バ イ キ ン グ |
「バイキングに行かないか?」 「ハイキング?」 「違うよ、それは野山の散策だろう。 バイキングっていうのは食べ放題の食事のことだ。 日本じゃ、なぜかそう言うんだよ。」 何事も経験というミロに押し切られたカミュが連れていかれたのは東京は新宿中村屋、この地に店を構えてから今年でちょうど百年になるというインドカリーの老舗である。 「カレーのバイキングか?」 「ネットサーフィンしてたら見つけたんだよ。 二人ともカレーは好きだし、世間によくあるケーキバイキングじゃ、差し障りがあるだろう。」 「それはたしかに。」 新宿中村屋でいちばん有名なのはおそらく肉まん・あんまんだろう。 東京を中心として関東一円に店舗があり、関西では551蓬莱の肉まんが有名らしいが、関東では中村屋の肉まんを愛好する者が数多い。 「広く人口に膾炙しているっていうことだな。」。 「その用法は誤りではないのか?」 カミュの考えでは、人口に膾炙するとは、詩文・名句が人々に親しまれてしばしば口にのぼることを意味するというのである。 「そうか?膾 ( なます ) は生肉や刺身で、炙はあぶり肉のことだから、みんなに好まれる食べ物のことだと思うが。」 「ううむ…」 そんなことを話しながらアルタ前に群がる人の山をちらりと横目で見た二人は歩道の雑踏をぬけて右手のビルに入った。 一階は洒落た喫茶店とパンや和菓子の売場になっていて、いずれも中村屋の直営だ。 「ええと、カリーバイキングは4階だ。」 中村屋のカリーの歴史は古く、大正4年に母国インドから逃れて来た独立運動の志士ボースを創業者の夫妻が匿ったのが縁で本場のカリーの作りかたを伝授され今に至っているという。 その時に英語で伝えられた発音そのままに、中村屋ではカリーと呼びならわしている。 「ふ〜ん、だからカリーなんだ! なんでカレーって書かないのかと思ってた。」 レストランの入口のボードを読んだミロが感心すると、 「ちなみに、よく目にする新宿中村屋というロゴは画家・中村不折の手になるものだ。」 カミュが付け加えた。 「えっ!由来があるのか!」 「中村屋の創業者夫妻は数多くの芸術家・文化人に援助をしたことで有名だ。 その縁で店の名を揮毫してもらったのだろう。」 カミュはこれらの知識をネットサーフィンで覚えたのだと言う。 「で、中村屋のサイトに行っていながらカリーバイキングには気付かなかったわけ?」 「うむ、まったく。」 ミロが苦笑する。 興味の観点が違うのである。 「二人、お願いします。」 入口のカウンターで料金を払うと左手奥に案内された。 ゆったりとした椅子や室内の装飾は長い歴史を刻み、暖かい色の照明が落ち着きを誘う。 通り過ぎる途中にはサラダや飲み物、何種類ものカリー、薬味などが並び、おいしそうなカリーの匂いに食欲をそそられる。 案内された席にはすでに氷の入った水差しやカトラリーが用意されてあり、すぐに食べられるようになっていた。 「じゃ、行こうぜ! ちなみに90分限定だ。」 「え? どこに?」 席を確認したミロに誘われたカミュが聞き返したときには、少し離れたテーブルに歩いていったミロがきれいに磨き上げられた皿の山の一枚を手に取っている。 「バイキングっていうのは全部自分でやるんだよ。 ライスをよそるのも薬味を選ぶのも自分の好みでやればいい。 ただし、食べ残さないように適量を取り分けるのが重要なマナーだ。」 「ほう!そういうものか。」 ライスには普通の白い米飯のほかに黄色いサフランライスがあって珍しい。 「どうする?」 「むろん、サフランライスだ。」 「うん、黄金だからな。 本命のカリーもいろいろあるぜ。 野菜カリー、チキンカリー、ビーフカリー。 ふうん! マンゴーとミルクたっぷりのカリーって珍しいな。」 薬味の種類も数多く、あれこれ乗せるとやたら賑やかだ。 「それから飲み物とサラダも。」 コーヒー、紅茶、二種類のスープ、アイスドリンクが並び、こうしたことに慣れないカミュは驚くばかりだ。 「お前も少し世俗のことを覚えたほうがいいぜ。 ファミレスのドリンクバーのことなんかは知らないほうがお前らしいが、こういった由緒ある老舗のバイキングくらいは理解しておいたほうがいい。 そこのスプーンとフォークを忘れるなよ。」 「ああ、なるほど。」 新しい客がやってきて皿や料理が減っていくと、シックな服装のウェイトレスが魔法のように現れて補充をしているのが見事な手際だ。 「やっぱりカリーはいいな。 日本人のカレー好きは徹底してるが、俺もカレーは好きだぜ。」 「私もだ。 聖域では処女宮でたまにお目にかかるくらいだろう。」 ここの客は常連が多いらしく、一人でやってきて好きなように食べていくケースが多そうだ。 「いまだにカリーで通してるこだわりがいいじゃないか。 語感からいってもカリーのほうが辛そうだ。」 そう言ったミロが早くも空の皿を持って立ち上がった。 「ちょっと行ってくる。」 カミュはいつも通りの優雅さでスプーンを口に運んでいる。 「お前もおかわりに行ったほうがいいぜ。 せっかくのバイキングだ。」 「うむ、あとでゆく。」 そうしてミロが三皿を食べたときになって二皿目を終えたカミュがコーヒーとデザートを取りに行き、それに合わせたミロがちょっと急いでサラダやスープを片付けて、あとを追うようにしてコーヒーを取ってきた。 「デザートはよいのか?」 「う〜ん………遠慮しとく。」 妙に歯切れの悪いミロが溜め息をついた。 調子に乗って食べ過ぎたかな? どう考えても胃が重い…… 「では行こうか。」 ナプキンで品よく口元を押さえたカミュが立ち上がる。 「ん…」 最初の元気はどこへやら。 わかっていながら、『 いくら食べても値段は一緒 』 というバイキングの陥穽にミロは見事にはまったのである。 「もしかして食べ過ぎたとか?」 「そんなことは……あるかも…」 「自重せよ、と今更言っても遅いか。 どこかで休んだほうがよいか?」 「いや、それほどでも……」 カミュが手を上げてタクシーをつかまえた。 着いたところは新宿御苑だ。 ちょうど桜の時期で、広い園内は人でいっぱいだが、探せば空いている場所もあるものだ。 「ああ、見事だ!」 「少し横になるがいい。 ただし膝枕は断らせてもらう。」 「わかってるよ、残念だがあきらめる。」 食べ過ぎたのはまずかったが、横になって見上げる桜とカミュの横顔がミロをいたく満足させた。 「ほんとにきれいだな!」 「うむ。」 風が桜の花びらを散らす。ミロは目の前の景色にいつまでもみとれていた。 子供のころから中村屋が大好きです。 父が東京に出張に行くたびに、買ってくるお土産は中村屋の肉まんあんまんでした。 「ほかの肉まんあんまんは認めんっ!」 というくらいの筋金入りのファン。 ああ、またカリーバイキングにいきたいっ! カリーバイキング ⇒ こちら ボース ⇒ こちら 中村不折 ⇒ こちら |
、
、
、