序章

 バシッ! バシッ!
 乾いた音が響く。
 頬を打つ、手が痛い。
 ・・・でも、それ以上に、

 こころが・・・痛い。

「・・・お願い、孝之。もう、これ以上苦しまないで」
 私の腕の中で虚空を見つめながら震える、小さくて、弱い・・・存在。
 孝之って、こんなに小さかったの? こんなに弱かったの?
 違うでしょ?
 だから、お願い・・・。
 強くなってよ。もう一度、立ち上がってよ。
 私より先に、泣かないでよ・・・。
 私だって・・・、そうよ、私だって・・・。

 でも、私が泣くわけには・・・いかない。
 私が泣いたら、孝之はもっと泣いてしまうから。
 ・・・悲しみの渕に、沈み込んでしまうから。

 それに、孝之の涙の理由は・・・。
 ・・・だから、私は・・・。





  君が望む永遠SS

  心のゆくえ
第1章 ただ泣くことが、許されるなら・・・  抑揚のないかすれたような声が、扉の向こうから聞こえる。  誰?  声の主を確かめようと、気付かれぬよう静かに少しだけ扉を開き、中を窺う。  ベッドに横たわり眠る少女の手を握り締めながら、ぽつり、ぽつりと言葉を続ける青年。 「・・・たか・・ゆき」  あまりに重苦しい空気に、それだけをようやく口にした。  でも、孝之は私に全く気付いてくれない。 「なあ、今日はどこにいこうか・・・。そ、そうだ。お前、まだ絵本作家展行って  なかったよな? そうだよな? だから、行こうな、そんなところで寝てないでさぁ。  ほら、この服、いいだろ? お前の好きそうなの選んだんだぜ。だから、さ。遙・・・」  た、孝之・・・。  その姿に、胸が詰まる。   外出用と思しきジャケット姿。髪も整え、身だしなみはきちっとしている。  ・・・まるで、これからデートにでも行くかのように・・・。 「たか・・・ゆき、ねえ、孝之ってば!」  躊躇いつつも声を掛ける。  でも、全く気付いてくれない。  声を掛け続ける。 「孝之ぃ!!」  思わず叫び、ベッドから引き剥がすように、肩を掴んでこちらを向かせた。 「・・・・・!」  言葉を失ってしまった。  ・・・その目は虚空を見据えたまま。  ・・・その口はうすら笑いを浮かべるように、不自然に吊り上ったまま。  そして・・・力なく、人形のようにくず折れる、その体。 「・・・うぅ、孝之ぃ」  反射的に胸の中に抱く。・・・あまりに弱々しい、その体を。 「たか・・・ゆ・・・きぃ・・・」  振り絞るようにその名を呼び、力を込めれば折れそうなその体を抱きしめた。 「お願い、もうこれ以上苦しまないで・・・」  ・・・私の全てを孝之に捧げてもいい。  だって、こうなってしまった原因は、私にあるんだから。  私のせいで、こうなってしまったんだから。  だから、孝之が立ち直れるのなら、そのためなら、私、何だってするよ。  涙が溢れる。止めることなんてできない。  でも・・・。  ただ泣いているだけで済むことなら、その方が幸せだよ。  私だって、そうしていたいんだもの。  ただ泣くことが、許されるのなら・・・。  ・・・それで済むのなら、どんなに救われることだろう・・・。  まだおぼつかない足取りの孝之の肩を支えながら、遙の病室を後にする。  扉から廊下に出た私を、ううん、孝之を待っていたであろう人影。  遙のお父さん、涼宮宗一郎さん。 「・・・やはり、今日もおいででしたか。昨日も一昨日も、いえ、あの日からずっと」  重苦しい空気。・・・何? 遙のお父さん、何か決心したような顔つきだけど。 「鳴海君。あの日、1年前になりますかな。私が君に言ったこと、覚えていますか?   自分を捨てないで欲しいという、あの言葉を・・・。その、意味を」  孝之・・・?  その体を支える私の腕に、怯えたような震えが伝わってきた。 