其の七  嘉 能( カノン )


一方、魔鈴は五条の嘉能の屋敷に駆け付けていた。
部屋を出て行くアイオリアに  「 心配せずとも良いから、ここで待っているように 」  と云われたのだが、そこは姫君大事の魔鈴のことゆえ、とてもじっとしてはいられなかったのだ。
「たいへんでございます、伯父さまっ! 姫君様が化け物にさらわれました!河原の院にございます!!」
かねてより顔見知りの門番の老爺を叩き起こして脇の小門を開けさせ、嘉能の寝所のすぐそばの簀子縁から声をかけると、夜中にもかかわらずすぐに起きだしてきた嘉能は魔鈴から事情を聞き取り、すぐに近侍の相朔 ( アイザック ) を呼び寄せた。
「北の一の蔵にある三叉の鉾を持ってまいれ!それから、急ぎ六波羅蜜寺に人をやって、舎迦殿にわけを申し上げて河原の院にお運びいただくようにせよ!」
今は亡き魔鈴の母が姫君の乳母であった関係上、その兄の嘉能が姫のことについてはひとかたならぬ心配をしてくれるのが魔鈴にはたいそう心強いのだ。 せんだって少将が初めて姫の元を訪れたときにも、其のことを知った魔鈴が翌日にこの伯父の元に駆けつけて、あれこれと調度備品を貸してもらったときの有り難さといったらなかったのだ。
そのときに親身になってくれた相朔がすぐさま駆け出してゆき、魔鈴はすこしほっとする。
「河原の院は、よい話が有った試しがない。 つい先日も式部卿の宮家の女房の牛車が河原の院の南東の角あたりで、空は晴れているのに雷とともに雹 ( ひょう ) が降り積もるという怪異に遭っている。」
「まあ、五月に雹でございますか!」
「うむ、みるみるうちに牛車も牛も埋もれかけて、あわやというときに、西の方から白鷺が飛んできたと思うと、あっという間に雹は消え去り牛車も牛も無事であったということだ。」
「白鷺と申しますと?」
「おそらく安倍清明殿の手になるものであろうよ。 翌日に式部卿の宮が清涼殿で清明殿と会われたおりに訊いてみると、さあ?、といって笑っておられたそうだ。」
そんなことを話しながら女房に手伝わせて身支度を整えた嘉能が部屋を出たところへ、三叉の鉾を捧げ持った相朔が戻って来た。
「伯父様、その鉾は?」
「これは、まだ若い頃、住吉大社に参籠していた折の夢で、海辺の祠に降魔の鉾がある、とのお告げを受け、手に入れたもの。 必ずや、役に立とうぞ!」
魔鈴が見上げる三叉の鉾は一丈ほどの長さで、 螺鈿を巻いた柄の中ほどには古びた護符が貼ってあり、皓々と照る月の光に透き通った白銀の光を放っている。
「六波羅蜜寺の舎迦殿も退魔の宝杖 ( ほうじょう ) を持っておいでになるはず。 安心いたせ、姫を助けずにはおくものか!」
幸い、河原の院はここからも六波羅蜜寺からもほど近い。
力強い伯父の言葉に魔鈴もほっと安堵の息をつくが、はたして間に合ってくれるだろうか。

河原の院に着くと、ちょうど舎迦も門前に着いたところである。
舎迦はいまだ若年といえども、洛中にその人あり、と言われるほどの有徳の高僧で、嵯峨帝の信頼篤く、さきに清涼殿の屋根の上に鵺 ( ぬえ ) が夜な夜な現れたときも数珠を振るって印を結び、見る間に調伏退散させたほどの法力を持つのだ。
「これは舎迦殿、深夜のお運び、かたじけない!」
「なに、かまわぬ。 世人に仇なす悪しき怨霊を退治てくれよう。」
さらりと言った舎迦は、手に黄金に輝く退魔の宝杖を持って恐れ気もなくすたすたと荒れ果てた邸内に入ってゆくのだ。
「魔鈴はここで待つか?」
「いえ、姫君様と少将様のことが気にかかりますゆえ、お供いたします。」
「では、この五鈷鈴 ( ごこれい⇒こちら ) を持っておれ、そちの身を守るであろう。」
嘉能が懐から出した五鈷鈴は時代がかった美しい品で、ちりんと鳴った響きが夜の闇を払う心地がするのだ。
渡されたそれを握りしめた魔鈴も、おそるおそる嘉能に続く。 人も恐れる河原の院には昼でも近付いたことなどありはしないのだが、姫君と少将を案じる想いが魔鈴の足を進ませる。

先を行く舎迦は迷いもせずに最奥の部屋に入った。
「おお、嘉能殿!」
「これは、舎迦殿までおいで下されましたか!」
憤怒の形相凄まじい蟹盛と対峙していたシュラとアイオリアが驚きの声をあげる。
総身に幾つもの刀傷を受けた蟹盛の恐ろしげな様子を見た魔鈴が息を呑んだ。
「安心せよ、これしきの鬼、我が宝杖が引導代わりぞ!冥土の土産にするがよい!」
目を閉じた舎迦がすっと宝杖を差し延べると眩しいばかりに万条の光がほとばしる。
「うぎゃぴぃぃぃ〜〜っ!」
避けようもなく全身を金色の光に包まれた蟹盛の絶叫が、深閑とした河原の院を揺るがした。


                                  ⇒ 続く