夜 行 バ ス

「八重洲 (やえす) って、誰かの名前からきてるんじゃなかったか?
「日本に漂着して江戸幕府に仕えたオランダ人航海士ヤン・ヨーステンが家康から拝領した屋敷がこの場所にあったことからその名前がついたと言われている。 彼の和名は耶楊子 (やようす) だそうだ。 たしかに八重洲と似ている。」
「ヤン・ヨーステン変じて八重洲ってわけか。 今だって国を離れてこれだけ長く日本に住んでるとはるか遠くに来たっていう気がするのに、江戸時代にここに来てずっと暮らすっていうのは想像を絶するな。 手紙を書いても届くかどうかはまったくわからないし、国に帰れない確率のほうが高そうだ。」
今の八重洲には当時の面影はなにもない。 現代的なビルがそびえ立ち、たくさんの人が東京駅に出入りを繰り返す様子をヤン・ヨーステンが見たら目を回すだろう。
「で、ここからバスが出るのか?」
俺はあたりを見回した。 東京駅を出てすぐの目の前の道路は日本各地に向かう高速バスの出発場所らしく、京都や岩手や広島などの遠隔地に行くバスに混じって筑波や横浜、土浦などの通勤圏に帰るサラリーマンのための直通バスも数多い。 次から次へと大型バスがやってきては、たくさんの乗客を乗せてほんの5分ほど停まっただけで出発していくのは当たり前とはいえ見事なものだ。
「ああ、ここに青森行きのバス停がある。 5番だ。」
そう、俺達はこれから東京発 22:30 の夜行バスに乗って青森まで行こうとしてる。

「え? 東京から青森までは夜行バスをご利用になるのですか?」
「うん、いちど経験してみたくてね。 青森に一泊してから、列車でここまで帰ってくるから。」
「かしこまりました。 ではチケットをお取りしておきます。」
宿の主人をちょっと驚かせながら東京からの帰路をバスにした結果、俺たちはここにいる。
面白いので出発待ちの間、喫茶店にも入らずに眺めていると、次々とやってくるバスはじつに手際よく係員に誘導されて定められた停留所に停まり、チケットを確認した係員がバスの側面下部の収納スペースに大きな荷物を乗客から次々と受け取っては入れてゆく。 俺達の荷物はそんなに大きくないので、預ける必要はないだろう。
22:20発の筑波大学行きが満席に近い客を乗せて出てゆくとすぐにバスがやってきた。 どのバスも普通の路線バスよりはるかに座席の位置が高くて特別な作りになっている。
「あれが青森行きだ。」
「楽しみだね。 中はどうなってるんだろう?子供みたいにワクワクしてる。」
「お前はいつでも子供のようだが。」
「あれっ、そうかな?子供じゃないってことを今夜教えて……あ、今夜は無理か。 明日の晩、たっぷりと思い知らせてやるから楽しみに待っててくれ。」
カミュを赤面させておいてから俺たちもチケットを見せてバスに乗り込んだ。 理屈では負けるが口では負けない。

車内は座席が3列になっていて、かなりゆったりしたリクライニングシートが並んでる。
「俺は4Bだからここだ。」
「私が窓際でよいのか?」
「ああ、俺は真ん中の列でいい。」
大事なカミュを真ん中なんかにしたら俺以外の人間に寝顔を見られる可能性が高くなる。 そんなもったいないことはできないのだ。
「ふうん、膝掛けとスリッパがあるぜ。 便利なものだな。」
薄手の紺色の毛布は就寝用の膝掛けなのだろう。 一日中履いていた靴を脱いで、きわめて簡便とはいえスリッパに履き変えられるというのもありがたい。
「そら、お前の枕だ。」
カミュが携帯型の簡易枕を取り出した。 空気で膨らませて首が安定するような形状になっている。
「夜行バスでしたらこちらをお持ち下さい。 これがないと寝るのがおつらいかもしれません。」
そう言って宿の主人が渡してくれた枕を二人で膨らます。 ほかの客もどんどん自分の席を探して寝る用意を始めており、俺たちみたいに枕を膨らませている客も何人かいた。
「椅子を倒しますので。」
小声で真後ろの席の客に断りを入れてからシートをほどよく倒す。 こうしたバスで座席を倒すときは、うしろの客に一声掛けてからリクライニングにするのがマナーだ。 いきなり倒すと無礼者だと思われる。 外人はマナーを知らないなどと思われたら心外だ。
運転手が席を離れて乗客の数を数え始めた。 今日は満席で、このほうが確認は楽だろう。
「時間だ。」
時計を見たカミュがそう言ったとたん出発のアナウンスがあり、バスは東京駅をあとにして一路青森へと走り始めた。

