「 悩 む 人


今夜は私が天蠍宮に行くことになっていた。 淡い緑のファブリックに変えたのでぜひ見て欲しいとミロが言ったからだ。
「きっと、お前の白い肌に似合うと思う。」
教皇の間にほど近い廊下ですれ違いざまにそうささやかれて、私は頬を染めた。 こんな人目につくところでいきなりそんなことを言われると動揺してしまうのに、ミロはそんな私を楽しんでいるように見える。 苦情を言おうとしたときにはミロは遠くに見えたアイオリアに手を挙げて合図をしているのだ。
赤い頬を見られたくはないのでその場を離れざるを得ず、困ることこの上ない。 ミロは平気なのだろうけれど私はいつまでたってもそうしたことに慣れることができないのだ。

暗くなってから天蠍宮に行った。
そっと扉を押し開ける。 昼の訪問とは違い、夜に訪ねることそのものがミロとの親密な逢瀬を意味していると思うといつのまにか身体がほてってしまう。 やさしい腕や熱い唇を思い浮かべながら通い慣れた廊下を進み、いつのまにか急ぎ足になっている自分に少し照れながら寝室の扉に手を掛けた。 私の肌とよく似合うという美しい緑のファブリックが眼に浮かぶ。
そのときだ、中でなにかの気配がした。

   え?………これは……

今までにそんな気配を感じたことはなかったが、それがなんであるかはすぐにわかった。
それは明らかに高揚した小宇宙で!
人が人を愛しているときの小宇宙で!
胸の鼓動が今までになかったほどに早まり心臓が破れそうだ。 いったい中に誰がいるのだろう?!ミロだけが私を待っているはずなのに!
ここはミロの寝室で。 そうだ、確かにミロと私の寝室で。
私は閉じられた扉の向こうを凝視した。 ミロと誰かの小宇宙が混ざり合っているそれは確かに愛の交歓を示している。 その種のものを客観的に感じたことなどむろん一度もないけれど、その沸き立つような興奮と抑えきれない愉悦が交じり合った小宇宙は明らかにそのときのものに違いない。
あまりの意外さに茫然として立ちすくんでいると、耐え難いほど濃密な甘く色濃い小宇宙が扉の隙間から流れ出してきた。 とすると、私が今までミロに抱かれていたときも、ここまであからさまに色めいた小宇宙が包みきれずに洩れ出していたのだろうか?
否! そんなはずはない。 私は夢中になって抱かれているしかできないのだが、ミロは十分な余裕をもって結界を作り、甘やかに醸成される私たちの溶け合った小宇宙が外に洩れぬように完璧に抑えてくれているはずなのだ。 全てをミロに任せていた私は、他の人間にこのような小宇宙を感じ取られようなどとは今までに考えたこともない。 しかし今、部屋の中からあふれてくる艶めいたこの小宇宙はどういうことだ?

手が震える。 後ずさりして逃げ出したくなる。 額に冷たい汗が浮かび、全身から血の気が引いた。 膝が がくがく震えて止まらない。ぬぐいきれない不快さが肌にまとわりついて身体の芯を蝕んでゆく。

   ミロが誰かを抱いている!
   私以外のいったい誰を………!

今までの、愛されている、という自信が脆くも崩れていく。
私だけのミロが遠くに行ってしまう。
ミロに一顧だにされない惨めな私が脳裏に浮かんでくる。
絶望と動揺があたりを真っ暗にした。

確かめねばならない。 ここから逃げ出すのは簡単だが、真実から眼をそらし疑心暗鬼のままでいては、明日からの私はミロの顔がまっすぐに見られなくなる。 そんなことになれば、いずれ 聖域を離れるしか道はなくなるのだ。
しかし勇気を出して事実を見極めれば、いつの日かもう一度強い自分を取り戻せるかもしれない。 ミロのいない自分を考えるのはつらすぎたが、真実を知ることがきっと未来に役立つだろう。

