矢 切 の 渡 し

矢切の渡しは有名だ。
といっても40年ほど前に爆発的に知名度が上がりいきなり全国区になったので、それまでは地元の人しか知らない地味な存在だった。 そのきっかけとなったのはもちろんあの歌であることは言うまでもない。
ここは東京葛飾区、寅さんの映画で有名な帝釈天のある柴又の町を抜けて高い土手を上がると突然視界がひらけた。目の前には江戸川が流れていて遮るものはなにもない。今まで 通ってきた柴又の下町情緒あふれる街の様子とはまるで違っていて別世界のようだ。
「向こう側ってなにもないんだな。あっちは千葉県か?」
「対岸は千葉県松戸市だ。あそこに見えるのが松戸駅付近の繁華街だと思われる。」
手元の地図と照らし合わせていたカミュが指差す方角に少し小高い森といくつかのビル群が小さく見えている。 その手前は拍子抜けするほど広い土地が広がり、田畑や空き地、駐車場、そして住宅街もちらほらと点在していた。柴又の密集した住宅街とは対照的だ。 そして目指す矢切の渡しは、
「ああ、あれだ!のぼりが立ってる!」
土手を降りて行くと広い未舗装の駐車場やグランドの間をまっすぐに川に向かって道が伸びている。
「絶対に迷わないな。すごく有名だからもっと土産物屋とか並んでいるかと思ったが、こんなに素っ気ないとは思わなかった。」
「あの歌が流行ったころはもっと賑やかだったのではないだろうか。歌に合わせて作ったものではなく、江戸の昔から存在している渡しのためそのままの風情が残ったのだろう。 」
「全く観光地化していなくていいよ。いい意味で期待を裏切られた。しかしここまで素っ気ないのも珍しい。希少価値があるな。」
感心しながら川岸まで行くと数人が乗船を待っている。簡単な注意書の看板があり、料金、乗船時の注意、風が強いときには運航を中止することなどが書いてあった。
「ますます風情があるな。運航しているときはあの竿に白い旗をあげて中止のときには旗がないんだそうだ。実に単純でわかりやすいじゃないか。」
ミロがすぐ近くの背の高い旗竿を指差した。なるほどこれなら遠くからでも容易に見えるだろう。
「江戸時代もそうだったのかもしれぬな。」
「ぜひそうであってほしいな。そういうことは変えないほうがいいんだよ。」
そんなことを話しているうちに対岸から何人かの客を乗せた渡し船が戻ってきた。予想を裏切らない木造船が二人を喜ばせる。これで合成樹脂のボートだったら興趣をそぐという ものだ。 舟が着く桟橋も古びた杭や踏板が風景に溶け込んでいて新しさはまったくなく、絵に描いたような年代物だ。
「驚いたな。こんなに期待を裏切らない観光地なんてめったにお目にかかれないんじゃないのか。実にいいね。」
「矢切の渡し全盛期のころははたしてどうだったのだろう?なんにせよ、今来てよかったと言える。」
そんなことを話しているうちに船頭が巧みな櫂さばきで舟を桟橋に寄せてきた。
揺れる舟から客が降りミロとカミュほか三人が順番に乗り込んだ。片道料金の200円は船頭に直接手渡すという簡単さでここでも余計な手間は省いているのが好ましい。考えてみれば江戸の昔に乗船券などというものがあったはずはないのだ。
長年の希望が叶いついにカミュとここに来られたミロはご満悦だ。

