「おにいちゃん。」
耳元で囁かれる声。士郎が目を開けようとするとその目を小さな手のひらが覆った。
「ダメだよ。まだ起きちゃダメ。」
「……」
何か言おうと口を開こうとしても、動いてくれない。それどころか、金縛りにあったように、体が動かなかった。
クスクスと小さな笑い声は聞こえている。
不意に、身動きの取れない士郎の胸の上に何かがのしかかる感じがした。
「う、あ?」
反射的に(気持ちだけ)身じろぎする士郎。
小さな笑い声はやまない。少しだけ敏感になった体が、のしかかってくる重みを感じ取る。
「シロウ……」
近づいてくる息遣いを感じながら、動かない体を動かそうとする士郎。
寝ぼけた頭で、何故か、決定的にまずい予感を感じながらがんばっているが、如何せん、抗魔力の低い士郎に、金縛りを破ることは出来ない。
(まずいマズイまずいマズイまずいマズイ……!!)
と、次に士郎が感じたのは、音だった。それも、ガラスが砕けるような音と、聞きなれた少女の怒鳴り声。
「何やってんのよ、イリヤスフィール!!」
それから銃声のような破裂音。
「もう、リンったら野暮なんだから……」
何かが頬をかすめる感じがしてから、士郎の体に自由が戻った。
開けた目に映っているのは、扉のところにいるパジャマの凛と、すぐそばに腰掛けているイリヤスフィール。
「おはよう、おにいちゃん!」
元気のいいイリヤスフィールの挨拶と、その後に続いた頬への軽いキスを感じた後、側頭に入ったガンドで士郎の意識はもう一度闇に落ちた。
Chapt.3 嵐の前
「あらあら、おはようございます〜。」
一人遅れて降りてきた士郎に琥珀が笑いかける。
その様子に、士郎は苦笑し、凛はそっぽを向く。
イリヤスフィールは少し意地悪そうに、桜は非難するように凛に視線を向けた。
セイバーは軽くため息をついてから、目の前の朝食に目を向けている。
テーブルでは、秋葉が紅茶のカップを優雅に傾けていた。
「あ〜、志貴さんはもう少しかかるでしょうから、お先に頂いちゃってくださいな。」
士郎が席に着いたのを見計らうように、琥珀が士郎の分の朝食を運んでくる。
皆、士郎が来るまでは、と待っていたらしい。
特にセイバーは、嗅覚からの刺激で涎があふれてきていた。
「あ、じゃあいただきます。」
だが、士郎が琥珀に軽く頭を下げ、皆が朝食に手をつけようとしたときだった。
二階から一つ、ドスン、という音が響いて、皆そちらに気を取られて、口に入れそこなう。
……否、セイバーは食事を止めてはいなかった。
「あらあら、始まっちゃいましたね〜。」
にこやかに笑う琥珀は頭上を見上げ、秋葉は、カップを握りつぶさんばかりに手を震わせている。
やがて、少しボロボロになった志貴と、その後ろに控える翡翠、そのさらに後ろでつかみ合っているアルクェイドとシエルが降りてきた。
「や、やあ。おはよう。」
時間はほんの少し前。士郎がガンドから意識を取り戻した少し後。
自室で、志貴は未だに眠っていた。
そばには翡翠が控えている。
眉一つ動かさない、いつもの引き締まった表情は少しだけほころび、かすかな微笑をもって、志貴の寝顔を見つめていた。
「志貴さま……」
起こさなければならないのだが、それでも翡翠は、起こさないように主の名を呼ぶ。
志貴の隣にいる猫も起こさないように、翡翠はただ主の名を呼んだ。
無論、起こさなければならないのは知っているし、あまり遅くなると、志貴が秋葉に怒られるのも分かっている。
それでも、翡翠は志貴を起こしたりは出来なかった。
