君が望む永遠SS
いつか、再びあの丘で・・・






    

“ひいらぎ書房”
目の前の5階建てオフィスビルの横に張り出した看板の3階に、そう表示されている。
少しためらった後、ビルの中に入る。
3階だからわざわざエレベーターを使うこともないのだが、足が少し重い。
エレベーターの動きが何故か遅く感じる。
目的の階に到着し、オフィスを目指す。
廊下とを遮るドアはなく、受付が見えた。その前に立ち、女性社員に声をかける。
「すみません、訪問をお願いしておりました、鳴海と申しますが・・・」

Act:1 追憶

それは五日前のことだった。
茜ちゃんの五輪金メダルのニュースにはしゃぐ水月から、スポーツ新聞を買って来い、
と携帯に電話が入った。仕事のせいで夜も遅くなってしまい、駅売りは当然売り切れ。
おかげで本屋のハシゴをする羽目となったのだ。
「ここもないかぁ〜。はぁ〜、水月のヤツ、怒るだろうなぁ。くそ、部長め!」
悪態を吐きつつ本屋の中をうろつく。
ふと、絵本のコーナーが目に入った。無意識に足がその方向を向く。
色とりどりで大きさもまちまちな絵本独特の棚。
題名に惹かれ、その中の一冊を手に取る。
「ほんとうのたからもの」
柔らかなタッチのオコジョの絵が表紙に描かれている。
「・・・・・?!」
下のほうに移した視線が、ある一点でくぎ付けになる。作者の名だ。
むらかみはるか

帰宅すると、何故か水月が目を腫らしていた。ふとテーブルを見ると、
どこで買い集めたのかスポーツ新聞が山積みになっていた。
「何だよ、自分で買ったのなら連絡くらい入れろよな」
「孝之・・・見てよ」
その中の一部を取り、涙声で差し出す。
“快挙!”の文字が躍っていた。茜ちゃんの誇らしげにメダルを掲げる写真とともに・・・
「そこの・・・囲み・・・」
メダル獲得のインタビューが載っていた。
「・・・このメダルは今まで私を応援してくれたみんなからの贈り物です。
でも、私が水泳を続けてこられたのは、いつも私の前にいた偉大な先輩のおかげです。
私は、ずっとその人の背中を追ってきました。速瀬先輩、ありがとうございました」
「・・・許して、くれたんだな」
水月が水泳をやめたことを心の底から憎んでいた、茜ちゃん。
その憎しみは俺と水月が関係を深めることで、加速度的に深化していった。
茜ちゃんから見れば水月は、自分の期待を裏切っただけでなく、
姉・遙から心の支えとなるべき最愛の男性を奪った、憎い女・・・なのだから。
だから水月にスイミング・インストラクターの誘いがあったときも、俺ははじめは賛成しなかった。
なぜなら、地元のスイミング・クラブとはいえ、そこは全国に名を知られた名門。
かつて水月が目指し、今は茜ちゃんを筆頭に世界レベルの競泳選手を輩出する、
“フォレックス”の拠点でもあるのだ。
誘いをかけた当人たちは、水月と茜ちゃんとの複雑な関係など知る由もないだろう。
あのような形で水泳から身を引いたとはいえ、
クラブの名声の一角を担う水月の過去の栄光が、消え去ったわけではないのだ。
もちろんフォレックスのコーチに就任するわけではなく、あくまで一般のクラブ会員を指導する
インストラクターだ。クラブの敷地内にはフォレックス専用の競泳コースもあるし、
茜ちゃんと直接、顔を合わせる機会は皆無といってもよい。
だが、競泳選手とコーチの立場の違いこそあれ、再び水泳に関わることに変わりは無い。
かつて自分を慕い目標とした後輩を裏切った場所に、舞い戻る・・・
・・・どの面下げて・・・!
だが水月は俺の反対を押し切って、その話を受けた。

・・・いろいろなことが、あった。辛いことも、あった。
・・・だけど、全ては時間が解決してくれていたんだな。
「よかったな・・・」
「うん、うん・・・」
俺の胸に顔を埋める水月の頭を、そっと後ろから包んだ。
涙は、当分おさまりそうになかった。