「・・・もう、これ以上は見ていられないのですよ、私は」  涼宮さん? 何を言おうとしているの?  お願い。これ以上、孝之を苦しめないで・・・。  どうして、そんなことを思ったのだろう。  その場の空気が教えてくれたのかもしれない。  ・・・涼宮さんの言葉は、きっと、孝之を・・・。 「場所を変えましょう。香月先生からもお話があるそうですから」 第2章 だから私は、支えつづける  私は、支え続けなければ、ならない。  孝之を。  ・・・私のために失意と絶望に沈んだ、孝之を・・・。 「あ、孝之? どしたの? 遙とデートだったんじゃ・・・」  その後に続いた言葉を、信じたくなかった。  震える声、消え入りそうな声、途切れ途切れに何度も繰り返す、その名。  ・・・遙が、遙が、・・・遙がぁ・・・。  交通・・・事・・・故。遙・・・が?  今でも鮮明に思い出す。  孝之からの電話の後、慎二君と連絡を取り病院に駆けつけた、あの日のこと。  薄暗い廊下。  モノクロームの世界の中、皮肉にも一際鮮やかな色彩を放つもの・・・。  赤い光。  手術中のランプ。  その赤い色を浴びながら、こちらを向いた顔。  見開いた目、焦点を失った瞳、歪んだ唇。  私たちに気付き、こちらに向けてゆらりと動く人影。  ・・・孝之。  その歩みは私の数歩手前で止まり、その人影は私の視界から消えた。 「孝之っ!」  冷たいリノリウムの床に膝をつき、手のひらを押し付けて俯く。  低く、くぐもった嗚咽。  床に、赤い光を反射する水滴が、悲しみの小さな池を形作っていた。 「・・・は、遙が。はるかがぁ〜」  泣き濡れた顔でそれだけを繰り返す、孝之。  でも、その後に続いた言葉が、私をも絶望と悔恨の渕に引きずり込んだ。 「お、俺が・・・待ち合わせに・・・遅れなければ! はるかは・・・事故になんて。  たった、たった15分遅れただけなのに、それだけ・・・なのにぃ・・・」  ・・・・・!!  15分・・・遅れた。待ち合わせに・・・。  その15分の間に、遙が?  ・・・そんな。  だって、孝之が待ち合わせに遅れたのは、遙とのデートと知っていながら孝之を  引き止めたのは・・・私、私なのよ・・・。  だって、私だって孝之のこと、好きだったから。だから、せめて・・・。  ・・・ねぇ、今日は私の誕生日なんだよ? 私にもなんかちょうだい!  そうムリを言って買い物に付き合わせ、プレゼントをねだったの。  ・・・そのプレゼント。  左手のくすり指。銀色に光る・・・指輪。  そんな、このために・・・遙が。  何てことを、私は・・・何てことを・・・。  どんなに悔やんでも、取り戻せないもの。  どんなに謝っても、許されないもの。  そして・・・。  どんなに償っても、償いきれないもの。  ・・・だから、今の私に出来ることは。  今の私が、しなければならないことは・・・。  支え続けること。  今の孝之の支えになること。  そして、その日が来たときは・・・。    だから、今は、彼の孝之の震える体を、そっと胸に抱く。  抱きしめる・・・だけ。  ・・・想いを、閉ざして・・・。  その日以来、私の日常は変わった。  というより、変わらざるを得なかった。  私は孝之のために、可能な限り自分の時間を割くことにした。  水泳の練習を休むことはできなかったけれど、それが終わってから病院に行き、  そこで遙の見舞いを続けている孝之に付き合い、一緒に帰宅し、時には夕食を共にし、  恐らく夜、うなされているからだろう。帰らないでくれ、という孝之の願いにも応えた。    ・・・私の時間が、孝之のそれと重なって流れて行く。  悲しみによって幕が引かれた、夏。  そこへ憂いに満ちた、秋の夜張りが降りて行く・・・。  