   矢切の渡しってほんとにあるんだな
   理想を言えばほかの客がいないのが望ましいんだがそれは贅沢というものだろう
   なんにしてもいい風情だ

ほかに客がやってこないことを確認した船頭が、船縁から身を乗り出さないなどの簡単な注意をしてからギイッと舟を漕ぎ出した。 大人ばかりなのでその心配は要らないが、子供がいたらやはり注意監督が必要だろう。
船頭は手慣れたものでギイギイと櫂をしならせながら向こう岸の船着き場目指して漕いでゆく。川の中程まで来ると気持ちのいい川風が吹いてきて江戸の昔もこうだったろうと想像させた。川縁は土手が高いせいもあって背の高い建物などはほとんど見えず、河幅がけっこう広いこともあいまって思いの外の解放感だ。 水量もたっぷりとあり豊かな気分が湧いてくる。
「う〜ん、実に気持ちがいいな!天気もいいし、これじゃ駆け落ちの悲壮感は味わえないな。」
「そんなことを考えていたのか?」
「だってあの歌がそもそもそういう歌なんだから当然だろ。」
「期待を裏切って悪いが、私はなにがあっても、私を連れて逃げろ、などと軟弱なことは言わぬからな。」
「わかってるよ、そんなこと。気分だ、気分。」
しいていえば、致命傷を負ったカミュが助け起こそうとするミロを制して 「私にはかまわず先に進め!」 と促す状況ならあり得るだろうが、そんな縁起でもない仮定をここで持ち出す必要もないし、聖闘士の二人にとっては当たり前すぎて確認するにも当たらない。死生を分かつ刹那の瞬間にも判断を迷わない確たる自信がミロにはある。
空を見上げ辺りを見回し川浪のきらめきを楽しんでいるうちに舟は対岸の桟橋に着いた。 ここも柴又側と甲乙つけがたいあっさりした風情で色気もなにもない。こうまで商売っけのない名所も珍しいだろう。
「江戸時代もこうだったって保証するぜ。絶対の自信がある。」
「同感だ。」
足元にご注意ください、とかの注意書も皆無で、注意過剰の昨今の風潮とは真逆をいっている。
「落ちるなよ。」
「なにをばかなことを。」
笑いながら岸にあがり、ちょっとした潅木を抜けるとごくささやかな土産物屋があって飲み物や子供向けの菓子おもちゃなどを並べている。店といっても畳1畳分もない仮小屋のような小さなもので、これまたまったく期待を裏切らない。営業が終わったらパタパタと畳んで引き上げられそうな気もする。売っているものこそ現代の品だが、業態はまさしく江戸とかわらないのではあるまいか?
「ここまでくるとあっぱれだな。単にブームが終わって客が少ないってことかもしれないが、俺はものすごく気に入った。こんな観光地ってあり得ない。」
「観光地としてはかなりマイナーなのだろうな。それにしても首都圏で普通に渡し舟が生き残っているというのは珍しい。」
すぐそばには矢切の渡しの立派な石碑があり、これは歌のブームのときに設置されたものと推測された。黒い御影石の立派なものだが、ボタンを押すと歌が流れるというような今風の仕掛けはないようだ。 観光地にありがちなご当地ソングを大音量で流すというようなことも一切なく、というよりむしろ歌の存在を感じさせないように極力注意をはらっているようにも見えた。いいコンセプトだ。
少し歩いて土手に登るとなんということもない土地が広がっている。空き地と畑と駐車場の中に住宅がまばらに散らばっているばかりだ。
「柴又とちがってこっちにはなにもないんだな。矢切の渡しってほんとに期待を裏切らないな。」
感心しながらそのあたりをしばらく歩き、船着き場に戻ってくると誰もいない。旗を確認するとちゃんと風にはためいていて運航はしているようだ。
「ついてるな。今度はお前と二人っきりだ。」
「私は駆け落ちはせぬからそのつもりで。」
「わかってるよ。でもちょっとくらいおあいそで付き合ってくれても。」
「なにか言ったか?」
「いや、なにも。」
しばらく待っていると客を数人乗せた舟が近付いてきた。降りた客たちはみんな土手を登って行ってしまったので今度こそミロの希望通りの貸し切りだ。
二人を乗せた舟は横腹に波を受けながら柴又に近づいてゆく。櫂の音が聞こえるだけの静かな時間が好ましい。もうすぐ桟橋に着くと思ったそのときにカミュが口を開いた。
「しかし、」
「え?」
「こんなに長く聖域から離れてお前と二人だけでいればその……」
カミュが少し口ごもった。 川風が長い髪を揺らす。
「その……歌の主旨とたいしてかわりないのかもしれぬ。」
「……ああ、そうだな。」
少し頬を染めて岸に上がると河川敷を利用したグラウンドでゲートボールをやっている。
「共に白髪の生えるまでっていうからな。」
「あまり嬉しくない想像だ。」
「でも若死にもごめんだ。」
「まったくだ。」
背の高い姿が柴又の町に消えていった。





       矢切の渡しってほんとになにもないんですよ、それがとてもいいと思って。


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