君が望む永遠SS
いつか、再びあの丘で・・・






いつか、再びあの丘で・・・

“ひいらぎ書房”
目の前の5階建てオフィスビルの横に張り出した看板の3階に、そう表示されている。
少しためらった後、ビルの中に入る。
3階だからわざわざエレベーターを使うこともないのだが、足が少し重い。
エレベーターの動きが何故か遅く感じる。
目的の階に到着し、オフィスを目指す。
廊下とを遮るドアはなく、受付が見えた。その前に立ち、女性社員に声をかける。
「すみません、訪問をお願いしておりました、鳴海と申しますが・・・」

Preludio 追憶の序曲

それは5日前のことだった。
茜ちゃんの五輪金メダルのニュースにはしゃぐ水月から、スポーツ新聞を買って来い、
と携帯に電話が入った。仕事のせいで夜も遅くなってしまい、駅売りは当然売り切れ。
おかげで本屋のハシゴをする羽目となったのだ。
「ここもないかぁ〜。はぁ〜、水月のヤツ、怒るだろうなぁ。くそ、部長め!」
悪態を吐きつつ本屋の中をうろつく。
ふと、絵本のコーナーが目に入った。無意識に足がその方向を向く。
色とりどりで大きさもまちまちな絵本独特の棚。
題名に惹かれ、その中の一冊を手に取る。
「ほんとうのたからもの」
柔らかなタッチのオコジョの絵が表紙に描かれている。
「・・・・・?!」
下のほうに移した視線が、ある一点でくぎ付けになる。作者の名だ。
むらかみはるか

帰宅すると、何故か水月が目を腫らしていた。ふとテーブルを見ると、
どこで買い集めたのかスポーツ新聞が山積みになっていた。
「何だよ、自分で買ったのなら連絡くらい入れろよな」
「孝之・・・見てよ」
その中の一部を取り、涙声で差し出す。
“快挙!”の文字が躍っていた。茜ちゃんの誇らしげにメダルを掲げる写真とともに・・・
「そこの・・・囲み・・・」
メダル獲得のインタビューが載っていた。
「・・・このメダルは今まで私を応援してくれたみんなからの贈り物です。
でも、私が水泳を続けてこられたのは、いつも私の前にいた偉大な先輩のおかげです。
私は、ずっとその人の背中を追ってきました。速瀬先輩、ありがとうございました」
「・・・許して、くれた・・・のか」
水月が水泳をやめたことを心の底から憎んでいた、茜ちゃん。
その憎しみは俺と水月が関係を深めることで、加速度的に深化していった。
茜ちゃんから見れば水月は、自分の期待を裏切っただけでなく、
姉・遙から心の支えとなるべき最愛の男性を奪った、憎い女・・・なのだから。
あれから3年・・・
・・・いろいろなことが、あった。辛いことも、あった。
・・・だけど、全ては時間が解決してくれていたんだな。
(・・・速瀬先輩、か。水月先輩、とはまだ呼んでくれない・・・か。だけど・・・)
「よかったな・・・」
「うん、うん・・・」
俺の胸に顔を埋める水月の頭を、そっと後ろから包んだ。
涙は、当分おさまりそうになかった。

どのくらいの時間、そうしていただろう・・・。
ようやく泣き止んだ水月と一緒に遅い夕食を取る。
「ねぇ、その袋・・・何?駅前の本屋のだよね」
すっかり忘れていた。
「あ・・・あぁ、ちょっと気になる本があったものだから、買ってきた。絵本・・・なんだけど」
絵本という単語に微妙に反応する水月。それはそうだろう、あの日から3年経っているとは言え、
かつての親友である遙のことを思い出させる、重要なキーワードだ。
「でも、どうしてまた絵本なんかを?」
ガラでもないのに、と言わんばかりの怪訝な表情で訊き返す。
「偶然かもしれないし、全くの思い違いかもしれないけど。ほら、これさ」
袋から出した絵本を手渡す。暫く唸り声の聞こえてきそうな顔で眺めていたが、
「あ・・・」
「分かった・・・か?」
「むらかみ・・・はるか、・・・は・る・か」
一音、一音を慈しむようにつぶやく。
「絵本というものが全部そうなのか、それともこれだけ特別なのか分からないけど、
作者のプロフィールが載ってないんだ。だから確証も何もない」
裏表紙、見開き、巻末・・・確かにどこにもない。
「ねぇ、この“ひいらぎ書房”って、駅前のオフィスビルの中にある、あの出版社のこと?」
「知ってるのか?」
「ううん、仕事で同じビルの会社に寄ることが多いから、何となく覚えてたんだ」
暫く二人でテーブルの上の絵本を見つめる。
「・・・アポとかって、取れないものかな?」
「え?」
「どうも、気になるんだ・・・よ」


