泳いだ記憶



「あなたは……誰?」
水月(みつき)……どうしたんだよ。もしかして、俺をからかっているのか?」
 病室の中で、上半身を起こしている水月。
 でも、水月はいつもからかったときに見せる小悪魔の笑みではなく、完全に怯えきった表情をしている。
「いや……来ないで……お願いだから来ないで……」
 水月は、強盗かストーカーに出会ったかのような顔つきで俺を見つめている。
 水月……
 そんな目で俺を見ないでくれよ……
 どうしてしまったんだよ……水月!

「先生、水月は!」
 俺は緊張した面持ちで、先生に詰め寄った。
 もう同棲して二年になる、俺の大切な恋人水月……
 彼女は、家事をしているときに倒れているのを俺が見つけた。でも、意識がないことに気づいて、急いで救急車を呼び、病院まで運ばれることになった。
 今日が休日で本当によかったと思っている。もし、明日のような平日だったら、俺が仕事で帰ってくるまで水月はほっとかれたままになっていたはずだから、場合によっては命に関わっていたかもしれない。
 救急車に乗っている間、俺は水月の手をずっと握り締めて、何度も彼女の名前を呼んでいた。
 その影響もあってか、病院に到着する寸前で彼女は目を覚ましたので、ひとまず安心する。
「彼女は、意識のほうも安定しているし、倒れたのも疲労から来ているから二、三日入院すれば大丈夫。でもね、鳴海(なるみ)くん……」
 もう会わなくなって二年はたつというのに、目の前にいる香月医師は、相変わらずのタメ口で鋭い眼光を俺に突きつけている。
 どういう偶然なのだかわからないのだが、運ばれた場所が柊総合病院。
 そして水月を担当したのは、前に何度かお世話になったことがある脳外科医の香月(こうづき)先生だった。
「さっき、面会して鳴海くんも気づいたと思うけど……彼女、記憶喪失になっているね」
「記憶喪失ですか……」
 そんな……ついさっきまで、あんなに元気だったのに……なんで、なんで、こんなことに!
「先生、どうして水月は記憶喪失になったんですか!」
「そうね……」
 先生は、そうつぶやくと掛けていた眼鏡を外して、机の上に置いた。
「記憶喪失は、脳に血管が詰まったこととかが原因で起こる身体的な要因と、ストレスからくることが原因で起こる精神的な要因が考えられるけど、私は脳外科担当だから、身体的要因のほうを考えて、念のためMRI検査をすることにした」
「MRIですか……」
 そういえば、水月って同棲するようになってから健康診断とかしていなかったから、確かにそういうことも考えられる。
「でもね、脳のどこにも異常はなかった……だから、考えられるのは精神的なことが原因だと思うのよ。私はそこの専門じゃないから、詳しくは知り合いの精神科の先生に聞くといいわ。担当もたぶん、その先生に変わると思うから。今、カルテのほうを書くからちょっと待ってて」
 先生のほうを見ると、いつの間にか眼鏡を掛けなおして、カルテに何かを書き込んでいる。気になってカルテを覗き込んでみると、汚い字なので何を書いているのかよくわからないけど、漢字で記憶障害と書いているのだけは目に入ってきた。
「これを持って松原(まつばら)という先生を訪ねなさい。彼女はこの時間中、精神科で担当医をしていると思うから」
 そう言うと、先生はカルテを俺に渡してくる。
「わかりました。早速行ってみることにします」
 俺はお礼を言うとすぐに立ち上がった。ここで先生と話していても、問題が解決しないので、松原という先生のところに行ったほうがよさそうだと考えた。
「あ、鳴海くん」
 先生が俺を呼び止める。
「彼女が頼ることができるのは、鳴海くん、あなただけなのよ。今はもう涼宮(すずみや)さんはいないんだから、ここであなたがしっかりしていないと彼女のほうが辛い思いをすることになるのよ。そのことだけは忘れないで頂戴」
 先生は、釘を指すように鋭い目つきを俺に向けている。
「わかりました」
「一日も早く、彼女の記憶が戻ることを影ながら祈っているから。それでは、お大事に」
 俺は、香月医師に別れを告げて、精神科に向かうことにした。