どのくらいの時間、そうしていただろう・・・。
ようやく泣き止んだ水月と一緒に遅い夕食を取る。
「ねぇ、その袋・・・何?駅前の本屋のだよね」
すっかり忘れていた。
「あ・・・あぁ、ちょっと気になる本があったものだから、買ってきた。絵本・・・なんだけど」
絵本という単語に微妙に反応する水月。それはそうだろう、あの日から三年経っているとは言え、
かつての親友である遙のことを思い出させる、重要なキーワードだ。
「でも、どうしてまた絵本なんかを?」
ガラでもないのに、と言わんばかりの怪訝な表情で訊き返す。
「偶然かもしれないし、全くの思い違いかもしれないけど。ほら、これさ」
袋から出した絵本を手渡す。暫く唸り声の聞こえてきそうな顔で眺めていたが、
「あ・・・」
「分かった・・・か?」
「むらかみ・・・はるか、・・・は・る・か」
一音、一音を慈しむようにつぶやく。
「絵本というものが全部そうなのか、それともこれだけ特別なのか分からないけど、
作者のプロフィールが載ってないんだ。だから確証も何もない」
裏表紙、見開き、巻末・・・確かにどこにもない。
「ねぇ、この“ひいらぎ書房”って、駅前のオフィスビルの中にある、あの出版社のこと?」
「知ってるのか?」
「ううん、仕事で同じビルの会社に寄ることが多いから、何となく覚えてたんだ」
暫く二人でテーブルの上の絵本を見つめる。
「・・・アポとかって、取れないものかな?」
「え?」
「どうも、気になるんだ・・・よ」


Act:2 遙

「お待たせしました。私、当社の編集長代理を務めております、原田と申します」
こんな格好で申し訳ない、と頭を掻きつつ、
腕まくりしたワイシャツの胸ポケットから名刺を取り出し、手渡す。
「ところで、本日は如何様なご用件で・・・」
「ええ、あの・・・この絵本について、なのですが」
カバンの中の書類封筒から絵本を取り出す。
「ほほう、“ほんとうのたからもの”ですか・・・。いかがでしたか?
当社の専属となる予定の、期待の新進作家のデビュー作です」
「い、いえ・・・すみません。本の内容そのものではなく・・・」
中身を吟味してなかったことを後悔しつつ、正直に返答する。
「・・・作者について、知りたいんです」
「は?・・・むらかみはるかさんのことですか?」
一瞬、怪訝な表情を見せたが、すぐにいつもの営業スマイルに戻る。
「いやいや、結構ですよ。読者である以上、作家に興味を持たれるのは当然ですから」
「どんな方なんでしょう?」
「ええ、昨年の橘町絵本作家展の新人出品で初めて拝見しまして、一目で惚れ込みました。
なんというか、他人を思いやる・・・慈愛に満ちた作風の持ち主だな、と」
・・・他人を思いやる・・・
「で、早速ご本人にお会いしまして、いろいろとお話を伺ううちに、
ウチでの出版契約を了承していただけたと・・・。
まあ、その話の中で彼女の作風の原点を知った、というわけです」
「原点?」
「・・・ああ、プロフィールがありませんでしたね。これは作者の意向で載せるか否かを
決定しますので・・・まあ、いずれ分かることですからお話しますが、
彼女ね、六年前に交通事故に遭われ、その後、三年間もずっと意識不明だったそうです・・・」
・・・・・!
あとの話は全く耳に入らなかった。
「あの、どうされましたか?」
顔に出たのだろうか、心配そうにこちらを見た。
「い、いえ・・・あの、変なことをお訊きしますが、むらかみはるかさんは、ご本名・・・ですか?」
俺の心を下卑た邪推が支配する。
「いいえ、ご本人が苗字だけは出したくないということでしたので、下の名はそのままに、
苗字だけを、彼女の今回の担当を務める・・・ああ、村上君!こっちこっち」
呼ばれた三十代半ばに見える女性社員が近づいてきた。
「こちら、村上里美君。彼女の苗字を使わせてもらってるんです」
状況が今一つ掴めないでいる村上さんだったが、
「・・・ああ!遙ちゃんのですね」
自分の発掘した作家の話題であることに気付き、顔を綻ばせる。
「彼女の作品に最初に惚れ込んだのは、実は村上君でしてね。その後の話も、彼女任せなんですよ」
まいったな・・・と再び頭を掻く。
「・・・本名は、教えて頂けませんか?」
互いに顔を見合わせ、本人が伏せているのに、困ったな・・・という顔をする。
「もしかして・・・」
ラチが開きそうにないので、先に口を開く。
「・・・涼宮・・・遙、では・・・」
どうしようか、と見合わせていた顔が、バネ仕掛けのからくり人形のようにこちらを向く。
それは俺の言葉が、正鵠を射ていることの何よりの証明だった。