Atto:1 悔恨のAria

「お待たせしました。私、当社の編集長代理を務めております、原田と申します」
こんな格好で申し訳ない、と頭を掻きつつ、
腕まくりしたワイシャツの胸ポケットから名刺を取り出し、手渡す。
「ところで、本日は如何様なご用件で・・・」
「ええ、あの・・・この絵本について、なのですが」
カバンの中の書類封筒から絵本を取り出す。
「ほほう、“ほんとうのたからもの”ですか・・・。いかがでしたか?
当社の専属となる予定の、期待の新進作家のデビュー作です」
「い、いえ・・・すみません。本の内容そのものではなく・・・」
中身を吟味してなかったことを後悔しつつ、正直に返答する。
「・・・作者について、知りたいんです」
「は?・・・むらかみはるかさんのことですか?」
一瞬、怪訝な表情を見せたが、すぐにいつもの営業スマイルに戻る。
「いやいや、結構ですよ。読者である以上、作家に興味を持たれるのは当然ですから」
「どんな方なんでしょう?」
「ええ、昨年の橘町絵本作家展の新人出品で初めて拝見しまして、一目で惚れ込みました。
なんというか、他人を思いやる・・・慈愛に満ちた作風の持ち主だな、と」
・・・他人を思いやる・・・
「で、早速ご本人にお会いしまして、いろいろとお話を伺ううちに、
ウチでの出版契約を了承していただけたと・・・。
まあ、その話の中で彼女の作風の原点を知った、というわけです」
「原点?」
「・・・ああ、プロフィールがありませんでしたね。これは作者の意向で載せるか否かを
決定しますので・・・まあ、いずれ分かることですからお話しますが、
彼女ね、6年前に交通事故に遭われ、その後、3年間もずっと意識不明だったそうです・・・」
・・・・・!
あとの話は全く耳に入らなかった。
「あの、どうされましたか?」
顔に出たのだろうか、心配そうにこちらを見た。
「い、いえ・・・あの、変なことをお訊きしますが、むらかみはるかさんは、ご本名・・・ですか?」
俺の心を下卑た邪推が支配する。
「いいえ、ご本人が苗字だけは出したくないということでしたので、下の名はそのままに、
苗字だけを、彼女の今回の担当を務める・・・ああ、村上君!こっちこっち」
呼ばれた三十代半ばに見える女性社員が近づいてきた。
「こちら、村上里美君。彼女の苗字を使わせてもらってるんです」
状況が今一つ掴めないでいる村上さんだったが、
「・・・ああ!遙ちゃんのですね」
自分の発掘した作家の話題であることに気付き、顔を綻ばせる。
「彼女の作品に最初に惚れ込んだのは、実は村上君でしてね。その後の話も、彼女任せなんですよ」
まいったな・・・と再び頭を掻く。
「・・・本名は、教えて頂けませんか?」
互いに顔を見合わせ、本人が伏せているのに、困ったな・・・という顔をする。
「もしかして・・・」
ラチが開きそうにないので、先に口を開く。
「・・・涼宮・・・遙、では・・・」
どうしようか、と見合わせていた顔が、バネ仕掛けのからくり人形のようにこちらを向く。
それは俺の言葉が、正鵠を射ていることの何よりの証明だった。

「・・・やっぱり、遙・・・だったよ」
「え?!・・・そ・・・う」
いつも通りの遅い夕食の席で二人とも押し黙った。
何か話したいのに、言葉にならないもどかしさ・・・
言葉でなくても十分過ぎるほど分かってしまう、この皮肉。
「ねぇ・・・遙って、今・・・」
「・・・むらかみはるか、ってのはペンネームみたいなものだそうだ」
昼間の邪推を振り払うように、遙の純潔を喜ぶ自分が・・・浅ましい。
大体、純潔ってなんだ!あれから3年だぞ、遙がそうしてなければならない理由がどこにある!
・・・俺たちは、いや俺は、遙を・・・「捨てた」んじゃなかったのか?
そうさ、俺は一月余りの「恋人ごっこ」をした遙でなく、
あの事故の後、あのときの遙の親父さんからの拒絶以降、2年間俺を支え続けてくれた、水月を選んだ。
・・・水月を選ぶ、それはイコール「遙を捨てる」ことだ。
どう弁解しようと、その事実は、変わることはない・・・はずだ。
だけどそれは、遙との関係の全てを否定しなければならない程の、ことなのか?

「あたし・・・まだ、遙に・・・謝れて、ないよ・・・ね」
「水月・・・」
「あの日から3年も経ったっていうのに・・・ね。何してたんだろね、あたし・・・」
自虐的なうすら笑みを浮かべながらつぶやく。
あの日。そう、遙に病室に呼ばれた俺たちは、その場で互いの心情を吐露し、
それがどのようなものであろうと、それで一度気持ちを清算し、新たな出発とするはずだった。
だけど結果は、遙の強がりに苛立ちついには激昂した水月が遙に対して手を上げ・・・
「・・・あたし、遙との友達としての関係まで・・・壊しちゃったよ」
無残だ・・・。

あれから、3年・・・か。
時の流れは残酷だが、その残酷なまでの流れにしか出来ないことも・・・ある。
傷ついた心を癒すこと、傷つけたと嘆く心を癒すこと・・・それは時間にしか、出来ない。
それを水月と遙、そして慎二。俺たち四人が望むことは、出来ないのか?
あのときの、あの丘の、俺たちの始まりをもう一度・・・
こんな俺たちが望むことは・・・余りに都合が良すぎるのか?
そうだろうな、いまさら都合が良すぎるよな。
そうさ、俺たちはこの3年間何をしていた?
ただ逃げ回っていた・・・だけだろう!
遙の言葉・・・精一杯の強がりを「口実」にして、遙は強いからと決め付けて・・・
いくらでも関係を修復する機会はあったはずなのに・・・
・・・もう、これでさよなら・・・なの。
あの言葉が真意でないことくらい、俺でも分かる。
だから、少しだけ時間を置けばいい。また昔と同じように話が出来る、水月と遙も仲直り出来る、
そう考えていた。
だけど、気付くと3年が過ぎていた。
逃げ回っていた、代償。・・・自業自得、だ。
・・・自嘲と悔恨が心の中に黒く深く広がってゆく・・・


Intermezzo 失われた時〜遙

ドアが静かに開く。
拍手が聞こえる。
降り注ぐ陽光の中、歓喜の道の左右に香月先生をはじめ、お世話になった先生や看護師さん。
その向こうには、私の退院を待ちつづけたお父さん、お母さん、そして茜。
嬉しいはずなのに・・・この日を待ち望んだはずなのに・・・
・・・どうして、寂しくなるの?
(・・・孝之・・・くん)
それを口に出しては・・・いけない。
それを顔に出しては・・・いけない。
私から・・・望んだことだから・・・
・・・でも、それは・・・ほんとうに私が望んだことなの・・・?

