ちょっと聞いて 2000年

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市労組の女性組合員で作る婦人部ニュース(月刊)には、毎回女性組合員の随筆「ちょっと聞いて」がシリーズとして掲載されています。

一回ごとに、新しい組合員が登場。身の回りのこと、悩み、思いを語ってくれています.。



☆ 2000年12月21日 NO.91

 運動不足の解消にと、OXYに通いだして1年になる。
  家と、反対の方向になるので週1度、通うのも『強い決心』がいる。

 泳げなかった私が、ちょっとづつ息つきもできるようになり、なによりも自分が『浮いている』こと自体、奇跡に近いこと。なのだ。
 「ワア、すごい。自分をほめてあげたい。」と一番やる気があった時は週l度でも通う足取りも軽かった。
 でも、寒くなると、自然と足は家のほうに向いてしまう身体には、週一度でも通うと調子いいので頑張りたい。

 そして最近、ドライブ中心だった旅行をウォーキングを目的に変えている。いつもは、すぐケンカになる会話も「こんなこと考えていたのか」と自然の中で、夫や息子と話すこともでき『一石二鳥』以上のものがある。

 息子たちには無理いって、ついてきてもらっていることも多いが、これからも、こんな時間を大事にしていけたらなあと思う。

           ※ 注 OXYは、阪急電車高槻市駅構内にあるスポーツ施設

☆ 2000年10月31日 NO.90

 うちの隣、もう八十代半ばをすぎていらっしやるでしょうか、すてきなおぱあちやんが住んでいます。

 身体が弱くなったおじいちやんのお世話をしながら日々、朝五時、長い鋏をもって木々の枝払いから一日が始まります。

 家の細々とした用事を全て一人でこなされる元気さには、私の両親も脱帽です。

 生活はとてもつつましくされ、何回も救急専でおじいちやんが運ばれることがあっても悲壮感を漂わせず、心ゆったりとし、生きておられることへの充実感を感じるのです。

 介護の大変な毎日の中で、四季折々を楽しみ、よもぎ団子や桜餅、アユの佃煮など、わが家には一年を通じて、おばあちやんの手づからのおいしいものが届きます。自分で染めた糸で洋服を繊り上げ、息子さんの古着をリフォームして着たりなど、このおばあちやんの生きるエネルギーや心のゆとり、優しさはどうして生まれるのでしょう。

 このおばあちやんの生き方に強くひかれるわたしです。今日も朝から植木鋏の音が聞こえて、おばあちゃんの様子に変わりないことを確認、一日のはじまりです。

☆ 2000年9月29日 NO.89

 ことのほか厳しかった残暑も日中の日ざしにその名残りをとどめているものの、ようやく終わりを迎えたようだ。

 朝夕の通勤時に通る農道の道端には、一週聞くらい前から彼岸花が咲き、田んぽの稲は黄色味が強くなってきている。
 刈り取られているのは早稲だろうか。暑い暑いと言っている間にも、ちゃんと季節は移っていたことを実感させる風景だった。

 駅への行き帰り、毎日通るこの農道は、すぐそばには住宅街があって、限られた広さではあるけれど、田んぽや畑が並んでいる中にある。
 今の家に越してすぐにこの道を見つけてからは、私の好きな場所になり、ここばかリ通るようになった。
 春の田植え、夏野菜の実り、少し涼しい風が吹き出したと思ったら、田んぽの上を飛ぶトンボなど、折り折りに季節感を感じさせてくれる。
 時間の余裕がない朝も、重くなった足で自転車のペダルをこぐ夕方も、ここを通る時は、ゆったりした気持ちになっていることに気づく。
 時々、農作業中の人を見かけて、田舎にいる両親の姿とだぶらせることも多いのは、なにより、この農道のまわりの様子が故郷の風景と重なることが大きいようだ。

 あわただしく日を過ごすことも多いけれど、この道から少しだけ生活の彩りとゆとりをもらい、元気をもらって明日も職場へ向かおうと思う。

☆ 2000年8月10日 NO.88

 久しぶりの感動体験。六月の中旬に私は旅をしました。行き先は海外。それも地球の反対側のビュージーランドです。

 長い空の旅を終え、降り立った大地は、日本の梅雨とはうって変わってカラッとした空気、自然の間にゆったりと建った住宅。
 ちょうど日曜日だったこともあったのか、国の副都心とも思えない空港の静けさは初めての海外体験としては予想外の事でした。
 ツアーの旅行なので、次々とこなされるスケジュールに従うだけの旅行と覚悟はしていたものの、思いのほか『文句いい』の私としては不満の残らない旅でした。


 それはなんといっても、今の日本にはない『のどかさ』があっちこっちで感じられたからなんです。
 広い道路を走る車からは、ほとんどクラクションは聞かれません。
 バスから見える車窓の風景は、何時間乗っていても目まぐるしく変化することなく、(行けども行けども羊、牛、馬、牧場、森)そのうち山岳地帯になると、雪を頂いた富士山級の山々、その山々から流れる川の水の色は、氷河から流れてくるので、その色はこの世のものとも思えないコバルトブルー。琵琶湖の大きさの湖は静寂そのもの。

 国土の広さ、人の数は日本とは比べられないとはいえ、人というのは、こんな状況で住むのがもっとも人間らしく穏やかになれるんだなあと感じさせられた旅でした。次回は夏のニュージーランドで歩こう。

☆ 2000年6月28日 NO.87

 人には色々な「節目」があると思う。

 私は愛知県で生まれ、ここ京都に来て半々の年月がたった。
 一つの出会いで思いがけず高槻に職を得て今に至っている。
 節目の二十五年(結婚)、子育てに、仕事にと、あっという間に駆け抜けてしまつた。