「・・・やっぱり、遙・・・だったよ」
「え?!・・・そ・・・う」
いつも通りの遅い夕食の席で二人とも押し黙った。
何か話したいのに、言葉にならないもどかしさ・・・
言葉でなくても十分過ぎるほど分かってしまう、この皮肉。
「ねぇ・・・遙って、今・・・」
「・・・むらかみはるか、ってのはペンネームみたいなものだそうだ」
昼間の邪推を振り払うように、遙の純潔を喜ぶ自分が・・・浅ましい。
大体、純潔ってなんだ!あれから三年だぞ、遙がそうしてなければならない理由がどこにある!
・・・俺たちは、いや俺は、遙を・・・「捨てた」んじゃなかったのか?
そうさ、俺は一月余りの「恋人ごっこ」をした遙でなく、
あの事故の後、あのときの遙の親父さんからの拒絶以降、二年間俺を支え続けてくれた、水月を選んだ。
・・・水月を選ぶ、それはイコール「遙を捨てる」ことだ。
どう弁解しようと、その事実は、変わることはない・・・はずだ。
だけどそれは、遙との関係の全てを否定しなければならない程の、ことなのか?

「あたし・・・まだ、遙に・・・謝れて、ないよ・・・」
とぎれとぎれの言葉が嗚咽を帯びていた。
「水月・・・」
あの日、遙に病室に呼ばれた俺たちは、互いの心情を吐露し、それがどのようなものであろうと、
それで一度気持ちを清算し、新たな出発とするはずだった。
だけど結果は、遙の強がりに苛立ちついには激昂した水月が遙に対して手を上げ・・・
「・・・あたし、遙との友達としての関係まで・・・壊しちゃったよ」
無残だ・・・。

あれから、三年・・・か。
時の流れは残酷だが、その残酷なまでの流れにしか出来ないことも・・・ある。
茜ちゃんが水月への憎しみとも言えるわだかまりを、消してくれたように・・・
それを水月と遙、そして慎二。俺たち四人が望むことは、出来ないのか?
あのときの、あの丘の、俺たちの始まりをもう一度・・・
こんな俺たちが望むことは・・・余りに都合が良すぎるのか?

むせび泣く水月を、
今はただ、抱きしめてやることしか・・・出来なかった。


Act:3 嘘と勇気と・・・

9月とはいえ厳しい残暑の陽光が肌を刺す。
どこまでも続く砂浜の白く輝く照り返しが、その厳しさに拍車をかける。
頬を伝う汗をぬぐいもせず、白砂を踏みしめただ歩き続ける。
俺は、こんなところに何をしに来たんだ?
・・・こんなところ・・・
欅町の海岸線。あの日、遙に別れを告げられた・・・場所。
砂浜を抜け、緑に囲まれた見覚えのある建物の前に立つ。
欅町総合病院
三年前まで遙が入院していたところ。
今の俺には近づく必要なんてないところだ。
意味の無い己の行動を自嘲しつつ踵を返そうとすると、
「ちょっと、あなた・・・鳴海・・・君?」
ふと、背後から聞き覚えのある声。
「香月・・・先生」