そして、冬の訪れ・・・。  凍りついた心の氷解を拒むかのような、モノクロームの季節。    孝之は相変わらず遙の見舞いを続けていた。登校し、学校が終わるまでの時間を過ごし、  眠り続ける遙が待つ病院へと向かう。  ・・・毎日のように、体が覚えている行動を繰り返す。  私の日常も、そんな孝之とともにあった。  ・・・いつしか、水泳の練習さえも、休むようになってしまった。 「あの・・・水月先輩? 最近、どうされちゃったんですか? 何か、記録が落ち続けてるって  聞いてますけど。・・・調子悪い、だけなんですか? 練習も休みがちって聞いてますし」  年が明けて1月。いつもの帰り道。  茜と一緒になった。  最近の私。茜の言うとおり、記録が落ち続けている。  当然よね。まともに練習、してないんだもの。 「ホントにどうしちゃったんです? このままじゃ目標にしてるフォレックスに入れなく  なっちゃいますよ? ・・・やっぱり、あの・・・おせっかいかも知れませんけれど、  ・・・姉さんの事故が、関係してるんですか?」  遙の事故。確かに、そうかもしれないよね。 「・・・うん、ごめんね。私、遙のことばかり考えてて。ほら、私と遙って1年のころから  友達だったしね。どうしても、気に掛けちゃうんだ」  それは口先だけの嘘。  心にもない、茜を納得させるためだけの、その場しのぎの・・・口実。  本当は「償い」のため。  償いきれないと分かっている、償いのため。  決して埋まることのない、ピースの欠けたパズルのように・・・。  そして、そんな「報われることのない償い」を続けた、報い。  実業団行きの断念。  遙の事故以来、身が入らなくなっていた、水泳。丁度いい機会、理由? 口実?  ・・・私は水泳の世界から、身を引く決意をした。 「どうしてなんですか? 確かに今回はフォレックス行きが叶いませんでしたけど、  大学にせよ、他の実業団にせよ、続けていれば行けるかもしれないじゃないですか。  それなのに、どうして水泳そのものまで止めるだなんて・・・」  ごめんね、茜。私はもう水泳どころじゃないの。 「私にはムリだった、記録の世界で生きてくってことが、ね。ホント、それだけ」  嘘。水泳を止めるための理由が欲しかっただけ。 「・・・私の、目標だったのに。憧れだったのに・・・。どうして? どうして・・・」  足早に去る音に混じって耳に届く声。「水月先輩のバカ!」  何て言われても仕方が無い。茜の期待を裏切ったという事実に変わりはないから。  ・・・そしてまた、時は流れる。  春。  孝之はかろうじて卒業こそできたものの、進学も就職もできないでいた。  そんな孝之を支え続けていくと決めた、私。  競泳選手という肩書を自ら捨て、単なる高卒の人間になった私。  就職も進学も、何もあてがないのは、孝之と同じ。  そんな私の今の存在理由。  ・・・孝之を、支え続けること。  遙の代わりはできないけれど、それでも欠けてしまった心の一部になれるのなら・・・。  ・・・だから私は、支え続ける・・・。  いつか訪れるかも知れない、「その日」が来るまで・・・。  気が付けば、再び、夏。  遙の事故から、1年が経とうとしていた。 第3章 憎まれても、恨まれても・・・ 「では、ショートカットにしてよろしいんですね?」 「はい、お願いします」  鋏が入る音、ジョキリと髪が切られる音・・・。  ふっと頭が軽くなる。  ロングにしていた髪が切られ、床に落ちてゆく。  ・・・その脳裏を過ぎるのは、あの日の光景。そして・・・。    ・・・・・  ・・・・  ・・・ 「どうしてなんですか! どうして、もう来ないでくれだなんて・・・」  孝之の叫び声。困惑に打ち震えている・・・。  