山手線

「どうしてこんなに人がいるんだ? ギリシャでは考えられん!」
「日本では首都東京への一極集中化が著しく、地方都市の空洞化が進んでいる。」
「もう少しわかりやすく言ってくれないか?」
「東京の人口が多すぎるということだ。」
「同感だな!」

二人が立っているのは東京・渋谷駅である。
JR、東急電鉄、東京メトロ (地下鉄)、京王電鉄の四つの会社の8路線が乗り入れているこの駅の一日の乗降客は200万人をゆうに越え、首都圏有数の混雑を誇るのだ。 むろんそんなものを誇られても利用者としては迷惑なばかりなのだが。
改札口の雑踏に気おされてさっきから脇に避けている二人の見るところ、いつまでたっても人波の途切れる気配はない。 スイカやパスモの利用者が多いので改札を通る人の流れはスムーズだが、それでも切符の自動販売機には長い列ができている。
「どうやら通勤ラッシュの時間帯らしい。 きりがないゆえ入るぞ。」
「えっ、ここにか? おい、はぐれるなよ!」
「お前こそ!」
これだけの雑踏で一人の人間も他人と接触することなく行きたい方向に進んでいくというのはたいしたものだとミロは思うのだ。 仔細に観察すると人の進行方向を見極めながらスピードを微妙に調節してぶつからずに済ませているらしい。 目的のホームに上がってゆく階段は上る人と降りてくる人が左右にきちんと別れ、しかもまったく途切れることがない。
「ふうん! どこからこんなに人が湧いてくるんだ? 全員がどこかに行く用事があるなんて信じられんな!」
「たいていの人間は仕事を持ち、毎日出勤する。 存在していることそのものが仕事とも言える我々は例外的存在だ。」
「それはまあね、俺たちの尺度でものをみることは間違いだとは思う。」
人の波に交じって上がりきったホームは山手線の外回り、ここ渋谷から新宿方面へ行く電車が発着するところである。 ざわめきに重なって電車の発車を知らせる電子音楽や 「電車が参ります、白線の後ろに下がってお待ちください」 などの音がひっきりなしに聞こえてきてたいへんな混雑ぶりだ。
「ええと……ああ、この電車に乗れば良い。」
ホームに滑り込んできた電車に注意を向けたカミュをミロの腕がぐいっと引き戻した。
「おい、待てっ! とても乗れん!」
「え? どうして?」
「どうしてもなにも、この行列を見てみろよ! 次の電車どころか、次の次の電車に乗るらしい人の行列までできているような気がする。 それにあれを見ろ! 乗り切れない乗客を中に押し込む係までいるぜ、信じられるか?!」
なるほど、あまりにも乗ろうとする客が多いのでドアが閉まる寸前まで外から押し込む係員が奮闘している姿がカミュの眼に入った。 とても無理だと思っていたが、そこはうまくしたもので、次の電車にしようと考えた客がすっとホームに戻り、それなりに溢れんばかりの乗客がなんとか車内に押し込まれて電車は駅をゆるゆると出てゆくことが繰り返されている。
「いいか! 俺はお前があんなふうに押し込まれるなんていうシチュエーションは絶対に拒否するからな! 聖域に冠たる黄金聖闘士のすることじゃない! 」
「しかし、それでは電車には乗れぬ。」
「いいんだよ、どうせ行く先は美術館だ。 時間が決められているわけじゃないからな、空くまでゆっくりと待とうぜ、ほら、ここのベンチが空いてる。 みんな仕事に行くのに必死だから椅子にのんびり座ろうなんて人間はいないんだよ、きっと。」

そこで二人は空恐ろしいほどの人が次々と乗ったり降りたりを繰り返す渋谷駅山手線のホームで延々と待ち続け、やっとミロが乗る気を起こしたのは10時過ぎだった。
「これくらいならいいだろう、誰もお前にさわれない。」
「もう2時間もここにいる。 哲学をするにはスニオン岬の方が向いていると思うが。」
さすがのカミュも現代日本人の怒涛の通勤ラッシュに皮肉の一つも言いたくなったらしい。
「ほぅ! 電車の本数が多いと思っていたが、この時刻表を見てみるがいい。」
「え?」
二人が座っていたすぐそばの掲示板に電車の時刻表が掲示されている。
「………おいおい! これが毎日、一分の狂いもなく運転されてるのか? 日本人の几帳面さの真髄だな! アテネじゃ、とても考えられん! きっと誰も信じないぜ!」
目の前の時刻表にはじつに細かく数字が並んでおり、慣れないミロには数字の行列がちらちらして見える。
「私の知る限りではアテネ駅の朝8時台の発車本数は5本だったと思う。 しかし、ここは………」
「24本だな! 2分半に一本の割りだ。 それも、山手線の外回りの分だけだ。 この駅にはほかにやまほど電車が入ってくるんだろう! 俺たちには想像もつかない未知の世界だ。」
「うむ、有り得ない。」
朝は通勤のサラリーマンやOLがほとんどだったホームにも親子連れやお年寄りの姿が増え始め、なんとなくのんびりした雰囲気が漂い始めていることが二人をほっとさせる。 それでもミロの知る限り、いちばん混雑しているアテネ駅よりもはるかに人の数は多いのだ。
「恐れ入ったな!毎日これが繰り返されるんだろうが、これじゃ身体が持たないだろうに。 ほら、これに乗ろうぜ!」
身体の芯まで染み入ったような気がする例の電子音に送られて乗り込んだ車内は、さすがに空席もちらほらとして朝のラッシュを思わせるものは何も無い。
「だから最初からタクシーで行けばよかったんだよ。」
「いや、それでは日本のほんとうの姿がわからぬ。」
「ほんとうの姿ね………まあ、いいけどさ。」
進行方向左手に都庁を含む新宿副都心の高層ビル群が見えてきた。
「京都の古い寺も北海道の自然もこの山手線も、みんな日本の姿だ。 なかなか面白い国じゃないか。」
「私たちもこの風景に馴染んでいるだろうか?」
「馴染んでるさ、もう3年もいるんだぜ♪」

こんなふうに背の高い外国人がなにやら不思議な言葉で話し合っているのを、見て見ぬふりをしながら気にしている乗客は数多い。 いくら外国人が多い東京とはいえ、これほど人目を引く美形には滅多にお目にかかれるものではないのだ。
( さすがは東京だ、この電車に乗ってよかった! ) と思われていることなど今の二人が知るはずもない。 敵意や警戒心といったものには敏感な聖闘士も、感歎や羨望といった類の感情を察知するのは苦手と見える。
「高田馬場の発車メロディーは鉄腕アトムだって知ってる?」
「鉄腕アトムとはなんだ?」
「知らなきゃ教えてやるよ、鉄腕アトムってのは…」
電車が次の駅に滑り込んでいった。





               
2年ほど前に書き上げていながらうっかり消してしまった 「山手線」。
               構想も新たに登場です、壁紙もフィットしてますし。

               さて、首都圏ではおなじみの駅の発車を知らせる電子音。
               各駅のメロディーは こちら  をごらんください。
               私としては、上野から有楽町は笑ってしまうほど馴染みです。
               東京駅のがいちばん好きかな。 遠くの方にはごめんなさい。

                     渋谷の電車の時刻表  ⇒   こちら