砂浜を見下ろすように建つログハウス風の小洒落た喫茶店。
潮風に揺れるガーランドが心地よさを誘う。
今日は早上がりだからという先生に半ば強引に付き合わされ、窓際の席に向かい合って座る。
「それにしても、久しぶりねぇ」
そうか、香月先生とも三年ぶりなんだ。
「今は、どうしてるの?速瀬さんとは、うまくいってる?」
うまい返答が思い浮かばない。
「はぁ、・・・変わんないわねぇ〜、まぁだ悩める青少年やってるの?」
俺のもやもやとした胸中を見透かしたかのように、少し呆れたため息を吐きつつ言う。
「な、悩める青少年って・・・先生!」
精一杯の強がりで言葉を返す。
「・・・違うの?ま、あなたの人生だし、若いうちに悩むのはいいことよ」
「・・・今日は、早いんですね」
話が妙な方向に行きそうなので話題を逸らそうと試みる。
「ええ、夜勤明けだからもっと早くの予定だったんだけど、予定外の診察が入ったから・・・
涼宮さんの」
「えっ?!」
「あっははぁ〜!だぁ〜から変わんないって言ったの。
こぉ〜んなに簡単にカマかけが成功するなんて、むしろ拍子抜けよねぇ〜」
やられた、俺が単純とはいえ全くかなわないな、この先生には。
「診察が入ったのは事実よ。もちろん涼宮さんではないけど」
退院後、幾度かの検査入院こそあったものの、極めて順調な回復ぶりであったこと。
今は月一回程度の診察に訪れてはいるが、それもそう長く続ける必要はないこと。
・・・そうか、もう大丈夫、なんだ。
「でも、ちょ〜っと寂しがってたな、退院の日」
俺と水月は遙の退院の日を、知っていた。
あんなことがあったのに、茜ちゃんがわざわざ知らせてくれたんだ。
・・・だけど、俺たちは行かなかった。
電話で行けない旨を伝えた時の茜ちゃんの押し殺したような沈黙が、未だに耳から離れない。
本当は行きたかった。退院おめでとうと言ってやりたかった。遙の笑顔を・・・見たかった。
だけど行って遙と会うことで、水月とともに歩もうとする力が失われてしまうことを、恐れた。
・・・だから、行かなかった。そうすることでさらに深まる溝があることを、承知の上で・・・
「それで、最初の質問。速瀬さんとはうまくいってる?」
「ええ、あいつもスイミングスクールのコーチ、頑張ってますし
俺も、しがないサラリーマンですけど、何とかやってます」
あのねぇ、そんなことを聞きたいんじゃないの・・・と言いたそうな憮然面をこちらに向ける。
「どうも、私の質問の真意を汲んでないようなんだけど・・・」
嫌な予感が的中した。
「結婚とか、考えてあげないの?三年も一緒に暮らしてるのに」
「いや、あの・・・それ、は・・・」
「だって、傍目から見ればそれが普通なんじゃない?」
「そうかもしれない・・・です、が」
こちらを見ていた先生が、微妙に視線をずらしながら、
「まだ、整理できて・・・いないのね」
ストローを玩びながらポツリと先生がつぶやく。
「・・・難しいわよね、男と女・・・それに友達関係が絡むと・・・。
なまじ距離が近かった分、傷つけあうことを恐れて一歩を踏み出せない。
その躊躇いが、互いの距離をさらに遠ざけることになるかも知れないというのに・・・ね」
先生の目は俺を見ていなかった。いや、俺を通して遠い何かを見ているかのようだった。
「先生・・・?」
「ああ、ごめんなさい。なんかしんみりさせちゃったわね。ちょっと昔のこと、思い出しちゃった。
あ〜あ、そうね、あのときもう少し勇気があったら、私の経歴にバッテン付くこともなかったのに」
「先生って、あの・・・」
「こぉら、女の過去を無闇やたらと詮索するもんじゃないの」
俺の鼻の頭に人差し指を押し当て、穏やかに睨みつける。