息をひそめてそっと扉を押してみた。
ミロは私を愛するときに鍵を掛けたりはしない。 なぜなら誰も来るはずはないからだ。
今夜も扉は音もなく開き、それが私を一層の不安に駆り立てた。 私が来ることを知っていながら他の者を抱き、それを見せ付けるために鍵を掛けていないのだろうか。
わざと結界を張らずにおいて、濃密な交情から醸し出される色濃い小宇宙を私にこれ見よがしに感じさせているのか? 私を呼んでおきながら、他のものとの交情を見せるのは、それによりさらなる快感や悦楽を得るためなのか?
そんな! そんなひどいこと!
私は唇を噛んだ。
ベッドサイドのかすかな灯りがミロの後ろ姿をぼんやり浮かび上がらせている。 予想していた通りの裸のそれは肩から腰にかけての均整の取れたラインが美しく、こんなときでさえ私は一瞬見とれてしまうのだ。 あの力強い肩も背も腕も腰も、昨日まではみんな私のものだったのに。
認めたくはなかったが、やはり誰かを組み敷いているミロは愛の行為に没頭しているらしく、部屋に入ってきた私の気配に気付きそうなものなのだが、悔しいことに振り向きもしないのだ。 なにかささやいているが、私にはなにを言っているのかよく聞こえない。 自分の心臓の鼓動のほうが頭の中に響き渡っているのだから。
相手はミロの陰になっていて顔も見えないが、肌が白いということだけはよくわかる。 なまめかしく 首に絡みついていた手がほどかれてミロの首筋から胸をゆるやかに撫でつつ、ついには腰を通り過ぎたあとミロをやさしく愛撫し始めたのに愕然とする。 このときのミロがなにをされているかわからないと言えば嘘になるだろう。 ゆるゆると首を振ったミロが重い溜め息をついて背をそらし、相手の動きに合わせてゆっくりと腰を揺すっているのが見える。
感じている、ミロは感じているのだ、快感を! 目の前の二人の官能的な仕草が私を打ちのめす。 私に、この私にあんなことができるだろうか?
私が何年たってもためらってしまう艶めいた仕草を、初めて抱かれた晩からミロに惜しみなく与え、こんなにも歓ばせているのはいったい誰なのだ??私のミロが奪われてゆく!
ひとしきり身体を震わせたミロが唇を重ねていった。 私の好きな、甘くやさしいキス。
ドキドキする胸を抑えながら必死で聞き耳を立ててみた。
「愛している………大事にするから………」
頭にかっと血が上った。
それは私がいつも聞かされている私だけの愛の言葉だ! ミロは私のためだけにそれを言ってくれるのだ! 誰を、誰を抱いている、ミロ!

思わず数歩近寄ったとき、ミロが突然相手の姿勢を変えさせた。

   えっ?!

さっきまで抱き合っていたのが、相手をやさしくうつぶせにさせたミロは細い腰を高く上げさせて抱え込むようにすると身体をゆっくりと押し付け始めたのだ。 白い背がこれ以上ないというほどそらされて、押し殺した甘い悲鳴が上がる。 はじめは嫌がってのがれようとしているようにみえたのに、ミロの動きにつれて高く低く糸を引くように続いていたそれがやがて甘美な喘ぎに変わるのを私はこの耳で聞いたのだ。 あまりのことに耳を塞ぎたくても手が動かない。 甘えるようにせがむように闇をつたうせつない喘ぎが耳に痛い。 もっと、もっと、と身をくねらせて私のミロに甘い仕打ちをねだっているのがよくわかる。 ミロが私以外のものにあんな声を出させている!この媚態のすべては私のミロに向けられているのだ。
身体中から力が抜けた。 ミロの秘めやかな、しかし熱を帯びた動きが私を瞠目させ、されるがままの相手の艶めいた吐息が耳元で響く。
なにが行なわれているかはさすがにわかる。 それは、長い間、私が避けてきた行為で。 ミロがずっと待ち望んでいた行為で。 愛し合うもの同士に交されるという緊密な交情の儀式で………!
吐き気がした、でも羨ましかった。
あんなにあんなに夢中になって、私の存在さえ気付かぬほどに二人してのめりこんでいる!
やむことのないベッドの軋みが私の嫉妬に拍車をかけ、闇を縫ってくるなんともいえぬ淫靡な音さえも私の羨望の対象となり始めた。
なぜ! なぜあそこにいるのが私ではないのだ?
なぜ他の者を愛する?私はもう必要ではないのか?
眼をそらそうと思っても、私の眼はそれを見ることをやめないのだ。 これでもか、これでもかと、容赦なく自分の置かれた惨めな立場を見せ付けられている私。