・・・あれから随分と時間が流れた。
私の体の回復ぶりは順調のようで、1回、検査を兼ねた短い入院をしたこと以外は
月1回の定期検診を受けるだけで済むまでになれた。
お父さんも、お母さんも、茜も・・・みんな優しく見守ってくれている。
4年前と変わらない暖かさに包まれて・・・
・・・変わらない・・・?
違うよね。
私の傍で優しく笑っていてくれた人はもう、いない。
私に勇気をくれて、大切な人を見つける手助けまでしてくれた親友も、いない。
そんな二人を笑いながら見ていた人も、いない。
私が、拒絶してしまったから・・・。
4年前のあの丘の写真・・・

「きっと、いい思い出になるよ」
・・・本当に、思い出になってしまったの?
時は流れ行く・・・変わり行くもの、変わらないもの、全てを包み込みながら・・・

「遙、何してるんだ?そろそろ出かけるぞ」
階段の下からお父さんの呼ぶ声。
今日は定期検診の日。いつもと同じようにお父さんの車で病院へと向かう。
「え?診察終わるの、待ってるの?」
行きは車で送ってもらうけれど、帰りはいつもタクシーを使っていた。
確かに今日はお父さん、大学の講義お休みの日だけど。
「なぁ〜に、たまには外で食事でもしようと思ってな。そんなに時間かかるものでもないだろ?」
「うん、一時間もあれば済むと思うけど」
「それならロビーで待ってるよ。結構、時間潰しの材料もありそうだしな」
「涼宮さん、どうぞ」
看護士さんの呼ぶ声がした。
「じゃあ、後でな」
診察はいつもと大して変わらない。問診の他、心電図や脳波など、退院から2年近く経ったのに
結構大掛かりなんだな、と思う。確かに、事故から3年も目が覚めない程の重体だったのだから、
仕方ないと言えばそれまでなんだけれど・・・。

「・・・もう、すっかり良いようだな。本当に良かったよ」
手近のファミレスで食事した後の帰りの車中で、感慨深げにお父さんがつぶやいた。
・・・そうだよね。もう5年にもなるんだよね、私が事故に遭ってから・・・。
「あれ、家に帰るんじゃないの?」
ふと気付くと家への道とは方向が違っていた。
「ああ、すまない。ちょっと会計事務所に寄りたいんでね。そんなにかからないと思うが、
う〜ん、時間潰せるところ・・・そうだ、遙、絵本好きだったろ?同じビルにある出版社の
系列っていうのかな、絵本をたくさん置いてある書店が一階にあるから見てたらどうだ?」
「うん、じゃあそうする。さっきは私が待っててもらったしね」
目的のビルに到着し入口で分かれた後、書店に入る。自然と絵本コーナーに足が向いた。
わぁ〜いっぱいある。カラフルな絵本独特の棚は見ていて飽きない。
「・・・・・あ」
・・・マヤウルのおくりもの・・・
無意識に手が伸び、絵本をじっと見つめる。
「・・・孝之・・・くん」
こみ上げてくる・・・想い。
5年前のあの丘、あのときの・・・想い。四人の思い出。
そっと棚に絵本を戻したとき、
「・・・涼宮?・・・涼宮、なのか?」
「え?」
それ程遠くない背後からの声に振り向くと、スーツにネクタイの男の人。
その顔を・・・忘れるはずが、なかった。
「・・・平・・・くん?」

談笑する声が聞こえ、人影が見えた。お父さんともう一人、事務所の担当の人だろうか。
「すまなかったな遙、ちょっと話に花が・・・」
「いやいや、こちらこそ引き止めてしまって・・・うん?慎二、何してるんだ」
「ああ、息子さんですか?・・・そういえば同級生で遙の知り合いがいる、と・・・」
平くんのお父さん、会計事務所、・・・ああ、そうだった・・・よね。
「・・・慎二、今日はもういい。良かったら教授の娘さんと話でもしたらどうだ?
何だか随分と久しぶりそうじゃないか、車を貸してやるから送って行ってやれ」
半ば強引に話を進め、自分はお父さんと一緒に出て行ってしまった。
そんな・・・どうすれば、いいのよ。

「・・・涼宮。・・・とりあえず、ここ出ようか」
平くんに促され外に出る。平日の昼間とは言え、書店の中はそれなりの人がいるわけで、
男女が言葉もなく向き合うにはあまりにも不似合いだったしね。
車で送ってもらうことになり、ぎこちなさを交えながらの世間話をしているうちに家に着いた。
「・・・じゃあ、また・・・会えるといいな」
「あ、ちょ、ちょっと待っててくれる?」
承諾の言葉を聞く間もなく家に入り、自分の部屋から一冊のスケッチブックを持ってきた。
「あの・・・これ・・・」
「え、これは・・・?」
それ以上何も言えず、押し付けるように平くんに手渡し、別れた。

*          *          *

あのとき平くんに手渡したスケッチブック。
それは、絵本の下書き。絵本作家展の新人出品で目を付けてもらえた作品の下書きだけど、
最後の部分が違っている。物語の、結末が・・・。
そこには、私の今の望みが描いてあるの。叶うことのない、望みが・・・。
机の上の写真を見つめる。決して「いい顔」ではないけれど、楽しそうな6年前の思い出。
「きっと、いい思い出になるよ。・・・孝之くん、・・・平くん、・・・みつき・・・。
もう戻れないのかな、帰れないのかな、あのとき・・・あの丘の上に、もう一度・・・」
自分から身を引いたのに?
「・・・違うの!」
私は一人で大丈夫って、言ったじゃない?
「・・・そうじゃ、ないの!」
どう違うの?
「私たち、友達・・・だよね?友達・・・だった、じゃないよね?思い出だなんて、寂しいよ。
孝之くんと水月が付き合っていたって、いいの!・・・私は、みんなと一緒にいたいだけなの!
・・・なのに、どうして・・・あんなことを・・・言ってしまったの?」
背後でドアの開く音。あわてて振り向くと、茜だった。
「ど、どうしたの?」
何かを決心したような顔で口を開いた。
「お姉ちゃん、話が・・・あるの」


Atto:2 夏の終わりの奏鳴曲

9月とはいえ厳しい残暑の陽光が肌を刺す。
どこまでも続く砂浜の白く輝く照り返しが、その厳しさに拍車をかける。
頬を伝う汗をぬぐいもせず、白砂を踏みしめただ歩き続ける。
俺は、こんなところに何をしに来たんだ?
・・・こんなところ・・・
欅町の海岸線。あの日、遙に別れを告げられた・・・場所。
砂浜を抜け、緑に囲まれた見覚えのある建物の前に立つ。
欅町総合病院
3年前まで遙が入院していたところ。
今の俺には近づく必要なんてないところだ。
意味の無い己の行動を自嘲しつつ踵を返そうとすると、
「ちょっと、あなた・・・鳴海・・・君?」
ふと、背後から聞き覚えのある声。
「香月・・・先生」