「あら、随分時間経っちゃったわね。ごめんなさいね、無理に付き合わせたみたいで」
いえ、みたいじゃなくてまんまなんですけど・・・
「さてと、じゃあこれでね。悩むのは悪いことじゃないけど、程々に・・・ね。
今の恋人との暮らしを大切にするのはもちろんだけど、友達のことも忘れては・・・
いいえ、忘れようとしては・・・ダメよ。その逆もまた、然りだけど」
「先生・・・」
「そうそう、涼宮さんといえば、妹さん・・・すごいわよね」
帰り支度を始めた先生が思い出したように口走る。
「競泳ですよね。オリンピック代表ってだけでもすごいのに、金メダルですからね」
水月のはしゃぎぶりが思い起こされる。
「・・・でも、それ以上に驚きなのはあのコメント、ね」
思わず、え?と訊き返す。
「だって、あれほど嫌っていたはずなのに、急に“速瀬先輩ありがとう”だものね。
どういう心境の変化があったのやら・・・」
「でも、三年ですよ。水月自身、茜ちゃんも練習しているクラブ、まあ直接は関係ないですけど
もう二年インストラクターやってます。それなりの交流だってあるんじゃ・・・
それこそ初めは結構辛そうでしたけど、最近は何も言わなくなりましたし・・・」
先生の顔が険しい。彼氏なのに知らなかったの?と言わんばかりだ。
「彼女ね、つい最近まで“あの人とは口も利いてません”って言ってたんだけど・・・」


切り抜きを持つ手がかすかに震える。
「・・・速瀬先輩、ありがとう・・・速瀬先輩・・・速瀬水月・・・水月・・・みつき・・・」
ふと、机の上のフォトスタンドが目に入る。
決して「いい顔」ではないが、楽しそうな四人が写っている、六年前の思い出。
「きっと、いい思い出になるよ」
そんなことを、言ったっけ・・・
「・・・思い出だなんて、寂し過ぎるだろ。これは俺たちのスタートなんだ。
俺たちは、いつまでも仲間だ」
頭の中を懐かしくも愛しい声がこだまする。
「・・・孝之くん・・・平くん・・・水月・・・もう、帰れないのかな?あのころには」
自分から身を引いたのに?
「違うの!」
私は一人で大丈夫、って言ったじゃない。
「そうじゃないの!」
どう違うの?
「・・・ホントは、いっしょに居たいの!孝之くんが水月のことしか見てなくたって、いい!」
あのときの・・・四人で、もう一度・・・


「お姉ちゃん、お姉ちゃん?いないの?」
「え?ど、どうしたの?」
「どうしたのって・・・お姉ちゃん、ほんとにボケちゃったの?村上さん、待ちくたびれてるよ」
いっけなぁ〜い!下書きや構想イラストでもいいから、見せてくれる?と言われ、
部屋まで探しに来たんだっけ。
慌てて机や引出しの中のイラストやスクラップブックをまとめて部屋を出る。
「お姉ちゃん、慌てるとまた階段踏み外すよ」
全く、進歩のない姉さん。苦笑しながら姉の部屋を覗き込む。机の上に・・・切抜きと、写真。
「・・・お姉ちゃん」

「やっぱり、来なかったね」
「え?」
「怒らないでね。私、一応、知らせたんだ。お姉ちゃんの退院のこと、鳴海さんに」
「茜・・・」
期待しては、いなかった。でも、わずかばかりの希望は、抱いていた。
「・・・本当に、このままでいいの?」
「茜、やめてちょうだい」
「お姉ちゃん!」
「やめてっ!お願い・・・だから」
両の耳を覆いながら、その場に崩れるように座り込む
「・・・今は、そっとしておいて・・・お願い・・・だから」

あれからもう三年・・・か。
三年間、姉さんは鳴海さんのことを、心の奥底に封印してきた。
封印・・・それは決して、忘却・・・では、ない。
鳴海さん、あなたは姉さんのこと本当に忘れてしまったんですか?
あの人との暮らし、姉さんとのそれよりもそんなに楽しいですか?
私、もうそれほど恨んではいません。許したわけではないけれど、未だに話も出来ないけれど・・・
でも、本当は会って、話をして、もう一度始められたら・・・
そう思ってるのは、私だけ?・・・姉さんも、鳴海さんも、平さんも、そして・・・あの人も。
・・・誰もが、一歩を踏み出せないで・・・いる。互いにまた傷つけあうのが、恐いから・・・
何か、どんな小さなことでもいい、迷えるその背中を押してくれる「何か」があれば・・・