「私のほうでもいろいろと調べてみましたが、速瀬(はやせ)さんの記憶喪失は精神的なものから来ている可能性が高いです。だから、忘れらない物とか、写真とか、ビデオとか、記憶を取り戻すヒントになるような物を見せれば、思い出せる確立は高くなります」
「そうですか」
「でも、くれぐれも無理に思い出させるようなことをしたり、辛い記憶を思い出させるようなことはしないでください。記憶障害というのは徐々に思い出させていくのが一番効果的ですから」
 松原という先生は、そう言うと俺が持ってきたカルテに何かを書き込んでいた。
「忘れられない物……か」
 家に帰れば、いろいろとあるとは思うが、今まで水月の私物には手をつけたことがない。
 だから、そういうものを見せるとなると、本人のプライバシーに触れることになってしまうけど、これも彼女のためだと自分に言い聞かせることにしていた。
「他にも、あなたが彼女の彼氏であるというのであれば、あなたという存在も記憶を取り戻すヒントになると思います。帰り際に彼女に話しかけてみるのもいいかもしれないですね」
 先生はそう言っても、俺はさっき水月が見せたあの怯えた表情が忘れられなかった。
『いや……来ないで……お願いだから来ないで……』
 頭の中に、何度もさっきの水月のセリフがこだましている。
 行ったところで、水月は俺のことを確実に思い出してくれるとは限らない。
 だからといって、水月のあの怯えた表情だけはもう二度と見たくなかった。
「先生、俺、一度家に帰って、何か記憶を取り戻すものを探してからまた来ようと思います。彼女の着替えとかも持っていかないといけないですし」
「そう……」
 先生はそれ以上は何も言わなかった。
 俺は、とりあえず家に帰る前に水月の病室に行って、彼女の様子を見ておくことを考えた。

 俺は、水月に見つからないように彼女がいる病室のほうへと近づいてみることにした。
 病室の中にいる水月は、窓のほうを向いてそこから見える景色だけをずっと眺めている。
 そこから見える夕暮れが、水月の顔を淡く照らしていた。
 水月は今どういう思いで、この風景を眺めているのだろう。
 彼女の印象的な髪は、腰のあたりまで伸びて、まるで高校の頃の面影を俺に思い出させてくれる。
 でも、活発なことを思わせる大きな瞳には覇気がなく、見ているこっちのほうが辛くなってきた。
「ごめん、水月……」
 水月に話しかける勇気がなかった俺は、静かにそうつぶやいて、病院を後にすることにした。

 家に帰ると俺は部屋中を見回してみた。
 家具の上には、数え切れない程のトロフィーが飾られ、壁には額縁の中に入った賞状がいくつもかけられている。
 そのほとんどは、水月が小、中、高の頃に水泳の大会で獲得したものだった。
 でも、そんな物を持っていったところで、何もならないのはわかっている。
 こんな重い物を持っていくよりも、水月がすぐに見て思い出せるようなものでないと……
 押入れを開けると、水月が高校の頃に使っていたスポーツバッグが目に入るが、中には何も入っていなかった。
 日記帳のようなものがあれば、記憶を取り戻す上でいい手がかりになるかもしれないけど、大雑把な性格の彼女がそんなことをしているようには思えない。
 実際に彼女がいつも使っている机の引き出しを開けてみたけど、日記を書いているようなノートのようなものもなければ、手がかりになるようなものはなかった。
 ふと、本棚のほうに視線を移すと、一冊のファイル状の物が目に入る。
「アルバムか……」
 もしかしたら、この中に水月の記憶を取り戻す手がかりがあるかもしれない。
 急いでアルバムを取り出し、中身をめくり始めた。
 最初のページには、高校の頃の競泳水着を着た水月の写真があった。今とは外見も少し幼く、瞳も輝いている。
 あの頃は、オリンピック団体からもスカウトが来て、将来を約束されたも同然だった水月。
 でも、(はるか)が……俺の元カノだった遙の事故が全てを変えてしまった。あれから、落ち込んだ俺を水月はずっと支え続けて、現在まで至っている。だから俺は、奇跡的に事故から生還した遙よりも、水月のほうに自然とひかれていくようになっていた。
 あれから二年、水月もオリンピック選手の道を捨てて、俺と一緒に生きる道を選んでくれた。遙と別れたことについてはもう後悔していないし、これが正しい選択だったと今でも思っている。だから、今は水月のために何でもやっていこうと思えてくるのかもしれない。
 そう思いながらアルバムをめくっていると、一枚の写真が目に止まった。
 これは忘れもしない八月十五日に、遙と水月、そして親友の慎二(しんじ)と四人で映した高校の頃の写真。
 その日は夏祭りだったのに、俺が約束をすっぽかしたせいで、仲たがいがあったけど、なんとか分かり合えて友情が深まったから、遙が仲間記念日と言っていたあの写真。
 この写真だったら、水月は思い出してくれるかもしれない。
 あと、いろいろとアルバムを見て、水泳の表彰をしている写真やタンスの中から彼女の着替えを何着か持ってきて、自分のバッグに入れる。
 これで明日、水月が思い出してくれるか不安だったのだが、俺はこの仲間記念日の写真に賭けてみることにした。
 その日の夕食は適当にカップラーメンを食べて、久しぶりに水月のいない寂しい夜を過ごしていた。