砂浜を見下ろすように建つログハウス風の小洒落た喫茶店。
潮風に揺れるガーランドが心地よさを誘う。
今日は早上がりだからという先生に半ば強引に付き合わされ、窓際の席に向かい合って座る。
「それにしても、久しぶりねぇ」
そうか、香月先生とも3年ぶりなんだ。
「今は、どうしてるの?速瀬さんとは、うまくいってる?」
うまい返答が思い浮かばない。
「はぁ、・・・変わんないわねぇ〜、まぁだ悩める青少年やってるの?」
俺のもやもやとした胸中を見透かしたかのように、少し呆れたため息を吐きつつ言う。
「な、悩める青少年って・・・先生!」
精一杯の強がりで言葉を返す。
「・・・違うの?ま、あなたの人生だし、それに若いうちに悩むのはいいことよ」
「・・・今日は、早いんですね」
話が妙な方向に行きそうなので話題を逸らそうと試みる。
「ええ、夜勤明けだからもっと早くの予定だったんだけど、予定外の診察が入ったから・・・
涼宮さんの」
「えっ?!」
「あっははぁ〜!だぁ〜から変わんないって言ったの。
こぉ〜んなに簡単にカマかけが成功するなんて、むしろ拍子抜けよねぇ〜」
やられた、俺が単純とはいえ全くかなわないな、この先生には。
「診察が入ったのは事実よ。もちろん涼宮さんではないけど」
退院後、幾度かの検査入院こそあったものの、極めて順調な回復ぶりであったこと。
今は月1回程度の診察に訪れてはいるが、それもそう長く続ける必要はないこと。
・・・そうか、もう大丈夫、なんだ。
「でも、ちょ〜っと寂しがってたな、退院の日」
俺と水月は遙の退院の日を、知っていた。
あんなことがあったのに、茜ちゃんがわざわざ知らせてくれたんだ。
・・・だけど、俺たちは行かなかった。
電話で行けない旨を伝えた時の茜ちゃんの押し殺したような沈黙が、未だに耳から離れない。
本当は行きたかった。退院おめでとうと言ってやりたかった。遙の笑顔を・・・見たかった。
だけど行って遙と会うことで、水月とともに歩もうとする力が失われてしまうことを、恐れた。
・・・だから、行かなかった。そうすることでさらに深まる溝があることを、承知の上で・・・
「それで、最初の質問。速瀬さんとはうまくいってる?」
「ええ、あいつもスイミングスクールのコーチ、頑張ってますし
俺も、しがないサラリーマンですけど、何とかやってます」
あのねぇ、そんなことを聞きたいんじゃないの・・・と言いたそうな憮然面をこちらに向ける。
「どうも、私の質問の真意を汲んでないようなんだけど・・・」
嫌な予感が的中した。
「結婚とか、考えてあげないの?3年も一緒に暮らしてるのに」
「いや、あの・・・それ、は・・・」
「だって、傍目から見ればそれが普通なんじゃない?」
「そうかもしれない・・・です、が」
こちらを見ていた先生が、微妙に視線をずらしながら、
「まだ、整理できて・・・いないのね」
ストローを玩びながらポツリと先生がつぶやく。
「・・・難しいわよね、男と女・・・それに友達関係が絡むと・・・。
なまじ距離が近かった分、傷つけあうことを恐れて一歩を踏み出せない。
その躊躇いが、互いの距離をさらに遠ざけることになるかも知れないというのに・・・ね」
先生の目は俺を見ていなかった。いや、俺を通して遠い何かを見ているかのようだった。
「先生・・・?」
「ああ、ごめんなさい。なんかしんみりさせちゃったわね。ちょっと昔のこと、思い出しちゃった。
あ〜あ、そうね、あのときもう少し勇気があったら、私の経歴にバッテン付くこともなかったのに」
「先生って、あの・・・」
「こぉら、女の過去を無闇やたらと詮索するもんじゃないの」
俺の鼻の頭に人差し指を押し当て、穏やかに睨みつける。

「あら、随分時間経っちゃったわね。ごめんなさいね、無理に付き合わせたみたいで」
いえ、みたいじゃなくてまんまなんですけど・・・
「さてと、じゃあこれでね。悩むのは悪いことじゃないけど、程々に・・・ね。
今の恋人との暮らしを大切にするのはもちろんだけど、友達のことも忘れては・・・
いいえ、忘れようとしては・・・ダメよ。その逆もまた、然りだけど」
「先生・・・」
「そうそう、涼宮さんといえば、妹さん・・・すごいわよね」
帰り支度を始めた先生が思い出したように口走る。
「競泳ですよね。オリンピック代表ってだけでもすごいのに、金メダルですからね」
水月のはしゃぎぶりが思い起こされる。
「・・・でも、それ以上に驚きなのはあのコメント、ね」
思わず、え?と訊き返す。
「だって、あれほど避けていたはずなのに、急に“速瀬先輩ありがとう”だものね。
どういう心境の変化があったのやら・・・」
「でも、3年ですよ。水月自身、茜ちゃんも練習しているクラブ、まあ直接は関係ないですけど
もう2年インストラクターやってます。それなりの交流だってあるんじゃ・・・
それこそ初めは結構辛そうでしたけど、最近は何も言わなくなりましたし・・・」
先生の顔が険しい。彼氏なのに知らなかったの?と言わんばかりだ。
「彼女ね、つい最近まで“あの人とは口も利いてません”って言ってたんだけど・・・」


Intermezzo 失われた時〜茜

どうして、来てくれなかったの?
期待はしてなかった。けれど、わずかな希望は抱いていた。
「やっぱり、来なかったね」
「え?」
「怒らないでね。私、一応、知らせたんだ。お姉ちゃんの退院のこと、鳴海さんに」
「茜・・・」
「・・・本当に、このままでいいの?」
「茜、やめてちょうだい」
「お姉ちゃん!」
「やめてっ!お願い・・・だから」
両の耳を覆いながら、その場に崩れるように座り込む
「・・・今は、そっとしておいて・・・お願い・・・だから」
「お姉ちゃん・・・」
ごめんね、姉さん。・・・そう、だよね。