今日はお客様もいる手前、秋葉もそうあからさまに怒れることはないことは予想できたし、安らかな志貴の寝顔は、その眠りを妨げるのを戸惑わせた。
そしてなにより、この時間こそが翡翠の一日の中で最も幸せな時間帯であるのだ。
秋葉よりも、琥珀よりも、他の誰よりも翡翠が一番よく見ている、翡翠の宝物。それが、この志貴の寝顔だった。
「……志貴さま……」
しかし、いつまでもこうして寝顔を見ているわけにもいかないのも事実だ。
もう一度、今度は先ほどよりも大きめに志貴の名を呼ぶ。
それでも起きる様子を見せない志貴に、翡翠は意を決して手を伸ばした。
「やっほー! 志貴、起きてるー?」
その瞬間、志貴の部屋の扉が開かれる。妙にハッスルした笑顔でアルクェイドが入ってきたのだ。
驚きで固まる翡翠。
「待ちなさい、アーパー!」
続いてシエルが飛び込んできてアルクェイドにつかみかかる。
「何よ、バカシエルー!」
「うるさいですよ、このアーパー!」
そのまま二人は取っ組み合いの喧嘩を始めてしまった。
その様子を、固まったままで見つめる翡翠。
我に返って志貴を見ると、彼はなんと未だに眠ったままであった。
翡翠は一瞬固まって微笑すると、志貴の体に手を伸ばした。
「志貴さま、朝です。起きてください。」
「う、あ? おはよう、翡翠。いつもありがとう。」
さすがに揺さぶられれば志貴も目覚めた。
手探りで眼鏡を探しながら、いつものように翡翠に礼を言う。
「いえ、私は志貴さまの従者ですから。当然のことをしているだけです。」
翡翠も、いつものように答えを返す。その顔は、既に従者のものだった。
「あ、志貴、起きたー?」
「あ、おはようございます、遠野君。」
絡み合った二人から挨拶を受けて、志貴は頭をかいた。
「おはよう、アルクェイド、先輩。」
「志貴さま、そろそろ降りられませんと、秋葉様が限界かと。そろそろ、衛宮様たちもいらっしゃっているでしょうから。」
ため息をつく志貴の隣で、翡翠は冷静に状況を分析する。
「分かった。着替えるからちょっと待っててくれ。」
志貴に言われて、翡翠はアルクェイドとシエルと伴って部屋を出た。
「では、志貴さま、失礼します。」
「お早いお目覚めですねぇ、兄さん?」
そして当然のごとく待っていたのは、秋葉の冷たい笑顔だった。
士郎たちもいる手前、一言二言で嫌味も止み、朝食が再開される。
これといって問題もなく朝食は終わり、今日の夜までは、特にやることもなく、自由行動となった。
無論、昼時にはもう一度集まるそうだが。
各人、思い思いのほうに散っていった。
<CASE1 アルクェイド=ブリュンスタッド>
「ねぇ、し〜き〜。」
自室に引っ込んだ志貴を追いかけて乗り込んだアルクェイドは、ベッドに座った彼に、後ろから抱きついていた。
「なんだよ、アルクェイド。」
特に目を向けることもなく、されるがままになっている志貴。
跳ね除けようともせず、背中にアルクェイドの重みを感じている。
「ん〜ん、幸せだなぁって。」
「そう。」
何もせずに互いを感じていられる。
人のぬくもりを知ったアルクェイドにとって、これ以上の幸せはない。
それも、最愛の志貴ならば、言う事無しである。
ごろごろと喉を鳴らして、ご機嫌なアルクェイド。
志貴も軽くため息をついて、それだけだった。
しかし、その平穏は、ガラスでできていた。
「アルクェイド!」
ドアの開く音、叫び声、黒鍵の突き立つ音が続く。
カレンとの相談のようなものを終えたシエルが乗り込んできたのだった。
「なによ?」
「うるさいです! 遠野君独り占めなんてずるいですよ!」