遙の事故から1年ほど経った、初秋だというのに肌寒さを感じた、9月のある日。  場所を変えましょう、と私と孝之を病院の中庭へ案内した、遙のお父さん。  そこには香月先生も待っていた。・・・深刻そうな顔つきで。  そして、遙のお父さん、涼宮さんは孝之に告げたのだ。  今までありがとう。ですが・・・もう、ここにはいらっしゃらないで下さい、と。  涼宮さんが言うには、いつ目覚めるともしれない娘、遙のためにこれ以上、孝之の生活を  犠牲にはできないし、孝之のそんな辛い姿を見るに耐えられない。  だからもうこれ以上はいい、遙のことを・・・忘れて欲しい。  香月先生も、これ以上は孝之の肉体的にも、精神的にも限界だから、と言った。  それは遙の見舞いを続けることを、自らの償いと信じていた孝之を、再び絶望の奈落へと  突き落とした。・・・もう二度と這い上がれないほどの、深く、暗い奈落の底へと・・・。  暫し呆然としていた孝之の体が、まるでスローモーションのように崩れ落ちて行く。  ・・・声にならない、うめきとも叫びとも嗚咽ともつかない、慟哭とともに・・・。  はじかれたように私は、倒れこむ孝之に駆け寄り、その体を抱き起こした。  ・・・その目は、ガラス玉のように何も映してはいなかった。  ・・・その表情は、能面のように凍りついていた。 「孝之? 孝之ぃ!」  思わず、手のひらで孝之の頬を打つ。  何度も、何度も・・・。 「は・・・やせ・・・、はや・・・せぇ!」  搾り出すように私の名を呼ぶ孝之。  その力なくもたれかかる体を、ぎゅっと胸の中に抱く。壊れそうなくらい、強く。  ・・・お願い、もうこれ以上苦しまないで。  私、何でもするから。  孝之が立ち直るためなら、どんなことでもするから。  だから・・・ね?  その日の夜、私は孝之の部屋にいた。  ・・・そして私は、私の全てを、孝之に・・・許したの。 「ん? どしたの? 孝之」  ベッドの中で孝之が、私を見つめていた。正直、コトが終わったばかりなんだから、  あんまり見られたくはないんだけど、でも、何だろう? 訴えかけるような目。 「速瀬、お前はどこにも行かないよな? 行ってしまわないよな? ずっと、ずっと、  いてくれるよな? な? ・・・な?」  まだ汗の残る肌をすり合わせ、私を抱きしめる孝之。 「もう、イヤなんだよ。俺のそばから誰かがいなくなるなんて、もう・・・」  孝之・・・。  私も腕を回す、孝之の背中へと。  そして、二人で抱き合う。・・・その存在を確かめ合うように・・・。 「孝之?」  優しい感触。  孝之が、私の頭をそっとなでていた。 「速瀬って、ずっと髪・・・伸ばしてるんだよな?」 「え? う、うんそうだけど・・・。もしかして、孝之ってショートの方が好き?」  訊き返しながら少し上目遣いに孝之を見ると、何か寂しげな顔。  ・・・あ。  そっか、そうだよね。ロングの髪は白陵のころの私なんだよね?  この髪型の隣に、栗色の髪とピンクのリボンが見えちゃうんだよね?  ・・・遙って、ショートカットだったよね?  そうだよね。 「思いきって、切っちゃおうかなぁ」 「え?」 「だってほら、この髪って意地で伸ばしてたようなものだし、その意地を張る必要も  なくなったワケだしね」  記録に障るから切れ! と言われたことに反発して伸ばしていた髪。  水泳を止めた今、伸ばしている必要も、意味もなくなったのだから・・・。 「それに、ショートの方が似合うって、いつか言ってくれたの孝之だもんね」 「そ、そう・・・だっけ? あ、そう・・・かもな」  誰もが長い髪を「キレイ」と言ってくれてた頃、ただ一人、そう言ってくれた。  意地で伸ばしていた髪を「切った方が似合う」って言ってくれたんだよ?   