「・・・このメダルは今まで私を応援してくれたみんなからの贈り物です」
・・・お願い、気付いて・・・
「でも、私が水泳を続けてこられたのは、いつも私の前にいた偉大な先輩のおかげです。
私は、ずっとその人の背中を追ってきました」
本当はこんなこと言えない、今はそう思っていないから。
だけどこの一言が、迷っている人たちへの背中の一押しになるのなら・・・
・・・そんな嘘なら・・・今は、吐いてもいいですよね?
いつか・・・きっと、真実に変えられるようにしますから・・・
「速瀬先輩、ありがとうございました!」


Act:4 過ちを繰り返さないために・・・

「今日、欅町に行ってきたよ」
夕食の席での開口一番、俺の言葉に水月の動きが止まる。
「何を・・・しに行ってきたの?」
「・・・正直、目的も何もない。ぶらりと、ってヤツさ」
「そ、それにしても・・・ぶらりと行くところなの?あそこは」
わざと水月の言葉を遮り、言う。
「偶然・・・なんだけど、香月先生に会ったよ」
「先生に?」
どう切り出したものか・・・
「・・・あ、茜ちゃんの話になってさ。例の金メダル」
明らかな動揺の息遣いが聞こえた。
「・・・何で、あんなこと言ったのかな。お前とは、口も利いてないって」
努めて明るい口調で、何も知らないかのように・・・
「やめて!」
「水月!」
「・・・や・・・めて・・・よ、お願い・・・だから・・・」
顔を覆い、泣きじゃくる。
「・・・ごめんな。俺、何にも進歩してないや。また、いろんな人たちを傷つけちまった・・・
辛かったよな・・・、本当に。でも、もういいんだ。いいんだよ、水月」
そっと抱きしめ、柔らかな髪をたたえる頭を優しく撫でる。
「・・・俺には、何となく分かった。茜ちゃんは、気付いて欲しかったんだ」
水月が涙で濡れた顔を上げていた。
・・・そう、誰もが一歩を踏み出せずにいただけだと言うことを・・・
そしてそれは、一番臆病になっていた俺に対する、心からの抗議だということを・・・


「それにしても久しぶりじゃないか。まあ俺も忙しかったってのもあるけどな」
「親父さんの会計事務所だろ、なんか不肖の息子ってことでこき使われてそうだけど」
「不肖、は余計だ。伊達に三年もやってない。今じゃ、結構重要な仕事も任されている」
平会計事務所の一角にある応接セットで語り合う。慎二とも半年振りくらいになるか、
ひとしきり近況報告も交えた雑談に花を咲かせた後、本題に入る。
「・・・速瀬先輩、ありがとう・・・か。あのころは、水月先輩って呼んでたはずなのにな」
「ああ、俺・・・またしてもやっちまった。まったく何回同じことを繰り返せば気が済むのか・・・」
自嘲気味に視線をずらす。
「・・・お前だけじゃ、ないさ。俺も含めて、あのときの四人みんなが・・・な」
・・・もう一度、帰れるなら・・・。帰れなくても、始められるなら・・・
「それで、俺はどうすればいい?こう見えて結構、顔が広くなった。涼宮の親父さんが大学教授で
研究者という、言ってみれば会計事務所のお客さんの一人だ。それなりに話もできるが・・・」
「いや、お前は俺がそういうことを考えてるってことだけを、知ってもらってるだけでいい」
「一人で・・・出来るか?」
「出来るとか、出来ないとかじゃない。やらなければ今度こそ俺はどうしようもない、卑怯者・・・だ」
そうだ。今度こそは・・・自分で一歩を踏み出さなければ、ならないんだ。