速く、もっと速く。水しぶきを上げながら、泳ぐ・・・泳ぎ続ける。
ひたすら記録を求め、自分と戦い続ける。
他のことは何も考えずに・・・
そうだ、泳いでいる間だけは・・・無心になれた。
だから、心の中に刺さったトゲを忘れるために、無心でいるために、ひたすら泳ぎ続けた。
いつしか、そんな私を追いかけるように、記録がついてきた。
・・・まるで、私の強情さと空意地の副産物のように・・・。

「ねぇ、茜!今度クラブにやってくるコーチって、あなたの先輩だった人じゃない?」
あの日から1年。全てを忘れ水泳に打ち込もうとしていた私をあの時に引き戻すのに、
それは・・・十分過ぎるものだった。
速瀬水月。高校水泳のかつての記録保持者。その名声がこのスイミングクラブの躍進の原点
にもなっていた。卒業後、故あって一線から退いたとは言え、その名が曇ることはなかった。
もともと学生時代から後輩の人望もあった彼女。名のあるクラブや実業団から指導者としての
誘いがいくつか来たとの噂もあり、いずれはここのクラブもコーチを依頼すると誰もが考えていた。
もちろんコーチといっても私の所属する“フォレックス”の専属というわけではなく、
あくまで“柊町立総合スポーツセンター”のスイミング・インストラクターというのが肩書だ。
別に直接、顔を合わせるわけではないのだし、気にしなければ。そう、気に・・・しなければ。
速瀬水月。・・・鳴海さんが選んだ人。冷静になって考えれば、それは正しい選択。
姉さんが事故で意識不明になり、いつ目覚めるとも知れないとの言葉に絶望し、
お父さんの言葉で止めを刺され、暗闇の底にいた鳴海さんに献身的に寄り添い、救った人。
それがもとで水泳から遠ざかり、一度はそんなあの人を“裏切り者”と罵ったけれど。
・・・水月先輩が水泳の世界に帰ってくる。選手としてではないけれど、再び。
でも、何もここでなくても、いいじゃない・・・ですか。
案の定、私はあの人とまともに話すらしなかった。・・・出来なかった。
事情を知らない周囲の人たちは「ケンカでもしたの?」と心配までしてくれたけれど、
・・・そんな、簡単なことなら、良かったのに・・・ね。
だから、今は・・・時間が、欲しい。

全ては、時間が解決してくれる・・・ものなの?
そんな都合のいい話なんて、ないよね。
ただ無為に失われてゆく時間の方が、多いと思うから・・・

「お姉ちゃん、そんな物まで持ってくつもり?もぉ〜検査とは言っても入院には変わりないんだよ。
変な物持ち込んで先生に怒られるの私なんだからね。・・・ほぉら、置いていく!」
絵本の束(何冊あるんだか)とスケッチブックを取り上げる。
「ああ〜ん、茜ぇ〜。うぅ〜いじわるぅ〜」
思わず片手で顔を覆う。全くもう、どっちが姉なんだか分かんないよ。
1週間程の検査入院。お父さんの都合がつかないので、私が付き添いで行くことになったのだ。
まるで幼稚園児の遠足の支度のようなドタバタの準備をようやく終え、タクシーで病院へ向かう。
「あら、今日はあなたが付き添いなの?」
「あ、香月先生。そうなんです、もう大変で・・・また、お世話になります」
二人してほくそ笑む様をきょとんと見ている姉さん。・・・あ〜あ、幸せな人。
一通り手続きを終え、明日からの検査に備え多少の安静が必要とのことだそうなので、
病室で姉さんと別れた後、香月先生と話す時間が出来た。
「検査って分かっていても、入院ってやっぱり抵抗・・・ありますよね」
「・・・かもね。あの時は3年・・・だったものね。でも早いものね、退院からもう2年・・・か」
「もう、大丈夫・・・なんですよね?」
不安が顔に出たのだろうか、それを打ち消すような笑顔で答えてくれた。
「ええ、もうすっかりね。ただ何分にもあれ程の重体からの回復だから、
念には念を入れてってところかな。とりあえずってのも変だけど、何も心配はいらないから」
「そうですか、本当に良かったです」
「そうそう、話は突然変わるんだけど、水泳、頑張ってるみたいね。いろんな大会で表彰台の常連、
オリンピック代表は確実。知り合いにそんなすごい人がいるのって、ちょっと嬉しくなるわよね」
「そ、そんな・・・プレッシャーになるから、やめて下さいよ」
「ふふっ、ご〜めん。そう言えば、あなたの所属してる実業団の練習場って柊町にあるアレよね?
え〜っと総合センター?あそこで速瀬さんがコーチしてるそうじゃない。話とかはするの?」
あの人の名前に、俯き押し黙るしかなかった。
「どうしたの?」
「・・・い、いえ。しょ、所属も違うし、向こうは普通のインストラクターですから」
「・・・それだけじゃ、なさそうね。・・・そっか、まだ・・・なのね」
心の内を見透かされていると思った。
「・・・ダメですね、私。たった一言で済むかもしれないのに、また繰り返すかもと考えてしまって
あと一歩がどうしても踏み出せないんです」
自嘲気味に顔を伏せる。
「それは、みんな同じ。・・・彼からも何も連絡、ないんでしょ?・・・例のお友達もからも。
誰もがみんな一歩を踏み出せない・・・か。私にも経験あるけど、辛いわよね、そういうの」
「そうなんですか?先生」
「これでもあなたたちよりは人生経験豊富なつもりよ。そうね、友達関係と恋人関係、難しいわね。
私は結局、失敗しちゃったけれど、あなたたちには・・・そうはなって欲しくないわ」
失敗。恋人との別れ?それとも友達関係の終焉?・・・それ以上は訊けなかった。
「・・・そうね。世の中には時間しか解決できないこともあるけれど、時間を置くことで
より一層、事態が悪化することもあるの。みんながみんな躊躇っているうちに・・・ね。
そんなときに誰でもいい、嘘でも、強がりでもいいから、その背中を押してくれたなら・・・」
「・・・先生」
一歩を踏み出せない、迷いと躊躇い。
その迷いが生む、さらなる距離と溝。
迷える背中を押してくれる、何か。
誰でもいい、嘘でもいい、強がりでもいい。
・・・それが、きっかけとなり得るのなら・・・
「・・・私に、それが出来るでしょうか?」
半分は自分に向けた問いだった。
「・・・茜・・・さん?」