孝之だけが・・・ね。 「あ、あとさ。速瀬・・・」 「何?」  少し躊躇いがちに、そして照れくさそうに・・・。 「・・・その、これからは・・・水月って呼んでも、いいか?」  孝之・・・。  嬉しい、嬉しいよ。 「うん・・・」  私、ようやく孝之の支えに・・・なれたんだよね?  そうだよね? 孝之・・・。  ・・・  ・・・・  ・・・・・ 「・・・でしょう? あの、お客様?」  え? いやだ、私、物思いにふけってたの? 「こんな感じですが、いかがですか?」  もう一度、美容師さんの声。  鏡を見る。  肩のあたりでショートにまとめられた髪型の私が、映っている。 「うん、いい感じですね。どうも、お世話様」  ふふっ、びっくりするかな? 孝之。ホントにショートにしちゃったからね。  う〜ん、これなんか良さそうかな? 孝之って背が高いワリにスリムだから、  結構、何だって似合っちゃったりするんだよね。いろんな服が自然に似合っちゃうなんて、  女の私から見ても、うらやましかったりするのよね。  あ、これもいいな、これなんかも・・・。  孝之も少しはおしゃれとかしてくれないとね。  美容院からの帰り道。  商店街のメンズブティックに立ち寄り、男物の服をいくつか漁る私。  あの日から半月余り、孝之も少しは元気を取り戻してくれたようだ。  私が訪ねると、笑顔で出迎えてくれるし、話もしてくれる。  私も、「部屋に閉じこもってちゃダメ!」と、できるだけ外に連れ出すようにしている。  散歩、喫茶店や公園のベンチなんかでの雑談めいた会話、ウィンドーショッピング・・・。  しつこいくらいにあちこち連れまわした。  初めはしぶしぶだったけど、ここのところは積極的になりつつある。「よし、行こうか!」  とまで言ってくれるようになったしね。  その後、食事の材料やお酒なんかも買い込んで、孝之のマンションに向かう。  その道中、というよりも到着地点。  孝之のマンションを背にするように、その人物はいた。  ・・・茜。 「ど、どうしたの? こんなところで。ここは・・・」 「知ってますよ、ここが鳴海さんのマンションだってことぐらいは」  私の言葉が終わらないうちに、キツい口調で言い返す、茜。  その視線が私の手荷物を、舐めるように動いていた。 「ふ〜ん、カレシの洋服に夕飯の材料ですか。鼻歌まで口ずさんで、ずいぶんと  楽しそうですね?」  な、何よ・・・。その物言いは・・・。 「おまけに髪型までショートに変えて、心機一転ってところですか?」  何か言おうとしてるのだけれど、うまく言葉が紡げない。茜のあまりに異様な雰囲気に  気圧されるように・・・。 「最近、鳴海さんが姿を見せなくなったから、どうしたのかと思ってたら、こういうこと?  いつ目覚めるか分からない姉さんに取って替わろう、ってトコロですか? ふ〜ん、そっか、  水泳に身が入らなくなった理由もそれですか? 姉さんのことが気になって、なぁ〜んて  言ってませんでしたっけ? とんだ茶番に付き合わされたものですね!」  問答無用とばかりに、一気にまくしたてる茜。  私と孝之が遙の見舞いを止めた理由。  茜・・・。聞いてないの? お父さんから、あの日の出来事を・・・。 「聞いて・・・ないの? 茜」  確認。 「何をですか?」  即答。  そっか、やっぱり聞いてないんだ。遙のお父さん、あのことを茜に話してないんだ。  だったら、ここで私が話すべきじゃないよね? ただでさえ水泳を止めたことで  恨まれてるんだから、それこそ、その場しのぎの言い訳だと受け取りかねないもの。 「いいの、何でもない」 「何なんですか? ハッキリ言って下さい」 「いいって、言ってるでしょ? 茜には関係ない話なんだから」  わざと神経を逆なでするような言い方をした。  ・・・このくらいの方がいいよね。どうせ恨まれるのなら・・・。  息が詰まるような沈黙が、私と茜の間に流れる。  ・・・・・  キッと射抜くような一瞥を私にくれた後、踵を返す茜。  振り向きざま、吐き捨てるような一言が私の耳に届いた。 「最っ低!」  憎まれてもいい、恨まれたっていい。  孝之と一緒の時を過ごせるのなら・・・。  そうなることを選んだのは、私自身なのだから・・・。 第4章 二人の時 「だから、何で俺はタコなんだよ。水月はイルカなのにさ」 「・・・・・タコだと思うんだけど、孝之って!」 「何ぃ〜? どんな根拠があってだよぉ」  陽射しは結構強いけれど、わりと爽やかな空気に満ちた、夏の昼下がり。  今日は孝之と1日を過ごしている。遊園地に水族館、橘町駅前の繁華街、映画館・・・  わりとお決まりのコースのようだけど、どこへ行くか、どこで過ごすか、ではなく、  孝之とともに過ごす時間が大切なのだから、別にそんなことは気にしない。  孝之がゴネているのは、水族館で買ったペアのマグカップ。私が取っ手がイルカの形を  しているのを欲しがったので、それのペアとなっているタコのデザインのカップが孝之用  になったことに納得できず、子供のようにふくれているのだ。  夏。  早いものね、遙の事故からもう2年。そして、私たちが遙の見舞いから遠ざかってから、  もう1年になろうとしている。  あの日以来、遙のことについては何の連絡もない。私たちも意識してその話題には  触れないようにしていたし、遙の家の近辺にも近づかないようにしていた。  茜が私たちのことを誤解していることについては、孝之にも話した。  孝之もショックは隠せないようだったけど、話を聞くうちに納得してくれた。  孝之は最近バイトを始めた。バイト先は橘町に出来たファミレス「すかいてんぷる」。  ようやく馴れてきたらしく、仕事のグチを冗談まじりに話してもくれる。  私は私で親のコネもあって、橘町のとある中堅企業のOL職にありつくことができ (今更ながら白陵卒の肩書は大きいと実感。名門進学校だもんね、白陵って)、それなりに  忙しい日々を送っている。  それでも、その合間を縫って孝之との時間を過ごしているものだから、深夜帰宅や  外泊(もちろん孝之んトコ)がどうしても多くなってしまい、両親がうるさいったら  ありゃしない。  やれ、年頃の娘が夜遅くまで、とか。  やれ、それだけ頻繁に通うくらいなら、結婚とかも考えなさい、とか。  ・・・まったく、もう。 「それにしても、何でイルカのペアがタコなのかねぇ?」  まだ言ってる。 「いつまでスネてんの? もう買っちゃったんだから、ゴチャゴチャ言わないの!  返事は? 3、2、1、はいっ!」 「わーったよ、まったく変わってねぇんだからな、その性格だけは」 「ぶっとばすわよぉ!」  こんな軽口が普通になってきた。  2年前はとてもそうなれるとは思えなかったのにね。  しばらくして・・・。 「水ぃ〜月ぃ!」  ぶつぶつ言いながら食器棚にカップを並べていた孝之が、いたずらっぽい妙な口調で  私の背後に回ってきた。 「ちょ、ちょっと・・・何?」  肩の上から手を回し、胸のあたりで交差させてからもう一度私の首の後ろに持ってくる。  金属の冷たい感触。  孝之の手が動いたあたりを見ると、銀色に光る2頭のイルカがデザインされたペンダント。 「今日は、何の日だ?」  ・・・8月27日。・・・あ。 「私の・・・誕生日」  そう、私の誕生日。  でも、私はそれを意識して口にしてなかったし、話題にもしなかった。  だって、8月27日は、それ以上に・・・。 