柊町立総合スポーツセンター
名称こそどこにでもある市民施設だが、そこには世界に名を轟かせる“フォレックス”の拠点がある。
各施設の充実ぶりも一般的なスポーツ施設とは比較にならない。
今日は水月がオフであることを確認してから来た。
水月の同僚の人から話を聞き、今は割とリラックスムードだからということなので、
練習が終わるのを待つことにする。
午後6時を少し回ったころだろうか、フォレックスの選手たちと思しき一団が姿を見せた。
その中に茜ちゃんの姿が見えた。他の選手たちと談笑していたが、こちらに気付いたようだ。
どうしたの?と言いたそうな他の人たちに、先に行ってと手で合図する
他に人影のなくなったロビーに、二つの影。
時間が止まったかのような沈黙が流れる。
「・・・鳴海・・・さん」

あれから三年目の夏。
偶然、本屋で“むらかみはるか”の絵本を見つけたこと。
偶然、ぶらり訪れた欅町で香月先生に出会えたこと。
偶然、茜ちゃんと再び話をする機会を得られたこと。そして・・・
そのうちのいくつかは、それを起こそうとした当人にとっての必然かもしれない。
だけど、それらが一つに重なろうとしていた。
偶然が三つ集まればそれは必然だ・・・誰かの言葉だ。
・・・俺たちの中で、何かが動き出そうとしていた。


LastAct 永遠

あのときの水月の顔ったらなかったな。
久しぶりに二人きりでデートしよう、の言葉にそれこそ“鳩が豆鉄砲を喰らった”ような。
「ねぇ、ところでどこに行くの?いい加減秘密にしなくてもいいじゃない」
「まあまあ、ついて来ればわかるって」
何企んでんだか・・・ため息交じりの呆れ顔。
そんな水月をよそに、どこか懐かしさを覚える、それでいてどう控えめに見ても
デートスポットとは無縁の住宅街の坂道を登る。・・・さすがに気付いた、かな?
「ねぇ、孝之・・・もしかして、白陵に?」
「意外なデートスポット、だろ?」
入ってもいいの?という顔をする。というか、高校が付属であるとはいえ、大学のキャンパスだぞ。
さすがに校舎への侵入はマズいけど、一般開放されてる施設もあるし問題はないはずだ。
さらに歩みを進める。
急な坂を登り、目的の場所が目に入った。
「・・・孝之、ここって」
俺たちのとっておきの、そして・・・思い出の場所。
水月が、風に揺れる木々のざわめきにあの樹を見上げ、そして視線を徐々に下にずらす。
・・・人影が三つ・・・あった。
その中の、ロングの髪をなびかせる白のサマードレス。
「・・・はるか・・・」
怒り、戸惑い、疑心・・・それらが無い混ぜになった表情で俺の方を振り返る。
そんな水月の肩にそっと腕を回し、ともに遙に向かって歩き出す。
こちらを見つめる遙と向き合い、勇気を持って言葉を紡ぎ出す。
「・・・遙、ごめんな。俺、あのときのお前の言葉を口実にして・・・逃げていた。
三年間も・・・逃げ回っていた。お前は水月や慎二と同じくらい大切な仲間だったのに、
俺の方から拒絶していた。いくらでも機会はあったはずなのに、三年も・・・経っちまった。
正直もなにもないけど、言うよ。今の俺には水月がいる。水月と歩む未来が第一だ。
だけど・・・遙だって大切な仲間だ、友達だ。愛情と友情は違うだなんて
余りに都合が良すぎる・・・と思うけど。でも、こんな俺たちでも良ければ、
もう一度、もう一度、友達・・・と呼んでくれないか?」
遙の目がわずかに潤む。
「・・・遙、遙・・・ごめん、ごめんなさい・・・ごめん・・・」
もう水月は泣きじゃくり、その言葉を繰り返すだけだった。
遙がわずかに顔をそらし、ゆっくりと口を開いた。
「茜にここに連れてこられたとき、もしかして・・・と思った。驚いた・・・けどね」
躊躇いつつも静かに言葉を続ける遙を、じっと見つめ続ける。
「・・・孝之・・・くん。・・・私も、逃げていたの。一人で大丈夫と強がりを言って・・・
もう、会わないで・・・と言って拒絶して。ふふっ、あんなこと言われたら、会いになんて
来られないよね。・・・だから、私の方から会いに来てって、水月と一緒でもいいから来てって
言うべきだったの。だけど、そうすることで何かが壊れそうだったから。それが、怖かったから」
「結局、俺たちみんな・・・臆病になっていたんだな」
慎二の言葉が全てだった。
「・・・友達を大切に出来ない人は、何も大切に出来ない。
そして、友達を大切にされたことを喜べない人は、何も喜べない」
遙が、静かにつぶやく。
「私、やっと・・・みんなと友達に、なれたよ」
遙が涙ぐみながらそっと両手を胸の前にかざす。
俺もそれにならい、水月と慎二にも目で合図する。
四人の手が繋がり、遙が静かに口を開く。
・・・あの、“誓いの言葉”だ。不思議そうな二人をよそに、遙と言葉を合わせる。
「・・・夜空に星が瞬くように、溶けた心は離れない。たとえこの手が離れても・・・」
遙が俺の目を見る。考えてることは、同じか。
「みんながそれを忘れぬ限り・・・」
四人でもう一度、繰り返した。