*          *          *

「お姉ちゃん、お姉ちゃん?いないの?」
「え?ど、どうしたの?」
「どうしたのって・・・お姉ちゃん、ほんとにボケちゃったの?村上さん、待ちくたびれてるよ」
全くもう、今日は出版予定の絵本の打ち合わせなのに、何してんだか。
机の中や本棚のイラストやスケッチブックの類をかき集め、大慌てで部屋を飛び出す。
「お姉ちゃん、慌てるとまた階段踏み外すよ」
全く、進歩のない姉さん。苦笑しながら姉の部屋を覗き込む。机の上に・・・四人が写った、写真。
「・・・お姉ちゃん」

そっか、あれからもう3年・・・か。
3年間、姉さんは鳴海さんのことを、心の奥底に封印してきた。
封印・・・それは決して、忘却・・・では、ない。
鳴海さん、あなたは姉さんのこと本当に忘れてしまったんですか?
あの人との暮らし、姉さんとのそれよりもそんなに楽しいですか?
私、もうそれほど恨んではいません。許したわけではないけれど、未だに話も出来ないけれど・・・
でも、本当は会って、話をして、もう一度始められたら・・・
そう思ってるのは、私だけ?・・・姉さんも、鳴海さんも、平さんも、そして・・・あの人も。
・・・誰もが、一歩を踏み出せないで・・・いる。互いにまた傷つけあうのが、恐いから・・・
その迷いと躊躇いが、互いの距離をさらに広げ、溝を深めるかもしれないと知りながら。
何か、どんな小さなことでもいい、迷えるその背中を押してくれる「何か」があれば・・・
だから、私は・・・。

「・・・このメダルは今まで私を応援してくれたみんなからの贈り物です」
・・・お願い、気付いて・・・
これが、今の私に出来る・・・精一杯。
「でも、私が水泳を続けてこられたのは、いつも私の前にいた偉大な先輩のおかげです。
私は、ずっとその人の背中を追ってきました」
本当はこんなこと言えない、今はまだ、そう思っていないから。
だけどこの一言が、迷っている人たちへの、立ち止まっている背中の一押しになるのなら・・・
一歩を踏み出せる、きっかけになるのなら・・・。
・・・そんな嘘なら・・・今は、吐いてもいいですよね?
いつか・・・きっと、真実に変えられるようにしますから・・・
「速瀬先輩、ありがとうございました!」


Atto:3 過ちのRondo、そのCoda

「今日、欅町に行ってきたよ」
夕食の席での開口一番、俺の言葉に水月の動きが止まる。
「何を・・・しに行ってきたの?」
「・・・正直、目的も何もない。ぶらりと、ってヤツさ」
「そ、それにしても・・・ぶらりと行くところなの?あそこは」
わざと水月の言葉を遮り、言う。
「偶然・・・なんだけど、香月先生に会ったよ」
「先生に?」
どう切り出したものか・・・
「・・・あ、茜ちゃんの話になってさ。例の金メダル」
明らかな動揺の息遣いが聞こえた。
「・・・何で、あんなこと言ったのかな。お前とは、口も利いてないって」
努めて明るい口調で、何も知らないかのように・・・
「やめて!」
「水月!」
「・・・や・・・めて・・・よ、お願い・・・だから・・・」
顔を覆い、泣きじゃくる。
「・・・ごめんな。俺、本当に何にも進歩してないや。また、いろんな人たちを傷つけちまった。
辛かったよな・・・、本当に。でも、もういいんだ。いいんだよ、水月」
そっと抱きしめ、柔らかな髪をたたえる頭を優しく撫でる。
「・・・俺には、何となく分かった。茜ちゃんは、気付いて欲しかったんだ」
水月が涙で濡れた顔を上げていた。
・・・そう、誰もが一歩を踏み出せずにいただけだと言うことを・・・
そしてそれは、一番臆病になっていた俺に対する、心からの抗議だということを・・・

