん並ぶほかはあるまい。」
頷いたミロとチケットを見せながら正門を抜け、左手奥の平成館を目指す。 雨は小ぶりだがやむ気配はなくて、少しでも早く行列に並ぼうとする客が傘をさしながら足早に進んでゆく。
「参ったな、閉館一時間前でこの行列とはな。」
「一時間前に来れば並ばずに入れると思ったのだが、誰しも考えることは同じと見える。」
東京都の人口が1200万人、気軽に上野まで来ることが可能な首都圏の人口がさらに多いことを考えると、このくらいの列ですむのが不思議なくらいだ。 幸い雨の降りもたいしたことはなく、ミロと二人で並んでいると係員の声が聞こえてきた。
「本日は混みあっているため、閉館時間を8時半とします!」
「よかったな、それなら7時半ぎりぎりに入ってもゆっくり見られるぜ。」
「うむ、よい判断だ。」
寒いわけでもなく、雨もたいしたことはない。 宝塚のために早朝5時半から並んだことを思えばまったく苦にはならないのだった。 もっともその宝塚さえ何のこともなかったのを思い出す。 ミロがいるのだから退屈するはずがない。

長かった列もどんどん進み、やがて玄関前に設営されたテントの下に入った。 雨が降っているのでここで各自傘をたたんで入場の用意をさせようとの配慮らしい。 さすがによく考えてある。
「長い傘は玄関前の傘立てに入れて鍵をかけてください! 折り畳み傘はビニール袋を配っていますのでそこに入れて雫が垂れないよう各自お持ちください。 長い傘は館内には持って入れません!」
二人とも折り畳みなので袋を受け取りそっと水気を切って準備は万端整った。

とうとう私たちも中に入るときが来て、百人くらいが一斉に前に進んだ。 平成館の一階は通常展示になっており、お目当ての阿修羅は玄関を入ってすぐの階段もしくはエスカレーターを上った二階に展示されている。 ほぼ間違いなく全員がわき目も振らずに二階へと向かう。
「わっ、こんなに混んでるのか!」
平成館の二階中央の広い空間はショップになっていて、今回の特別展にあわせてデザインされた阿修羅グッズが数多く並べられており、たくさんの客が品定めに余念がない。 その左右の翼が第一会場、第二会場になっていて阿修羅ほかの仏や関連する仏具、古文書などが展示されているのだ。
「なんといっても阿修羅だからな。 日本でいちばん人気のある仏像じゃないのか。」
「仏の眷属の中では尊格が高いとは言えぬのだが。」
「尊格と人気は別ってことだ。 正直言って女神よりお前の方が人気があると思うぜ、ここだけの話だが。」
「ミロ!」
「ああ、わかってるよ、でも一度言ってみたかった。」
まったくとんでもないことを言う。 世の中には言っていいことと悪いことがあり………

   ……ほう!

最初に入った部屋は明かりを抑えてあって壁は黒く天井が高い。 そこに間隔を置いて展示してある身の丈2メートル以上もある四天王がじつによい視覚的効果を生んでいた。 奈良興福寺でも見たはずなのに、ほかの像とは離れて単体で展示されているためか、その圧倒的な量感と写実性に目を奪われる。 前方から当てられた照明が後方の黒い壁に像のシルエットを作り出し、仏像との二重性がいっそうその大きさを強調しているのが面白い。
「すごいな………!」
「うむ………素晴らしい!」
千年以上も前に仏師が彫った彫刻がこんなにも人の心を捉えるのはなぜだろう。 見開いた目、盛り上がる筋肉、風に靡く天衣、踏みつけられている邪鬼、すべてが素晴らしい力量の鮮やかな結晶だ。 仏法を、仏を守護する四天王のあるべき姿を想像してここまで見事に表現できるというのは、宗教を越えて完成された芸術を目指そうと言う心の表れではなかったろうか。
ため息をつきながらいろいろな展示物を見て歩く。
時間をかけているうちに8時を過ぎて、もう新たに入場するものはないという時刻になってきた。 このあたりはほどほどにすいてきたが、全員のお目当てである阿修羅の部屋はまだ混雑が続いているに違いない。 壁際に置かれた座り心地のよさそうな椅子には疲れた足を休めている人も多いが、閉館間際には阿修羅に会うために馳せ参じるのだろうと思われた。
「おい、そろそろ向こうの部屋に行こうぜ。 ここであまりゆっくりしていると阿修羅に会う時間が短くなる。」
「うむ。」
急ぎ足で中央ホールを抜けて反対側の展示室に入った。 阿修羅のことを解説した映像コーナーにもたくさんの人がいて大盛況だがそこには寄らず阿修羅を目指す。
「あぁ……」
私の前を行くミロが通路を左に曲がった途端、ため息をついた。……阿修羅だ。 阿修羅がいる!

最後の展示室は阿修羅ただ一人のためのものだった。 入り口からスロープになっていて、高い位置から阿修羅を見ることができる。 やや遠くはあるものの、美しい阿修羅がそこにいた。 よく見えるように幾分高い位置にあり、興福寺では許されなかった背中方向からも見ることができるように部屋の中央に立っているのは前評判の通りだ。 ガラスケースの中だった興福寺とは違って、何一つさえぎるもののない露出展示なのも有り難い。 壁の色は暗く、照明がうまく工夫されているので顔が浮き立って見えた。
「おい………ちょっとよくないか。 というか、すごくいい!」
声をひそめたミロが話しかけてきた。
「奈良で見たから今回は見なくてもいいかと思っていたが、初の全周展示に惹かれて来れば、なんと素晴らしいじゃないか!ほんとに来てよかったぜ!」
ミロの言うとおりだ。 興福寺では普通のガラスケースに他の八部衆と一緒に展示されていたのに、ここで見る阿修羅は実に美しく また高貴であったのだ。 まるで一流カメラマンが特別に工夫した照明の下で撮った写真を見ているようなもので、暗い背景に暖かい色のスポットライトを浴びた阿修羅は、その愁いを秘めた表情を惜しげもなく善男善女の目にさらし、ひたと前方を見つめ続けていた。
たくさんの人が取り巻き見上げ、静かなざわめきが空間に満ちている。 憧れや感嘆や感動が支配するこの場所は、通常の仏像鑑賞とはまったく違う雰囲気を醸し出していた。
「みんな、阿修羅にほれ込んでないか? そんな気がする。 これは普通に仏像や美術品を見る態度じゃないぜ。 本来の意味とは違うが、俺にはまるで宗教に見える。 阿修羅に憧れる阿修羅教だ。 熱狂ではないが、ほれ込んでるんだよ、みんな。」
三つの顔も六本の手もなにも不自然ではなく美しいバランスを持っている。 たくさんの人々とともにゆっくりと阿修羅の周りをめぐりながらあらゆる方向から見上げ、二度とないかも知れぬこの邂逅を味わった。 初めて見る阿修羅の背中は美しく、素直な線が若い少年の身体を思わせた。
スロープの上から手すりに寄りかかり飽かず眺めている人も多い。 みな一様に阿修羅に会えた喜びと感動を忘れまいとじっと見入ってため息をつく。 この部屋は阿修羅一人が掌握し全面支配していた。そう、まるで星々が集まる銀河系の中心にいるように厳かに君臨していたのだ。
「行こうか。」
静かな声でミロが言う。
私は小さく頷いて部屋を出た。





           ああ、阿修羅、あなたに会ったことを私は忘れません。
             九州展は7月14日からです。


                  国宝 阿修羅展  (九州国立博物館 ) ⇒ こちら