 翌日、勤めていた会社に当日と明日の分の有給の連絡を入れる。
 今が忙しい時期でなくて本当によかった。
 俺は、昨日見つけた水月の記憶の手がかりになりそうなアイテムと着替えを入れたバッグを持って、病院に行くことにした。
 そこで看護婦さんにお見舞いに来たことを告げると、すぐに病室を案内してくれた。
 遙が事故のお見舞いに来たときは、必ず先生に知らせてからじゃないといけなかったのに、それと比べると偉い違いである。
 でも、病室に一歩ずつ進むに連れて、昨日の水月のセリフを思い出してしまう。
 俺が行ってもいいのだろうか。
 昨日は水月のために一生懸命部屋中を探したのに、今はそのせいで変な緊張をしてしまう。
『彼女が頼ることができるのは、鳴海くん、あなただけなのよ。今はもう涼宮さんはいないんだから、ここであなたがしっかりしていないと彼女のほうが辛い思いをすることになるのよ。そのことだけは忘れないで頂戴』
 昨日、先生に言われた言葉が頭の中にふっと思い浮かんでくる。
 確かに俺がしっかりしないと、水月が辛くなるんだよな。水月が帰る家は俺の家でもあるんだから……
 水月に会う決心を改めてしたとき、目の前に水月が入院している病室が見えてきた。
 このドアを開けた先に水月がいる……
 緊張する胸を必死で押し殺して、俺はドアを開けて中に入った。
「アハハハハハッ!」
 水月は、テレビのバラエティー番組「パクっていいとも!」を見て、笑っていた。
 昨日とは明らかに違う表情だったことに驚いた。こうして見ていると、普段の水月と変わらないから、もしかして記憶が戻ったんじゃないかとも思ってしまう。
 水月はテレビに夢中で、俺が入ってきたことに全く気づいていなかった。
 今、ここで話しかけて、彼女の機嫌を損なうのもまずい気がする。腕時計に目をやると、あと少しで番組のほうも終わるから、そのときに話しかけることを決意した。
 すると、テレビの画面にニュース速報のテロップが入る。
 その内容は、遙の妹の(あかね)ちゃんが水泳の女子世界大会で優勝したことを報じていた。
 そういえば、茜ちゃんって水月を目標にして水泳を頑張っていたことを思い出す。
 あれからもう会っていないけど、茜ちゃん、頑張っているんだな。
 来年は、アテネオリンピックも開かれるから、世界大会で優勝したということは、オリンピック出場は確実なのは間違いない。
 おめでとうと小声で静かに言ったときだった。
「う、ううっ! あっ!」
 水月が頭を抑えて苦しそうに呻いている。
「水月!」
 俺は慌てて水月のほうに近づいた。
「大丈夫か、水月!」
 水月は俺の姿を認めると、いきなり抱きついてきた。
「ちょ、ちょっと水月……」
「怖い……」
 水月は静かにつぶやいた。
「誰だか知らないけど、あなたの胸に触れていると心が落ち着くの……しばらく、このままでいさせて……」
「水月……」
 俺は彼女の頭痛が治まるまでのしばらくの間、水月の側に寄り添うことにしていた。