「孝之・・・」 「そうさ、お前の誕生日さ」  顔を見なくても、私の肩にそっと頭を乗せ、甘えるように摺り寄せた頬の感触が、  私に、様々な想いを伝えてくれた。  ・・・言葉に変えなくても、分かるものだよね。 「・・・怒らないで聞いてくれ、水月」  後ろからもたれかかるように私を抱きしめながら、孝之が静かに口を開いた。 「俺、まだ正直言って遙のこと、忘れたわけじゃない。ひょっとしたら、明日にでも  目覚めるんじゃないか、って思うときもある。だから、親父さんにはああ言われちゃった  けれど、待っていたいって気持ちは変わらないんだ」  孝之・・・。  そうだよね、私は孝之にとって遙の代わり。  自分からそうなろうと決めたのだから・・・。  だから、遙が目を覚ましたときは・・・その時は。 「でもさ、俺にとって今、一番大切なのは・・・水月、お前なんだよ」  ・・・・・!  孝之・・・ダメ、そんなコト言わないで。  私の気持ちを迷わせないで! 「水月。お前は自分のことを遙の代わりだと思ってる。そうだろ?」  気付いて当然よね。つとめてそうしてきたんだし・・・。 「でもさ、俺にとってのお前は決して、遙の代わりなんかじゃないんだよ・・・。  あの日からずっと、俺を支えてくれたよな? 遙の事故でなにもかもイヤになった  俺の心を、埋めてくれたよな? 遙の親父さんから来ないでくれ、と言われて絶望した  俺を、包んでくれたよな?」  た・・・たかゆき・・・。 「そんなにまでしてくれたお前を、どうして遙の代わりだ、なんて思える?」 「で、でも孝之。じゃ遙はどうするの? 遙は死んじゃったわけじゃないのよ?  ひょっとしたら明日にでも目覚めるかもしれないのよ?」  目覚めた遙を前にしても、同じコトを言えるの? 孝之。 「ああ、もしそうなったら正直、気持ちは揺らぐと思う。俺はこんなヤツだから、  今、目の前に遙が現れたらどうなるか、自分でもわかんねぇよ。情けないことにな」  そうだよ、そうだよ? 孝之。あなたには遙がいるじゃないの。  いいんだよ? 私は遙の代わりで・・・。 「でも、あれからもう2年だ。何もかも変わらずにはいられないんだ。だから・・・」    その日がきたら、遙に伝えよう。  俺と水月の関係を・・・。  ともに過ごした、刻んだ時間を・・・。  二人の時を・・・。  孝之は、そう言って抱きしめてくれた。  遙・・・私を許してくれる?  私、ダメだよ。遙の代わりに・・・なれなかったよ。  ・・・そしてまた、時は流れ行く・・・。  「その日」は訪れるのだろうか?  それとも・・・永遠に・・・。  複雑な想いを抱きつつ、私は孝之との二人の時を過ごして行く・・・。  ・・・やっと、動き出したのだから・・・。 終章 Rumbling hearts 「・・・ちょ〜っとぉ〜! 私、これでもダイエット中なんだから。そんな匂い  嗅がさないでよぉ〜! うぅ〜、我慢、我慢・・・できない。負けたぁ〜」  商店街の一角。焼き鳥のあまりにも香ばしい匂い、殺人的なかほりぃ〜。 「そうだ、孝之んトコに寄ってこっと。んじゃ、ちょっと多めに買ってもいいかな」  孝之をダシというか口実にして焼き鳥を買い込み、コンビニで缶ビールも買って  孝之のマンションに向かう。  それにしても、ここのところ孝之の家に入り浸りだな、私って。大体、孝之の家が  ウチから遠いってのがねぇ。前からそうだけど、お母さんがうるさいったらありゃしない。  いい加減、結婚とか考えなさいよ、とか。もう・・・。  そうこうしているうちに到着。  いつも通りに階段を登り、玄関の呼び鈴を押す。 「あたしぃ〜」 「み、水月か?」  やぁねぇ、あたしっていうのが私以外にいるっての?   ん? でも何か口調が変だったような・・・。 「どした?」  う〜ん、何か元気なさそうね。