気だるそうに顔だけシエルに向けるアルクェイドと、叫ぶ間に新たな黒鍵を握るシエル。
「いーじゃない別に。私と志貴は相思相愛なんだから。」
「勝手な妄言を吐くんじゃありません!」
上からの目線でアルクェイドは呆れたため息をつく。
それに刺激されて、シエルの頭はさらに加熱されていく。
「ちょ、先輩!」
「遠野君は黙っていてください!」
もはや志貴の声も耳に入らない。
アルクェイドは仕方ないか、とため息に乗せて呟いた。シエルに向かって、ちょいちょい、と手を動かす。
「降りかかる火の粉は払わなくちゃね。志貴、ちょっと待ってて。」
「……庭にしてくれ。」
「おっけー。じゃあ、来なさいな。」
もはや静止もままなるまい。志貴は諦めた表情で、被害の少なくなりそうな場所を指定した。
笑って、アルクェイドは窓から出て行く。
よく分からない叫び声を残しつつ、シエルもその後を追った。
取り残されて志貴は、ため息をつく。
しばらくベッドに寝転んで、その後ドアから部屋を出て行った。
<CASE2 翡翠・琥珀>
何処まで行ったのか分からないが、結局アルクェイドとシエルは昼食に帰ってこなかった。
少し機嫌の悪そうな秋葉とともに昼食を終え、暇をもてあました志貴は、なんとなく裏庭に足を向けていた。
琥珀の家庭菜園からは相変わらず禍々しい妖気が漂っている。
その妖気の中で、琥珀は作業していた。
「あら? 志貴さんじゃないですか。」
その琥珀が、志貴に気づいて手を振る。
その足元にはかがんで作業する翡翠もいた。
「どうしたんですかー? 先ほどアルクェイドさんたちが向こうのほうへ渡っていかれましたけどー?」
近づいてくる琥珀の後を翡翠がついてくる。
シャドーボクシングしているサボテンや、見るからに毒々しい植物、火を吐く怪植物、などの中を掻き分けて進んでくる琥珀。
目前の現実を、志貴は少しだけ逃避したくなった。
「ああ、俺の部屋にいたら、先輩が乱入してきてあんな感じに……」
なので、苦笑いしながら、ここに来るまでの顛末を語ることにする。
「おやまあ、志貴さん、相変わらずモテモテですねぇ。ね、翡翠ちゃん。」
いつものようにいたずらっぽく笑う琥珀。
その後ろにいた翡翠は、相変わらずの無表情で何も言わなかった。
「で、翡翠と琥珀さんは何してるの?」
「私は、お庭のお手入れで、翡翠ちゃんはそのお手伝いです。」
あはー、と琥珀はいつもの笑みを浮かべている。
「あ、琥珀さん、土ついてる。」
彼女の趣味(もっとも、ここから怪しげな薬を作るところまで含めて、だが)というだけあって、よほど夢中になって作業していたのだろう、頬に軽く泥が跳ねていた。
それを、自然な動作でぬぐう志貴。
それで終われば、何事もなかったのだが。
「あ……」
琥珀の頬をこすって志貴の手が離れた瞬間、琥珀の口から名残惜しそうな声がポツリと漏れた。
それによって、自分の行動を認識してしまった志貴が、慌てて手を引っ込める。
「あ、あの、ゴメン、琥珀さん!」
「い、いえ、いいんですよ。志貴さんは何もしてないです。」
認識してしまって、恥ずかしさがこみ上げてくる志貴。
その志貴に触発されてか、普段なら軽く流してしまう琥珀も、頬を染めて照れている。
しばらくあたふたとやった後、後ろで見ていた翡翠がぼそりと呟いた。
「志貴さまは、やはり、愚鈍だと思います。」
軽いため息交じりの呟きに、ぴたりと固まる二人。
「琥珀〜? 翡翠〜?」
ちょうど、遠くから秋葉の呼び声が聞こえてきた。
「じゃあ、これで失礼しますね。」
これ幸いと、琥珀が返事をして駆けていく。