「私、昨日からすごく怖い夢を見たの。白いヘアバンドをした女の子が私を見て怒っていたり、三つ編みをした長い髪の女の子のほっぺたを叩いたり……さっきのニュース速報を見たときに、この怖い夢をなぜか思い出したと思ったら急に頭が痛くなって……」
 白いヘアバンドをした女の子とは茜ちゃんで、三つ編みをした長い髪の女の子というのは遙のことだろう。
 水月……昔のことを夢で見ているのか……
「でも、今朝あなたが夢の中に現れて助けてくれた。抱きしめられていると、今までの疲れが癒されていくような不思議な感覚を感じたから……だから、本当にいるのなら今すぐにでも会いたかった……」
「水月……」
「だから、お願い。私、自分が何者なのかを知りたいの。自分の名前もあなたが私とどういう関係なのかもわからないけど、あなたは私のことをよく知っていると思うから……」
 そうなのか、水月……
 確かに、昔のことを悪夢として見ていたのなら、昨日俺を見て怯えていたのも説明がつく。遙や茜ちゃんのように、俺も水月を恨んでいる人だと、彼女には見えたのかもしれない。
「ねぇ、私の名前、なんていうかわかる?」
 少し照れくさそうに、水月は聞いてきた。
「水月、速瀬水月だよ」
「はやせ……みつき……」
「ちょっと待ってて」
 俺は持ってきたバッグの中から、メモ帳とボールペンを取り出し、そこに「速瀬水月」と書いて、彼女に手渡した。もちろん、読みにくい漢字だったのでふりがなを入れることも忘れなかった。
「これが、私の名前……」
 少し涙ぐみながら、彼女は答えていた。自分の名前がわかったことに対する嬉し涙のように見えた。
「それから、あなたの名前は?」
 俺は、メモ帳に自分の名前を書いて、同じく彼女に手渡した。
「鳴海孝之(たかゆき)……」
 静かに彼女はつぶやいていた。
「その名前をつぶやいていると、なんか暖かい感じがする。あなた、いや、鳴海さんとは大分前から知り合っていたような、そんな気が……」
 彼女が喜んでいたことに、俺も少し笑顔を浮かべていた。
 俺のことを鳴海さんと呼んでいたのは気になったけど、それは仕方がないことである。
「あ、それから、こんな写真も持ってきたんだ」
 俺はバッグの中から写真を何枚か取り出して、その内の一枚を水月に手渡した。
 最初はあの仲間記念日と言っていた四人で取った写真である。
「これ……この笑顔で映っているのもしかして、私?」
「そう、五年前。今から高校三年の頃の俺たちだよ」
「この私の隣にいる女の子は……うっ!あっ!」
 水月は急にまた頭を抑え始めた。
「水月!」
 すると、タイミングよく松原先生と看護士さんが病室に入ってきた。そういえば、定期的にカウンセリングをやるとか言ってきたから、その時間なのだろう。
 でも、その様子を見るなり先生は、慌てながらも冷静に水月のほうへと駆け寄っていた。
「速瀬さん? 大丈夫ですか! すぐに鎮静剤の準備を!」
「はい!」
 先生は一緒に来た看護士さんに声をかけると、水月が持っている写真に目を止めた。
 そして、写真を見た後で俺のほうに視線を向きなおす。
「鳴海さん、最初に忠告しましたよね? くれぐれも無理に思い出させるようなことをしたり、辛い記憶を思い出させるようなことはしないでくださいって! 今の頭痛は、思い出したくないことを無理に思い出そうとすることによって、脳が無意識に拒否反応を起こし、記憶を無理に封じ込めようとすることで起きているんですから。記憶を思い出させようとするのはいいですが、それが辛い思い出だとそれだけ、速瀬さんに負担をかけていることになるってことを忘れないでください」
「はい」
 すごい剣幕で言ってきた先生の言葉に、俺は黙って頷くことしかできなかった。
 そして、ケースを持った先ほどの看護士が戻ってきた。
「興奮を抑えるための鎮静剤です。今はまだ無理に思い出さないほうがいいかもしれないですね」
 水月にそう言うと、先生は看護士が持ってきたケースから注射器を取り出し、アルコールの染みた脱脂綿で彼女の腕を拭いている。
 その様子を見ながら、俺はあることに気づいていた。
 さっき、水月の夢の話を聞いたばかりなのに、遙が映っている写真を見せてしまったことを……

「鳴海さん、大事な話があるの」
 水月に注射をして、彼女が眠った後、先生は俺に話しかけてきた。
「なんでしょうか?」
 さっき、先生に怒られたので、すごい気まずいことを言われるのではないかと、内心少し緊張してしまう。
「速瀬さんを早ければ明日にでも退院させようと思うのですが」
「退院ですか……」
「ええ、体調のほうは問題ないですし、昨日カウンセリングをしてみましたが、記憶のほうも日常生活をする上では特に支障はありませんでした。それに、記憶を取り戻すのでしたら病院にいるよりも、普段の生活に戻してあげたほうが、よっぽど効果的だと思います」
「そうですか……」
 そういえば、水月が入院しているそもそもの理由って、疲労が原因だし、二、三日入院すれば大丈夫だと香月先生は言っていた。
「まだ正式には決まっていませんが、後ほど行うカウンセリングと健康診断で特に問題がなければ、退院できると思います。ただし、記憶面のほうでは問題はまだ残っていますので、週に一度ほど通院してもらう必要はありますが」
「わかりました」
 俺は、これから水月と一緒に暮らせることに、安堵感と不安感を抱えながら先生の説明を聞いていた。

