「 貴鬼 十八歳 」


「そちは幾つにあいなった?」
「十八にございます。」
「貴鬼も十八歳か、早いものよ。」
そう仰せられた昭王様は感心されたようにこちらをご覧になる。
おそばに上がったときは昭王様を見上げさせていただいたのに、今では、もったいないことながら背丈も昭王様と変わらぬほどになっている。
ありがたいことに昭王様から篤いご信頼を賜わり、お側去らずの侍僕として紅綾殿にお仕えする毎日なのだった。

早いもので、カミュ様が燕を去られてからもう十年が経つ。
昭王様の御代 (みよ) はますます栄え、都の薊の賑わいもあの頃に層倍するものとなっていることをお知らせするすべがあれば、と思うこのごろなのだ。
あの時の豪雨からお救いいただいたおかげで燕はますます隆盛を誇り、国の内外に昭王様の令名は高まる一方である。
アルデバラン将軍もいよいよ軍功を挙げられ我が燕の領土も徐々に広がりを見せているのだった。

そこへ侍僕がアイオリア様を案内してきた。
「昭王、野駆けは如何なされます?」
「アイオリアか。 この空模様が気にかかる。 雨にならぬうちに一鞭くれるとしよう。」
そのお言葉にアイオリア様は、御机の上に目をやられた。 そこには昭王様のご決裁を仰ぐ竹簡が幾つも置かれているのだが、このご様子だと野駆けを優先なされても支障はないということなのだろう。
「魔鈴も参れ。」
昭王様にすり寄ってきた獅子の頭を一撫でなされた昭王様が部屋をお出になるとすぐにアイオリア様が続き、遠く離れて侍僕が一斉におあとを追うのもいつものことなのだった。

昭王様のお見送りをしたあと、自室に戻り少し片づけをする。
長かった夏もようやく終わり秋風が立ち始めたので、いろいろと片付け物があるのだ。
お留守の間に済ませようと、普段は見ない整理櫃の奥まで手を入れていると、大事そうに真紅の絹に包まれた小さな細長いものが出てきた。
咄嗟にはなんだかわからずに記憶の底を探りながらそっと包みを開いてみる。
それは、すでに枯れた色になった竹簡で、五、六本を丁寧に革紐で結んであるのだった。
どうやら自分のした仕事らしいのだが、はて、これはいったいなんだろう?
軽い疑問を覚えながら結び目を解き、乾いた音を立てて手のひらの上に広がったそのうちの一本を手に取ってみた。
目に入ってきたものの意味がすぐにはわからなかったが、やがて涙があふれて止まらなくなった。
誰もいないのを幸い、まるで幼い子供のころのようにその場にしゃがみこみ、時を忘れて泣いた。
自分の中にこれほど涙があろうとは思いもしないことだった。

やがて昭王様がお帰りになり、すぐに宰相との打ち合わせに入られた。 かなり長引いたので午後の御進講は取りやめになり、内向きの夕餐からお帰りになられるともうあたりは暗くなっている。
毎年のことだが、九月も半ばを過ぎると日の落ちるのもたいそう早い。
御寝の間に入られた昭王様のお支度が整ってから、お人払いをお願いして、そっと例の竹簡をお目にかけた。
最初は怪訝そうになさってあれこれ向きを変えてご覧になっておられたが、横にしてもたれたときに、ついにお気がつかれたのだろう、あっというお顔をなさって息を呑まれたのだ。
「貴鬼、これは……!」
「はい、瑞雪様のお手にございます。」
カミュ様が燕を去られてしばらくしてから、昭王様はカミュ様に瑞雪という贈り名をされた。
拝察するに、天勝宮のいたるところでカミュ様の御名が繰り返したたえられる様子に、もう二度と再びお会いになれない寂しさをつのらせた昭王様がその御名を封じられたということなのだろう。
半年もすると、とくに人々の口の端に上ることはなくなったが、夏になり驟雨に見舞われたりすると、誰ともなく瑞雪様の御名を出してその徳を称え、過ぎし日の豪雨と水難の恐ろしさを語り伝えているのだった。
自分も口では瑞雪様とお呼びするが、心の中ではカミュ様の御名を忘れたことはない。
あのお美しいお姿とあたたかいお心とやさしいお声を忘れることなど、できようはずがないのだ。

カミュ様にお国の希臘の文字をお書きいただいたときのことを思い出してぽつりぽつりとお話し申し上げていると、何も仰せられずに黙ってお聞きになられていた昭王様がお膝に一粒の玉涙をおこぼしになられた。
はっとして、それからはうつむいてお話し申し上げたが、その間、お袖をお目元にもっていかれたようにお見申し上げるのだ。
奏し終わると、しばらくの間じっと竹簡を見つめておられた昭王様がお口を開かれた。
「貴鬼……これを…」
それきり絶句しておられるので、畏れながら申し上げた。
「お手元にお納めくだされば、何よりかと存じ申し上げます。」
頷かれた昭王様のお手に竹簡を残したまま御寝いただき、寝具をおかけした。
控えの間に下がり横になっても、いつもはすぐに聞こえるはずの昭王様の寝息が、なかなか聞かれないことだった。

その後、昭王様のお身の回りにあの竹簡を見かけることはない。
いつのまにか、御寝の間の黒漆の厨子に錠が下りているので、それかと察するのみである。