やがてミロの手が前に伸ばされ、じらすように試すようにそのあたりをさまよったあと、ついに相手を愛撫し始めた。 警戒することを知らない無防備な獲物を捕らえて放さぬ蠍のように執拗に、しかしどこまでもやさしく丹念に。 短い悲鳴が上がり、白い身体が身悶える。そしてその間もミロは動くことをやめない。 逃げ場を失った白い身体が耐えかねたように震え、指は淡い緑のシーツをつかんで爪を立てる。 今にも崩れ落ちそうな腰を危ういところで支えたミロが一層の愛を注ぐとせつなく甘い喘ぎが早まり濃い闇を揺らす。
それは………それはいつか私が受け入れるはずの行為で、ミロだけに秘かに見せるつもりだった淫靡な姿態で、私とミロを深く満足させ幸せに導く愛の儀式で!

やがてミロの身体から力が抜けた。 傍らに倒れこんだミロに、ようやっと起き上がった相手がかぶさっていくのがぼんやりと見える。 呆けたようになって見つめる私の目の前で、今度はいとしいミロが見知らぬ者の唇で愛撫されていく。
ミロが歓びに震えている。 ミロの手が相手の髪をぎこちなく梳いて、そのたびに愛撫は甘く激しく熱を帯びてゆく。 腰の横に添えられていた白い手がミロの胸に伸び、ようやく探り当てた蕾にやわらかくふれはじめると、大きく息をついたミロが相手の頭をそっと押さえつけてより深い刺激を求め始めた。 ミロが、ミロがあんなことをしている!私のミロが愛されることを求めている!私はミロが悶えているところを初めて見た。

罰が当たったのだ。
ミロの想いを知りながら拒絶ばかりしていたから、とうとう待ちきれなくなったミロは誘惑に身を任せたのに違いない。 ミロが悪いのではない。 抱かれている相手が悪いのではない。 ミロの想いを長い間踏みにじって来た私が悪いのだ。 ミロのやさしさに甘えて我を通していた愚かな私。
私さえしっかりとしていれば、恐れずにミロに抱かれていれば、ミロの想いを尊重していれば、こんな惨めなことにはならなかったのに!
なぜミロを信じなかったのだろう、あんなに何度も、「 大丈夫だ、やさしくするから…」 と言ってくれたのに!

ただぼんやりと見つめている私の前で、ミロが新しい行為を始めている。
それは先夜 私の脳裏をほんのわずか掠めたものの、羞恥のあまりすぐに打ち消していたとても恥ずかしい仕草で。 でもミロは嬉しそうで、相手も嬉しそうで。 それは互いに歓びを与え合う慈しみの儀式で。
眼も耳もふさぎたいのに、私は硬直したままそれを見て、聞かされているしかないのだ。

私もあんなふうにされたい! 
ミロにあんなことをしてやりたい。!
この唇で深く甘く包んで、あの唇でやさしく激しく含まれて、二人一緒に想いを重ねてどこまでも上り詰めてみたい!
でも、もう遅い………ミロは私をあきらめたのだ。 待っても待っても想いを汲もうとしない、情を知らない私を。
やっと涙が出てきた。 目の前の光景が滲んで何も見えなくなっていった。