 翌日、水月が退院をする日。
 俺は水月を迎えに朝から、病院に行くことにした。
 いつものように病室に行くときれいに片付けられていて、水月はベッドに座っていた。
 そばには小さいバッグがひとつ。荷物は俺が昨日持ってきた、水月の着替えしか入っていない。
「孝之!」
 俺を見つけると手を振り上げて、笑顔を浮かべる水月。その姿はどこか微笑ましい。
 それに、さっき俺のことを孝之って……まさか記憶が?
「水月! おまえ、まさか……」
「ううん、まだ全然思い出せない……なんか以前そういうふうに呼んでいたような気がしたから、試しにそう呼んだだけ……」
「そうか……」
 そう簡単に戻るわけはないか……
「やっぱり、そう呼ぶのは迷惑だった? 鳴海さんとか孝之くんとかのほうがいい?」
 心配そうに俺の顔を覗き込む水月。
「いや、孝之って呼び捨てでいいよ」
 水月から変に鳴海さんなんて呼ばれるのは、少し恥ずかしいものがあるし、かなりの違和感を感じてしまう。それに、これから一緒に暮らしていくんだから、水月がいつものように俺を呼んでくれるほうが自分としても嬉しい。
「ありがとう、孝之!」
 そう言ってにっこり微笑む水月。こうして孝之って呼ばれてみると、いつもの水月にしか見えないのが不思議である。
「いよいよ退院だね」
「うん、これからどこに行くのか少し不安だけど、できるだけ昔の記憶を取り戻せるように水月、頑張るから!」
 自分のことを水月って名前で言っているのがかわいくて、だんだんと笑いがこみ上げてきてしまう。
「ハハハハハッ!」
「おかしい? 私の名前忘れないように、言ったつもりだけど……」
「いや、おかしくないけど、なんか急におかしくなっちゃって……」
 笑いながら言ったせいか、水月は少し頬をふくらませていた。
「ひどいよ、孝之! もう、自分のことを名前で呼ぶのはやめた!」
 かわいく睨み付ける水月を見て、彼女が落ち込んでいないことを知った。
 さっきまでは、自分の家に一緒に連れて行って大丈夫なのか少し心配だったのだが、この状態なら俺でも大丈夫と思えてくる。
 そんな水月を見て、俺は優しく微笑んだ。
「来たわね、鳴海さん」
 病室の中に、先生がやってきた。
「速瀬さん、今日でひとまず退院だけど状況報告のために、一週間に一回くらいの割合で通院はしてきてください」
「はい、今までお世話になりました」
 丁寧に礼儀をする水月。
「鳴海さん、速瀬さんをよろしくお願いします。もう一度念押ししますけど、くれぐれも辛いことを思い出させることは控えてください。だからあの写真を見せたり、写真に関係ある人とはできるだけ関わらないほうがいいかもしれないです」
「はい」
 昨日のことがあってから、あの写真は水月に見つからないように、俺の机の奥のほうにしまうことにした。
「あくまで記憶の件は、マイペースで行ってください。普段の日常生活をすることで、自然と思い出していくことはよくあることですので……」
「わかりました。今までお世話になりました」
 俺は、松原先生にお礼を述べた後、自宅のほうに帰ることにした。

「ここが私の家……」
 水月のほうを見ると、初めて来たかのように興味深々に部屋中を見回している。
「トロフィーとか賞状がいっぱい、どうしたの、これ?」
「これか、全部おまえのだよ。高校の頃、水月は水泳部でオリンピックにもスカウトが来るほどの腕前だったんだ」
「私が……そうなんだ……」
 水月は、照れているのか顔が少し赤い。
 水泳の話は頭痛が起きていない……ということは、この話は記憶を取り戻す手がかりになるかもしれない。
「でも、かなり部屋が汚いわね!」
 辺りを見回すと確かにほこりがたまっていたり、カップラーメンの容器や空のペットボトルとかが散乱している。今まで掃除といえば水月がやってくれていたから、面倒くさがりの俺はそんなことなど気にも止めていなかった。
「おまけに、ゴミ箱の中は満杯……なんで捨てに行かないのよ!」
 さっきまでの興味津々な表情から、今度はジト目で俺を睨み付けてくる。
「しょうがないわね。孝之、今から掃除しよう。こんな汚い部屋じゃ、記憶を思い出す前に気分が悪くなっちゃう!」
 そう言うと、水月は散らかったカップラーメンの容器を持って台所に向かっていた。
「孝之、ポリ袋どこにあるの?」
 水月はひとまず空の容器を流しに置き、キッチンの引き出しを手当たり次第に開けている。
「ポリ袋か……そういえば切らしていたって、水月が言ってそのままになっていたような」
「もう、何やってるのよ!」
 水月は小姑のような態度で、怒りを俺にぶつけている。
 以前は、そんな態度は見せていなかったのに、もしかして、水月の本性ってこんな口うるさい性格なんじゃ……
「ところで、飯どうする? どこかで食べていくか?」
「そうだね。ついでに、必要なもの買っていく必要もあるし」
 水月は、俺に視線を向けながら呆れた表情を見せていた。
 俺がしっかりしないといけないのに、水月に呆れられていては、この先が思いやられそうな気がしていた。