 たくさんの人々に支えてもらい、手助けしてもらったことが思い出される。  今あるのは、あの時のあの人のあの一言のおかげでと、感謝の気持ちでいっぱいである。

 「ありがとう」、この言葉がこの上もなく好きになり、季節が巡って咲く花をいとおしく思うこのごろです。

☆ 2000年5月29日 NO.86

受験旅行

 寒い冬、駅に佇む親子がいた。カバンをそれぞれ片手に持った親子。
 それは私と十七歳になる娘である。「地方の大学を受けてみたい」の娘の声に「うん」と領いたばかりに親子の受験の旅行が始まった。

 東京、山形、金沢、名占屋などなど、娘が受験する時間、私はいつもフラリとその地方をまわった。
 東京では、若者の街渋谷、恵美須などへ出かけ、金沢では雪の兼六園は最高で、まるで写真を見ているようだった。
 最高なのは景色ばかりではなく、バスに乗り違えたとき、運転手さんが「代金はいらない」と笑いながらお金を返してくれた。心温まる一時で、すごく嬉しかった。

 山形では、観光バスなどでない季節に、地元の人の案内で温泉に出かけた。
 百円で入れる小さな温泉であった。何も準備をしていない私にタオルを貸したり、山形弁で話しかけるおばあちやん達をみて、人々の温もりを感じた。

 その時、一月未に亡くなった父のことがまた思い出されてしまった。
 私をかわいがってくれたときの父の顔、父へ反発したときの父の顔、家を離れる私を見送るときの父の顔。
 今私も、親となっていろいろな経験をした。
 娘も私がしてきたように反発もする。しかしこの受験旅行で娘といる時間がとても貴重であった。
 一つの部屋で泊まると、受験の緊張の中にも会話も弾む。ちょうど私がたどつた父との親子を、娘と重ね合わせているようだ。

 四月、娘も一人住まいを始めた。
 これからが本当に大変だ。

☆ 2000年4月28日 NO.85

 今年の春は、桜をいっぱい見ることが出来、実に色々な種類があることにも気づかされた。
 桜が季節によって、様々な姿を見せる中で、自分はいまどの時期なのかと考えてしまった。(結論を出す事はこの際置いて)

 二月後半から体調がおかしくなり、いよいよ更年期突入かなと思いつつも、病院通いが続いた。
 内臓全般を調べたが精密検査になると結構つらいものがあった。

 お蔭様でと言うか 今のところ特に悪いところもなく、ほっと一安心。
 しかし、年齢的にも人生の折り返し地点をいくらか過ぎたあたり。
  細く長く元気にすごせるように、自分の身体とうまく付き合っていきたいなあと、あらためて思う今日この頃です。

☆ 2000年3月30日 NO.84

 去年の8月に、夫も不況のあおりで定年まで10年を残して、30年間勤務した鉄鋼関係の全社をリストラされました。

 組合との関係もあり、何回も面談があって決心したみたいですが・・・
 私が今年の2月に見た映画の様に、「人材こそが企業の宝である」とは社長は言わなかったのでしょう。
 回りを見ても、中高年でリストラされた人が多いのに驚きます。

 私はリストラの話を聞いた時には、目の前が真っ暗で先が見えなくなりました。
 しかし、今は失業保険をもらいながらパソコン学校に三か月間通って、慣れないことにがんばっている姿を見たり、「今日が学校の卒業式や」と言って出かける姿を見ていると、なんだか複雑な気持ちになります。

 でも、大学生と養成所に通う息子、中学生の娘の教育にもお金がかかるし、やっぱり早く仕事を見つけてほしい、働くところがあればいいなと思っています。

 すべての人が安心して暮らせる社会になることを願いつつ、私も体力をつけながらストレスをためないで、元気で働きつづけなくてはと思っています。

☆ 2000年3月1日 NO.83

 皆さんの職場には、アルバイト職員の方はいらっしゃいますか?
 「うの花」には、病欠などの代替ではなく、定数職員となるべき、担任としても必要な先生が、三割を超えて配置されています。

 彼女たちの中には、もう十数年もこの形で頑張ってくれている人もいます。
 「うの花」に来てくれるアルバイト先生のどの人もですが、なんとか一つでも親子に自信をつけて、未来に希望を持つようにと、保育の中で笑顔を絶やさず、励まし、真面目に問題解決に悩んだり苦しんだり、障害児保育にたいして、正職となんら変わらず勤めあげているのです。

 彼女たちと一緒に保育するたびに「市教委の人事担当の方の見る目って、なかなか確かなもんやなあ」と感心しています。
 そして、「披女たちの、この仕事ぶりをぜひ正職として生かしてあげたい」と痛切に思うのです。

 世の中、フリーター、アルバイトがますますあふれ、新卒者の就職率もかつてない厳しさとか。
 昔、「生まれた時が悪いのか」なんて歌ありましたよね。そんなことですまさず、人の配置が必要な所には正職採用をしましょうよ。

 「うの花」のアルバイト職員に乾杯!
 毎日あリがとう。

       ※注  「うの花」は、高槻市立うの花養護幼稚園のこと

☆ 2000.1.20 NO.82

 昨年は隣のおばあちゃん(60代)が脳卒中で入院され、またまた娘さんが2tトラックに追突されたり、本当に気持ちがすさむようなことが年末にありました。

 そして我が家は大学受験の長男、どこかの大学に合格してくれることを切に切に願っています。

 母は兄の受験が済むまで、気の休まることはないのです。
 フレフレ我が家に福の神を・・・

 もう一つ頭を悩まされていることは、次男が高校入学の頃、公立高校が減らされているのでは・・
 学校を減らさないで。
 教育費、特に大学の授業料の余りの高さにも目を回しています。

 2000年、明るい未来であることを願っています。