「あのぉ〜そろそろ、よろしいんでしょうかぁ〜?」
見ると茜ちゃんがカメラを手に、いい加減にしてよと言わんばかりの顔をしていた。
「孝之?」
「ああ、もう一度撮ろうと思ってな」
さあ並べ並べ、と水月と遙を中心にその左右に俺と慎二。
「はぁ〜い、撮りますよぉ〜」
「あ、ちょ・・・ちょっと待って。遙・・・これ」
薬指からあの指輪を抜き遙に手渡す。
「・・・みつき」
無言で頷く水月。
「お〜いおい、それ水月のだろ?遙がしたら腕輪に・・・ぶっ!!」
「一言、多い」
「お〜い孝之ぃ、久しぶりに逝ったかぁ?」
「あの〜です〜ねぇ〜〜」
はは、さすがに怒ってるよな。
「ごめん、ごめん。いいよ、お願い」
乾いたシャッター音が風に乗って耳に届いた。

これで全てが解決したなんて思わない。
これで全てのわだかまりが解けただなんて思わない。
だけど、今日のこの日の思いを大切にしつつ、生きてゆこう。
時にはそれを忘れるだろう。また新たな誤解も生まれるだろう。
だけど、そんなときはこの写真を見よう。
・・・俺たちは、かけがえのない「仲間」だ。
俺と水月がそうであるように、慎二にも、そして遙にも、将来を約束できる人がいずれは現れる。
それでも俺たちは「仲間」であり続けよう。
今日を生きたら、また明日。明日を生きたら、その次の日を・・・
そうやって、積み重ねていこう。ずっと・・・、ずっと・・・

そうさ、これが、
“俺たちが望んだ永遠”なのだから・・・


END






≪あとがき≫ え〜、いかがだったでしょうか?なんか苦労したわりには全然まとまりが・・・(汗) とりあえず今回は、遙エンドでのあの最後の写真。あれを水月エンド後でも見たいよ〜ってところから きてます。なのでやっぱり、ラストシーンを最初に思いついて、そこに向けて四苦八苦・・・。 孝之側と涼宮側をつなぐ存在として香月先生まで引っ張り出した(しかも勝手にバツイチに・・・ ああ〜たのんますからディアブロ轢殺の刑だけはご勘弁を〜お代官様ぁ〜)のに、結局一肌脱いだのは 茜ちゃん。大人ですねぇ〜この娘。というか主役クラスの四人、ヘタレ過ぎ・・・自分のせいですけど。 何か各キャラのファンからカミソリレター(古!)届きそうでコワいです。 当分、おとなしくしてるつもりです。・・・完全に燃え尽きました。 P.S.“ひいらぎ書房”・・・ベタっすねぇ〜、安直ですねぇ〜(爆)
  

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