 近くのファミレス、通称すかいてんぷるで適当に昼食を澄まし、近くのスーパーまで買い物に出かけることにした。
 そういえば、二人で出かけることなんて最近なかったので、懐かしい感じがある。
 近くからは、蝉の鳴き声が聞こえている。
 でも、さっきから続いている坂道を歩くだけで、体から汗が噴き出してくるくらいに暑い。
 麦わら帽子をかぶった水月は、疲れた様子も見せなければ、汗が出ている気配もない。
 水泳で鍛えた体は伊達ではないということか……
「なんか見覚えがある高校……」
 ふと、水月がつぶやいたので、近くを見ると白稜柊(はくりょうひいらぎ)高校というのが見えた。
 白稜柊高校、俺と水月が卒業した高校だ。
 そうか、なんか懐かしいと思ったのは、水月と歩いているだけではなかったんだな。
 いつの間にか、こんなところまで来ていたらしい。
 高校では、一年中使える温水プールがある。なんでも、水月が水泳部で活躍したので、学校側が特別に作ることにしたらしい。でも、皮肉なことにプールが完成する前に水月が卒業してしまったのだが。
 そのプールには、人影のようなものがいくつか見えている。恐らく、水月の後輩に当たる水泳部の部員達が練習をしているのだろう。
「そうだ、水月、あそこに行こう」
「あそこ?」
「俺たちが高校の頃、いつもいたところだよ」
 俺は水月の手を取って、走り出していた。

「わっ! すごい眺め!」
 かなり高い位置にある丘なので、頂上から見下ろすとこの町の風景を一望できる。
 そういえば高校の頃、授業をさぼってはこの学校の裏にある丘に登って、昼寝をしていたことを思い出していた。
 水月は、子供のように無邪気に景色を眺めては、はしゃぎ回っている。
 俺はその様子を見つめながら、笑顔を浮かべていた。
「あれ? 孝之じゃないか」
 後ろから声がしたので、振り返るとそこには、スーツを腕にかけたワイシャツ姿の男が立っていた。
「慎二!」
 慎二は少し息を切らしながら、俺たちがいる頂上にまで登ってきていた。
「あれ、速瀬も一緒なのか? 珍しいな。そういえば、今って夏休みの時期だからな、二人してデートか?」
 慎二は意地悪く、俺に向かって問いかけた。
「孝之、この人は?」
 慎二が来たことに、水月は少し緊張しているように見えた。
「俺の高校の頃の悪友、(たいら)慎二、通称デブ獣だよ。おまえとも親しく付き合っていた奴だ」
 慎二には聞こえないように、小声で水月に話した。
「久しぶりね、デブ獣くん、元気だった?」
「はぁ? 速瀬、おまえいきなり何を言っているんだよ」
 水月、いきなり天然ボケをかますとは……
 でも、さっきまで緊張していたのに、何事もなかったかのように演じているのは、すごい進歩である。
「孝之〜! おまえ、もしかして、余計なことを速瀬に吹き込んだんじゃないよな?」
 慎二が恨めしそうに俺のことを睨んでいる。
「いいじゃないかよ。デブ獣!」
「だから、その名前で呼ぶの、やめろって言ってるだろ!」
 デブ獣とは、デブ専門の獣っ娘マニアの略である。高校の頃、何が原因だったのかは忘れたのだが、慎二が「思春期」っていうあだ名をつけられたことに対抗して、俺がお返しにつけたあだ名である。
「あっ、こいつのせいで、危うく忘れるところだった。実は、この後、おまえの家に行く予定だったんだよ」
「俺の? 何しに行く気だったんだよ。ゲームでも借りに行くのか?」
「おまえじゃねえよ。実は速瀬のほうに用があったんだよ」
「水月に?」
 慎二は何かを思い出したかのように、バッグから一枚の紙を取り出し、水月に渡した。
「ボランティア?」
「ああ、さっき、取引先の人と打ち合わせをしたときに、水泳がうまい人がいないか尋ねられてな。なんでも、小学生に水泳を教える先生というのが、その人の奥さんなんだけど急病で入院することになったから、代わりがいないかって言われてしまって」
 俺も、水月の側に行って、その紙に目を落とした。
 そこには、施設の小学生のボランティアとして、水泳を通じて交流を図るといった内容のものが書かれていた。
「速瀬だったら子供好きだし、引き受けてくれるって思って、すぐにOKを出したよ」
「なんだって!」
 俺は無意識に大声を出していた。
「なんで、おまえが驚くんだよ?」
 水月はまだ記憶が戻っていないのに、水泳を教えることなんかまだ無理かもしれない。
「わ、私……」
 水月は、困った様子で俺のほうを見ている。
「ボランティアだから、そんなに緊張するものじゃないって。ほら、その紙にも書いてるだろ。水泳を通じて交流を図るものだって。だから、自分が楽しむつもりで行けばいいんだよ。なんなら、孝之も一緒に連れて行ってもいいし」
 俺は、どうするべきか迷っていた。
 確かに、水泳のことで頭痛が起きないのなら、このボランティアをさせてみれば、記憶が戻る確立はかなり高くなる。
 それに、さっき紙を見たときに、日付が毎週日曜日と書かれていたので、時間的にも大丈夫である。
 でも、水月がやって大丈夫なんだろうか。泳いでいた記憶があるのかどうかもわからないから、今の時点で決めるのはかなり難しい。
 まずは、先生に電話してから決めるのが懸命な選択だろう。
「少し、時間をくれないか?」
 俺は静かに話を切り出した。
「だから、なんでおまえが答えているんだよ? まあ、いいけどさ。断るんだったら、そこの紙に書いてある電話番号のほうに連絡してくれ」
「わかった」
「じゃ、俺そろそろ行くわ。さっき報告書作りっぱなしだったことを思い出したから、早く帰らないと残業になってしまうからな」
「おう、仕事頑張れよ」
 黙って去っていく慎二を背に、水月のほうは複雑な表情を浮かべているのが気になった。