次の休みの日、俺は電話で確認をとってから慎二のところに出向いた。
「それにしても久しぶりじゃないか。まあ俺も忙しかったってのもあるけどな」
「親父さんの会計事務所だろ、なんか不肖の息子ってことでこき使われてそうだけど」
「不肖、は余計だ。伊達に3年もやってない。今じゃ、結構重要な仕事も任されている」
平会計事務所の一角にある応接セットで語り合う。慎二とも半年振りくらいになるか、
ひとしきり近況報告も交えた雑談に花を咲かせた後、本題に入る。
「・・・速瀬先輩、ありがとう・・・か。あのころは、水月先輩って呼んでたはずなのに、な」
「ああ、俺・・・またしてもやっちまった。まったく、何回同じことを繰り返せば気が済むのか・・・」
自嘲気味に視線をずらす。
「・・・お前だけじゃ、ないさ。俺も含めて、あのときの四人みんなが・・・な」
・・・もう一度、帰れるなら・・・。帰れなくても、始められるなら・・・
「実はな、お前には話してなかったけど俺、あれから涼宮に会ったこと、あるんだよ」
「え!ほ、本当か?」
「ああ。考えてみれば涼宮の親父さんはウチのお客さんの一人だし、なにより親父の知り合いだ。
今の今まで顔を合わさなかったのが、むしろ不思議なくらいさ」
「確かに、な。・・・それで」
「ここの一階、本屋になってるだろ?そこでバッタリ、その後親父のヤツが余計な気を利かせてな。
涼宮を送りついでに少し話をしたんだが・・・正直、何を話したものかと。で、家まで送った後
涼宮が、これを・・・俺に」
慎二がスケッチブックのような一冊のノートを持ってきた。その表紙に・・・
・・・ほんとうのたからもの・・・。作・すずみやはるか
「これは・・・!」
「まあ、いわゆる下書きってところだろうな。どうして俺にそんな物を、と思ったが
中を読んでみて・・・涼宮の気持ちに、今まで気付けなかった自分を、呪った・・・よ」
慎二から手渡されたスケッチブックの表紙を繰る。
絵本自体は既に出版されており、俺も持っていた。所々違いはあるが、大体は同じ・・・え?
最後のページ、あのオコジョたちが再びあの丘に集まっていた。
・・・ぼくたち、やっとほんとうのともだちに・・・なれたね。
胸の中で、何かが・・・動いた。
想いに気付かずにいた、いや気付こうとしなかった俺の心を責める、痛みとともに・・・。
何てことだ・・・。遙はずっと、待っていたんじゃないか。あの日から、ずっと・・・
・・・いつか、再びあの丘で、あのときの四人の時間が回りだすのを・・・。
俺だけが、そのことから目を背け・・・ただ、逃げていただけなんだ。
そして、そんな俺の身勝手さが、水月にも大きな足枷を付けていたんだ。
静かにスケッチブックを、閉じた。
「なあ、今度・・・時間、取れないか?」
「うん?まあ、出来ないことはないけどな。事前に連絡もらえれば都合はつけるよ。お前のことだ、
何をしようとしているか位察しはつくが、・・・お前一人で出来るか?何なら俺も手伝うけど」
慎二の言葉はありがたかった。でも、俺は・・・。
「出来るとか、出来ないとかじゃない。やらなければ今度こそ俺はどうしようもない・・・卑怯者、だ」
そうだ。今度こそは・・・自分で一歩を踏み出さなければ、ならないんだ。
「それにしても、あれからもう3年・・・いや6年、か。今になってようやく分かるとは・・・な。
そのための授業料というには、余りにも重過ぎるよな。俺にも、お前にも。それに・・・」
そうだ、だから今度こそはもう、逃げては・・・ダメなんだ。
俺のすべきことは、もう決まっている。
そうだよな、遙、水月、・・・茜ちゃん。

柊町立総合スポーツセンター
名称こそどこにでもある市民施設だが、そこには世界に名を轟かせる“フォレックス”の拠点がある。
各施設の充実ぶりも一般的なスポーツ施設とは比較にならない。
今日は水月がオフであることを確認してから来た。
水月の同僚の人から話を聞き、今は割とリラックスムードだからということなので、
練習が終わるのを待つことにする。
午後6時を少し回ったころだろうか、フォレックスの選手たちと思しき一団が姿を見せた。
その中に茜ちゃんの姿が見えた。他の選手たちと談笑していたが、こちらに気付いたようだ。
どうしたの?と言いたそうな他の人たちに、先に行ってと手で合図する
他に人影のなくなったロビーに、二つの影。
時間が止まったかのような沈黙が流れる。
「・・・鳴海・・・さん」

人気も途絶え、夜の帳が降りつつある公園のベンチ。
「・・・もう、どの位になるんでしょうね。あの日から」
暫しの沈黙の後、茜ちゃんから口を開いた。
「・・・3年も、経ってしまったよ。・・・えっ、と・・・あ」
「ふふっ、昔のままでいいですよ、ちゃん付けで。その方が、嬉しいです。あの時に、帰れたみたいで・・・」
あの時。・・・また、心が痛んだ。
「・・・それで、今日はどうされたんですか?わざわざ水月先輩が休みの日を選ぶなんて」
水月先輩。・・・そう、呼んでくれるのか?それとも、俺の前だから?
「・・・謝らなくちゃ、と思ってね。今更だけど、あの日行けなかったこと、その後連絡もよこさず
ずっと、ずっと逃げ回っていたこと。・・・遙、から」
心の内を全て曝け出そう。そうしなければ、何も始まらないから。
「俺が逃げ回っていたばかりに、水月にも、茜ちゃんにも、そして・・・遙にも、
余計な足枷を着けていたんだ。・・・何が、私は一人で大丈夫・・・さ。情けない・・・よな。
遙にそんなことを言わせてしまうまでに、あのときの俺は・・・堕ちていたんだ。
そして、それにすら今まで・・・気付けなかった。もう一度、もう一度、始められたら・・・。
遙の、水月の願いに・・・望みに、気付いてやれなかった。ひどいヤツ・・・だよな。
茜ちゃんにも、こんな無理をさせちまった・・・。ごめんな、本当に・・・ごめんな」
こんな言葉くらいで許されるなんて思っていない。
「それで、鳴海さん。・・・?」
無意識のうちに顔に出ていたのだろう。それを見て茜ちゃんが口をつぐむ。
「・・・茜ちゃん、頼みが・・・あるんだ」


Atto Fine 永遠の四重奏

あのときの水月の顔ったらなかったな。
久しぶりに二人きりでデートしよう、の言葉にそれこそ“鳩が豆鉄砲を喰らった”ような。
「ねぇ、ところでどこに行くの?いい加減秘密にしなくてもいいじゃない」
「まあまあ、ついて来ればわかるって」
何企んでんだか・・・ため息交じりの呆れ顔。
そんな水月をよそに、どこか懐かしさを覚える、それでいてどう控えめに見ても
デートスポットとは無縁の住宅街の坂道を登る。・・・さすがに気付いた、かな?
「ねぇ、孝之・・・もしかして、白陵に?」
「意外なデートスポット、だろ?」
入ってもいいの?という顔をする。というか、高校が付属であるとはいえ、大学のキャンパスだぞ。
さすがに校舎への侵入はマズいけど、一般開放されてる施設もあるし問題はないはずだ。
さらに歩みを進める。
急な坂を登り、目的の場所が目に入った。
「・・・孝之、ここって」
俺たちのとっておきの、そして・・・思い出の場所。