ひょっとしてバイト先で何かあったのかな?   とんでもない同僚と店長がいるとは言ってたけど。やっぱ、疲れてんのかな?   ま、いいか。そういうときこそ、これだもんね。 「こ、れ! もう殺人的ないい匂いでさぁ、孝之と一緒に食べようと思って」  そう言いながら、まだほのかに暖かい焼き鳥の包みをちらつかせる。 「ああ、・・・酒、あったよな?」 「え? 缶だけどビールなら買ってきたよ? それで良くない?」  私の言葉が耳に入ってないかのように、冷蔵庫からボトルを出す孝之。 「ちょっと、本気? ウイスキーに、カクテルまで・・・」 「付き合えよ・・・」  いくら何でも、これだけ付き合ったら二日酔いでも済むかどうかというくらい、  お酒が溢れ返っている。どうしちゃったの? 孝之。 「ねぇ、どうしちゃったのよ。こんなにお酒を飲もうとするなんて、らしくないよ」  孝之はお酒に強い方だと思うけれど、こんなに溺れるような飲み方はしなかった。  明らかに、何かをお酒で紛らわそうとしている。誤魔化そうとしている。  ・・・何なの? 「・・・遙が・・・目を、覚ましたんだ・・・よ」 「え? 誰が目を・・・!!!」   ドクン! と心臓の鼓動が聴こえたような気がした。  今、遙って・・・言ったんだよね? 孝之。・・・はる・・・か。 「・・・ねぇ、もう一度・・・言ってみて、くれる?」  訊き返すその言葉が、震えた。  でも、私の淡い期待を打ち消すように、孝之は同じ言葉を繰り返した。  聞き間違いなどではなかった。  遙が?  あの事故から、もうすぐ3年になる。  目を、覚ました?  3年間、眠りつづけて。 「なあ、水月」 「何?」 「・・・言えるか? 遙に・・・」  ・・・遙が目覚めたら、今の俺たちの関係を話そう。 「う・・・」  言葉が出てこない。  そして、続けて孝之が口にした言葉が、さらに私を困惑させた。 「・・・遙さ、あれから3年経ったことに、気付いてないんだ・・・よ」  あの事故から止まっていた、凍り付いていた時間。  いろいろなことが、あって・・・。  憎まれもして、恨まれもして・・・。  それでも、支え続けて・・・。  ・・・やっと、孝之と私の時間が動き出したのに。  どうして、今になって動き出そうとするの?  ・・・孝之と、遙の時間が。  それも、3年間の空白を残したままで・・・。 「俺・・・言えねぇよ、遙に・・・」  孝之・・・。  運命に弄ばれるように・・・。  どこへ、行こうとしているの?  どこへ、行けばいいと言うの?  孝之の心はどこへ行くの? 行こうとしているの?  そして・・・私の、心のゆくえは・・・どこ?  END  ≪あとがき≫ 正直、遙たん萌えの私には内容的には辛いトコロです。書いてて辛いワケではありませんが、 遙の出番がまるでないってのは・・・(意識不明なんだから当然ですが)。  え〜とDVDの第1巻だけを買ったと、日記にも書きましたが、おそらくピンときた方 もいらっしゃるでしょう。病院のシーン、あのラストの場面がモチーフになってます。 あの部分だけでも、DVD買った価値がありましたね。続きは買わないと思いますが(をい)。  3年間の過ごし方だの、遙の目覚めを水月が知る場面にせよ、オリジナルの設定とはかなり 解釈を変えてます。実際には孝之は遙の病院を訪れてから水月(と慎二)に知らせますが、 ここでは孝之はまだ病院を訪れてない(遙が状況を分かってないのも電話で聞いたという解釈) ことにしています。とは言っても、どのように受け取られるかは、読まれる方にお任せしますが。  とりあえず、どのような感想が来るか、戦々恐々としております。
  

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