 あの後、夕食を買出しに行って、部屋を掃除すると辺りは既に夕方になっていた。
 電話で先生にボランティアのことを話すと、思い出したくない出来事がなければ大丈夫だし、記憶に関係することは何でも積極的にやらせたほうがいいと言っていた。
 目の前には、水月が作った肉じゃがが盛り付けられている。
 料理のほうも覚えているのかわからなかったので、最初はやめさせようとしたのだが、水月が家の本棚から料理の本を出してきて、それを見ながら作っているのを見て、止める気が起こらなかった。
 記憶に関係することは積極的にやらせたほうがいいという先生の言葉を思い出したからである。
 もしかしたら、それが記憶を取り戻すきっかけになるのかもしれない。
 そう思いながら、俺は水月が作る夕食を待っていたのだった。
「今ね、料理を作ってみたけど、なんというかかなり変な感覚がしたのよね。ここは、砂糖を入れるべきだとか、なんかそういう気がして、砂糖を多めに入れてしまったけど、なぜか失敗してしまったっていう気がしないのよね」
 つまり、記憶にはなくても体の感覚は覚えているということだろう。
 俺は、はしを取り出し、牛肉をひとつ口に入れてみた。
「どう?」
 心配そうに水月が聞いている。
「おいしい」
「本当?」
 急に水月の表情が明るくなる。
「というより、これ、水月がいつも作っている肉じゃがの味だよ」
 間違いなく、これは甘めのほうがいい俺の好みに合わせて作った肉じゃがである。
 記憶がないのに、ここまでできるなんてかなり不思議な気分だった。
 でも、ちょっと待てよ……だったら……
「水月、俺はボランティアの件、行ったほうがいいと思う……」
 俺はしばらく考えた後、静かに水月に切り出すことにした。
「どうして?」
「この肉じゃがと一緒だよ。水月の記憶にはなくても、体の感覚のほうが覚えてるから、いつもの肉じゃがの味になったんだよ。水泳のほうもきっと同じだと思うからだよ」
 俺の話に水月は、しばらく無言だった。
 夕食を食べるときに出す食器の音が、部屋に鳴り響いている。
「孝之が一緒に行ってくれるんだったら、私行くよ」
静かに言ってきた水月に、俺は笑顔で頷いていた。