翡翠も律儀に一礼してから琥珀の後を追っていった。
<CASE3 シオン=エルトナム=アトラシア・レン>
琥珀たちと別れた志貴は、その足で離れに向かっていた。
和好みの心が畳を求めたのかは知らないが、そのまま、畳にダイブする志貴。
仰向けになってうつらうつらしていると、何処からともなくレンが現れた。
「どうした、レン?」
『一緒に寝るの。』
少女の姿に戻って、志貴の腕の中にもぐりこむ。
そんな様子に、笑いがこぼれて、志貴はレンを抱きしめたまま、意識を手放した。
連日の疲れもあったのだろうか、志貴はそのまま深く寝入ってしまった。
夢の中に入ってくると思われたレンも、本当にただの昼寝がしたかったのだろうか、夢の中に入ってくる事も無く、時間が過ぎていく。
そうして、日が傾き始めた頃、志貴の体を揺するものがいた。
「ここにいましたか。志貴、起きてください、志貴。」
霞がかった頭を振りながら、志貴は、うっすらと目をあける。
目の前にあったのは、ため息交じりのシオンの顔だった。
「……ああ、おはよう、シオン。」
んっ、と軽く体を伸ばして、寝ぼけた頭を振る。
それにつられて、腕の中で寝ていたレンも目を覚ました。
『おはよう、しき』
「ん、おはよ。」
ぽふりとレンの頭に手を乗せ、軽くなでてやる。
「おはようではありませんよ、志貴。もう夕暮れ、そろそろ夕食だそうです。」
シオンはもう一つため息をついた。
「ゴメンゴメン。」
苦笑してレンから手を離す。
頭から手が離されて、少しだけ名残惜しそうな顔をしたが、レンはそのまま猫の姿に戻るといずこかへ駆けていった。
「でも、よくここにいるって分かったね。」
「当然です。あなたの行動は翡翠等の言動から予測済みですから。」
微笑み混じりに気ままな黒猫を見送った志貴は、胸を張るシオンに苦笑する。
その苦笑に、シオンが文句をいい、志貴がなだめるのも、よくある風景。
「じゃあ、行こうか。あんまりみんなを待たせるわけにはいかないし。」
そう言って志貴は立ち上がる。
「シオン?」
そうして歩き出した志貴についていかず、シオンは視線を彷徨わせていた。
「……志貴。」
「ん?」
シオンはあちこちに移していた視線を志貴に向け、表情を引き締める。
「また、厄介ごとを持ち込んでしまって、申し訳ありません。」
その表情に少しだけ申し訳なさそうな色を混ぜていたシオン。
慌てて志貴は両手を目の前で振っている。
「そんな、気にする事ないって。」
「しかし、初めて会ったときも、私はタタリを引き連れる形に……」
「ストップ。」
それでもなおのこと謝ろうとするシオンに、志貴は待ったをかける。
「迷惑くらい、いつでもかけていいさ。友達ってそんなものじゃない?」
「……友、達。」
それは、発した本人は特に意図していなかっただろうが、受け取ったシオンにとっては、心を揺さぶられるものだった。
(そうだ。彼はこういう人だった。)
「そ。あの時いっただろ? 『こんなんでよければいつでも力になる』って。」
それは、ワラキアを倒し、朝日の中の別れ際の言葉。
あの誓いを、もちろんシオンは忘れることは無かったが、志貴が覚えていてくれたことを、シオンはただ嬉しく思った。
「そう、でしたね。」
自然、ほころぶ顔を抑えつつ、シオンは志貴の隣に並ぶ。
そうして、みなの待つ屋敷に並んで戻っていった。
「あれ、アトラシア、遅かったねー、シキと何やって……あばばばばばばば」
……まあ、出迎えたレイの扱いも、お約束、という事にして欲しい。
NEXT
後書きは後編とともに