あの樹を見上げる。
風に揺れる木の葉のざわめき。
やわらかな木漏れ日。
視線が降りる。
そこに・・・
・・・人影が、一つ・・・二つ・・・
そして、三つ・・・。
風になびく、ロングの髪。木漏れ日に映える、白のサマードレス。
「・・・は・・るか・・・?」
形容し難い表情でこちらを振り向く水月。視線は泳ぎ、口元が震えていた。
「・・・どういう、ことなの?・・・孝之?孝之ぃ!」
敢えて何も言わず、水月の肩を抱いて歩き出そうとする。
その肩に回した腕に強い抵抗。
水月がその場に崩れるように座り込んでしまった。
無理もないか。だまし討ちをしたようなものだからな。だけどこうでもしなければ、
水月をこの場に引き合わせることなんて出来なかった。
その場で動けずにいた俺たちに、遙がそっと近づいてきた。
「・・・孝之、くん。・・・みつき」
水月は顔を上げられずにいた。
「・・・遙」
二人の間をやわらかな風が吹き抜ける。
その距離は2メートルもない。だけどそこには目に見えない3年の月日をも、横たわっていた。
全てを話そう、曝け出そう。・・・そう、今日この日からまた、始めるために・・・。
「・・・遙、ごめんな。俺、あのときのお前の言葉を口実にして・・・逃げていた。
3年間も・・・逃げ回っていた。お前は水月や慎二と同じくらい大切な仲間だったのに、
俺の方から拒絶していた。いくらでも機会はあったはずなのに、3年も・・・経っちまった。
正直もなにもないけど、言うよ。今の俺には水月がいる。水月と歩む未来が第一だ。
だけど・・・遙だって大切な仲間だ、友達だ。愛情と友情は違うだなんて
余りに都合が良すぎる・・・と思うけど。でも、こんな俺たちでも良ければ、
もう一度、もう一度、友達・・・と呼んでくれないか?」
遙の目がわずかに潤む。
「・・・遙、遙・・・ごめん、ごめんなさい・・・ごめん・・・」
もう水月は泣きじゃくり、その言葉を繰り返すだけだった。
遙がわずかに顔をそらし、ゆっくりと口を開いた。
「茜にここに連れてこられたとき、もしかして・・・と思った。驚いた・・・けどね」
躊躇いつつも静かに言葉を続ける遙を、じっと見つめ続ける。
「・・・孝之・・・くん。・・・私も、逃げていたの。一人で大丈夫と強がりを言って・・・
もう、会わないで・・・と言って拒絶して。そうだよね、あんなこと言われたら、会いになんて
来られないよね。・・・だから、私の方から会いに来てって、水月と一緒でもいいから来てって
言うべきだったの。だけど、そうすることで何かが壊れそうだったから。それが、怖かったから」
そうだ、誰もがみんな一歩を踏み出せずにいただけ・・・。
「結局、俺たちみんな・・・臆病になっていただけ、なんだよな」
傍らにいた慎二が口にした言葉が、全てだった。
「・・・友達を大切に出来ない人は、誰も大切に出来ない。
そして、友達を大切にされたことを喜べない人は、何も喜べない」
遙が、静かにつぶやく。
俺に支えられながら水月が立ち上がり、泣き濡れた顔で遙を見つめる。
遙がそっとハンカチを水月に差し出しながら、言葉を続ける。
「私、やっと・・・みんなと、ほんとうの友達に、なれたよ・・・ね」
そして、涙ぐみながら自分の胸の前で両の手をかざす。
俺もそれにならい、水月と慎二にも目で合図する。
四人の手が繋がり、遙が静かに口を開く。
・・・あの、“誓いの言葉”だ。不思議そうにしている二人をよそに、遙と言葉を合わせる。
「・・・夜空に星が瞬くように、溶けた心は離れない。たとえこの手が離れても・・・」
遙が俺の目を見る。考えてることは、同じか。
「みんながそれを忘れぬ限り・・・」
四人でもう一度、繰り返した。

「あのぉ〜そろそろ、よろしいんでしょうかぁ〜?」
見ると茜ちゃんがカメラを手に、いい加減にしてよと言わんばかりの顔をしていた。
「孝之?」
「ああ、もう一度撮ろうと思ってな」
さあ並べ並べ、と水月と遙を中心にその左右に俺と慎二。
「はぁ〜い、撮りますよぉ〜」
「あ、ちょ・・・ちょっと待って。遙・・・これ」
薬指からあの指輪を抜き遙に手渡す。
「・・・みつき」
無言で頷く水月。
四人並んで、あの樹の前に立ち正面を向く。中央に水月と遙、その左右に俺と慎二。
カメラを構える茜ちゃんが穏やかに微笑んだ。
・・・よかったですね、水月先輩。そんな声が聞こえた気がした。
ありがとう、茜ちゃん。
乾いたシャッター音が風に乗って、耳に届いた。

これで全てが解決したなんて思わない。
これで全てのわだかまりが解けただなんて思わない。
だけど、今日のこの日の思いを大切にしつつ、生きてゆこう。
時にはそれを忘れるだろう。また新たな誤解も生まれるだろう。
だけど、そんなときはこの写真を見よう。
・・・俺たちは、かけがえのない「仲間」だ。
俺と水月がそうであるように、慎二にも、そして遙にも、将来を約束できる人がいずれは現れる。
それでも俺たちは「仲間」であり続けよう。
今日を生きたら、明日を。明日を生きたら、またその次の日を・・・
そうやって、積み重ねていこう。ずっと・・・、ずっと・・・

そうさ、これが、
“俺たちが望んだ永遠”なのだから・・・


END





≪あとがき≫

水月エンドってどうも苦手なんですよ。なんか孝之と水月が遙や茜ちゃんを無理やり過去に
追いやってる気がして。だから、遙エンドのラスト、あの丘の上の記念写真を水月エンドでも
見られないか?これがこのSSを書くきっかけになってます。
以前、投稿させて頂いたものをベースに、加筆・修正を施していたのですが、
ほとんど書き直しも同然になってしまいました。文章量も2倍近くに膨れ上がり、
ますますまとまりがないと言うか、収拾がつかないと言うか・・・。
状況つくるために、一つのビル内に出版社と慎二の親父さんの会計事務所を混在させたり、
よくあれで、3年も顔合わさずにいたなぁ〜(自爆)
まだまだ納得ゆく出来ではありませんが、これが今のところの限界のようです。
また、加筆・修正してもいいですか?(←いい加減にしなさい!って)






  

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