 そして、日曜日。
 俺たちは、朝から隣町の小学校にやってきていた。
 施設では、夏休みの間中は、小学校のプールを借り切って、子供たちに水泳を教えたりするらしい。
 俺の他にも大人の女性が何人かいたのだが、教えるといっても、俺から見たらただ子供たちと遊んでいるようにしか見えない。
 俺は、プールサイドで三角座りをしながら、その光景を眺めていた。
「孝之!」
 水月が俺の近くにまで寄ってきた。
 他の大人の女性たちは、ビキニとかの普通な水着でいるのに対し、彼女は競泳用の水着を着ていた。
 まるで、高校の頃の水月がその場にいるような錯覚を感じてしまう。
「孝之は泳がないの?」
 ストレッチ運動をしながら、半ば笑顔で水月は俺に話しかけてきた。
「ああ、俺は冷たいのが苦手だからな。ここで、しばらく見ておくよ」
「そう、なんか今なら泳げるような気がするから、少し泳いでくるね」
 そう言うと、水月はプールサイドの飛び込み台のほうに向かって歩いていく。
 水月、まさか……
 プールサイドに立った彼女は、しばらくすると勢いよくジャンプ台から飛び込んだ。
 そして、飛び込む音が聞こえると同時に、近くにいた子供の何人かに水しぶきがかかる。
 水月はしばらく沈んだ後、浮かび上がったかと思うとクロールで泳ぎ始めた。
 かなり、速い。
 水しぶきがかかった子供たちも、呆然とした様子で水月の泳ぎっぷりを見ている。
 ターンをする頃には、その場にいた人全員が、水月に注目していた。
 やっぱり、水泳も水月の体が覚えていたんだな。
 そう思いながら、水月を見ていると、いつの間にか五十メートルを泳ぎきっていた。
 そして、周囲の子供たちから拍手が上がり、水月は少し照れながらその声援に答えていた。
「お姉ちゃん、すげぇ」
「僕にさっきの泳ぎ方を教えて」
「俺が先だよ! おまえは後!」
「なんでだよ! 先に言ったのは僕だぞ!」
 あっという間に、水月は小学生に囲まれて、みんなからの注目の的になっていた。
「あ〜ほらほら、けんかしないで。一人ずつ教えてあげるから」
 水月もこの状況を楽しみながら、子供たちに接しているように見えるので、連れてきてよかったと内心思っていた。
 すると、急に体中に冷たさを感じていた。どうやら、大量の水をかけられたらしい。
 前のほうを見ると、小学生の何人かが大きい桶を持って、俺を指さしながら笑っていた。
「こいつの反撃が来る前にやり返せ!」
 そう言って、俺に何度も水をかけてくる小学生たち。
 このクソガキ……
 俺は怒って、プールの中に入った。
「わっ、バカが怒ったぞ。全員遠くに逃げろ!」
「誰が、バカだ!」
 プールの中に一目散に散っていくクソガキ共を俺は追いかけていた。
 でも、泳ぎ慣れていないせいで、追いつくことさえできない。
「そうそうそうやって……きゃっ!」
 クソガキを追いかけていると、子供たちを教えていた水月とぶつかってしまう。
「ご、ごめん、水月」
「孝之、あんた冷たい水が嫌だからって、見てたんじゃなかったの?」
「いや、あのクソガキを追いかけていたら……」
「子供相手にムキにならないでよね」
 呆れ顔で言う水月に、俺はその場に立ち尽くすことしかできなかった。

「楽しかったね」
「そうだね」
 家へと帰る道で、俺と水月は一緒に歩いていた。
「今日参加して、人に泳ぎを教えるのって楽しいって思ったよ。昔、後輩にいろいろと教えたみたいにね」
 え? 後輩って……
「もしかして、水月……記憶が……」
「うん、五十メートルを泳いでいるときにね」
 水月……
「泳いだ記憶がね、きっと今までの分を思い出すことができたんだと思うよ」
 俺は、たまらず水月を抱きしめた。
「水月!」
「ちょ、ちょっと、どうしたのよ。孝之!」
 水月は、少し困った様子で俺を見つめている。
「おかえり、水月」
「ただいま、孝之……」
 水月は静かにそうつぶやいた。

 それから、一ヵ月後。
 記憶が戻ったということで、病院に行く必要もなくなり、水月は以前と変わらない今までの生活を送るようになっていた。
 でも、違っていたことがひとつ。
 あのボランティアの件以来、水月は水泳のインストラクターとして働くようになった。
 自分の水泳の技術を小学生に教えることが、楽しくてしょうがないらしい。
「将来は、私が教えた子をオリンピックに出場させて、金メダルを取らせることよ」
 家に帰ると、水月は決まってこの言葉を口にしていた。
 そう笑顔で言う水月を見ていると、高校のとき以来忘れていた水月の輝きを見ているような気がした。
「頑張れよ、水月」
 優しく微笑んで俺は水月を応援しようと思っていた。

―「泳いだ記憶」 終―



あとがき
この話は、よく他の方の水月エンド後のSSを見ると水月が水泳のインストラクターをやっているのが
多くあったので、それをすることになったきっかけのようなものを作ろうと思ったのが、この作品です。

聖誕祭だから、誕生日ネタをやりたかったのですが、今回のはちょっと無理っぽいです。

デブ獣の本当の意味は、別にあったりしますけど違う意味にしてみましたが。
急いで書いたので、わけがわからない話になっているかもしれません。
感想がありましたら、書いて頂ければ嬉しい限りです。



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