動き始めるともう誰も喋ったりはしない。 寝る態勢に入るのだ。 もっとも俺とカミュは喋れなくてもなにも困らない。 しかし、
(おい……足が窮屈じゃないか?)
(うむ、これはいささか……)
テレパシーを使うから意思の疎通には困らないが、足のやり場には困ってしまった。 日本人に比べて長すぎるのだ、俺たちの足は!
脱いだ靴は座席の下に押し込んであり、前のシートの下部にあるフットレストを引き出して足を乗せられるのはいいのだが、いかにも狭い。 夜行バスの思わぬ落とし穴だ。
(寝られそうか?)
(うむ、なんとか…)
(少し横向きになるといいかも。)
(やってみる。)
室温は25度に自動調整されていて、とくに膝掛けの必要もなさそうだ。 いくつかの姿勢を試してみて、なんとか落ち着ける態勢を発見したときはほっとした。
走り出して15分もすると、天井灯が消されて車内が暗くなる。
(俺に抱かれなくて淋しい? 独りで寝られる?)
(ばかなことを…)
(ふふふ、おやすみ。)
(おやすみ。)
バスは俺たちが寝ている間に深夜の高速道路を走り続けて翌朝の8時には青森駅に着く予定だ。 9時間半のあいだ眠り続けられるとは思わないが、なんとかなるだろう。
まわりの客の中には早くも寝息を立てはじめた者もいるが、はじめての夜行バスにワクワクしているためか俺はなかなか眠れない。 道路際に等間隔に設置された街灯の明かりが窓のカーテンのわずかな隙間からひっきりなしに目に入ってきて、それも妙に気になる。

   アイマスクがあったほうがよかったのかな?
   でもそんな慣れつけないものをしたら、かえって気になって眠れなさそうな気もするし。
   そういえば女聖闘士があのマスクをかぶっていても目が見えるのはどういうわけだ?
   シャカではあるまいし、あれで目が見えるっていうのは不自然だろう
   いや、シャカも不自然だな、やっぱり!

そのうちに眠れるだろうと思っているとカミュのほうが先に寝息を立てはじめた。 他人みたいな顔をしてカミュの横で寝るというのも珍しい。
それから何度も目が覚めた。 そのたびに車内の前方で緑色に光っている液晶の時刻を確認して目を閉じる。 カミュもときどき軽い寝返りを打っていたようだが話し掛けるのはやめておいた。
4時を過ぎたころトイレに行ってみることにした。 とくに必要は感じなかったが、こういったバスのトイレがどんな作りになっているのか興味があったのだ。

狭かった!それに尽きる!
車内の中ほどの窓側にカーテンで区切られた場所があり、そこを開けると、よくもまあこんなにと思うほどコンパクトに作られた階段があり、五段ほど降りたところにあるやはり小さいドアを開けるとそこにトイレがあった。
頭は天井にぶつかる寸前で横幅もきわめて狭い。 、こんなに狭小な空間に入ったことがない俺は、なんだか奇術師が長い剣を何本も突き刺す箱に入ったような気がしてきた。 恐ろしく狭い空間に鏡や水栓などの設備が凝縮されていて唖然とするばかりだ。
アルデバランは絶対に入れないだろうなと思いながら外に出ると、目の前の壁面にささやかながら洗面用の水栓設備と飲料水の蛇口、それに鏡があるのに気がついた。 どうやら朝の洗面やひげそりのための設備らしい。

   ふうん……限定された空間にこれだけのものを詰め込むとはね!
   しかし身長185センチにはあまりにも窮屈だ

あきれたり感心したりしながら席に戻り、物音を立てないように横になってほっとした。 なんだか宇宙船の中に行ってきたような気もする。 奇術師の箱といい、宇宙船といい、どちらもきわめつけの非日常的空間だ。
あれこれと考えているとカミュがそっと起き上がった。
(ちょっと面白いぜ、驚くなよ。)
(え?…ああ、わかった。)
やがて戻ってきたカミュから
(感銘を受けた。 感想はバスを降りてからだ。)
との返事があった。
そのあと、とろとろとまどろんでいるうちに外が明るくなってきた。 カミュがそっとカーテンの裾をめくった隙間から黄金の稲穂が見えて目にまぶしい。
(きれいだな!)
(うむ、美しい。)
青森が近づくとリンゴ畑が現れて俺たちを驚かせた。 9月半ばにはすでに色づいているなんて想像もしなかった。 赤いのもあれば黄色や黄緑のもあって種類が違うらしかった。
(喜べ、お前が鈴なりだ。)
(でもいちばん旨いのは俺だぜ。 今夜味わってくれる?)
(ええと…)
(ふふふ)
冗談を言っていると他の乗客も徐々に起きはじめ、やがて運転手が信号待ちの時間を利用して運転席と客席を区切っていたカーテンを左右に開けた。すでに高速道路を降りていつのまにか一般道を走っていたのだ。天井の室内灯もともされて、乗客たちが一斉に自分の横のカーテンを開ける。
住宅や商店の屋根に瓦が一切使われていないのは北海道と同じだ。 積雪が多くて雪下ろしが必要な土地では瓦は実用的ではない。
大きなホテルやビルが見えだして、バスはついに9時間半に及ぶ長旅を終えて本州の最北の地、青森に着いた。 8時少し前の駅頭は人や車でにぎやかだ。
「よし、降りようぜ。」
「やっと着いたな。」
「お待ちかねのイクラ丼を食べよう。 評判の店は調べてある。」
「素早いな。」
「朝飯は大事だからな。 東京から遠いっていうのも利点がある。 着くのが8時だから、開いている店がたくさんあって選び放題だ。 京都なんか、東京から近いせいで着くのが早過ぎて、一軒の店も開いていないっていうからな。」
降り立った青森は少し涼し過ぎたが、晴天の今日は気温も上がることになっている。
「奥入瀬と十和田湖を見たいな。」
「三内丸山遺跡も必ず。」
「斜陽館もだ。」
初めての土地に期待がつのる。 バスを降りた客たちがそれぞれの方向に散っていった。





         
青森には中学くらいに一度行きました。
         あとは学生の頃、夜行に乗って青森に行き、奥入瀬を歩いて十和田湖まで行った思い出が。
         むろん帰りも夜行でした、若かったのね。