陶器山よもやま話 
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< 陶器山を歩く(上) >
(「都市と自然」447号ー2013年6月号)

   130101 金剛山の日の出  140226 葛城山の日の出  130924 二上山遠望 
  陶器山は奇跡の山である。
   高度成長期、時代の要請で進められた泉北ニュータウンの開発時に、
   堺市側の60m巾がグリーンベルトで残された天佑。
   全市が市街化区域の大阪狭山市で昨年下今熊地区13Haの
   逆線引きの合意が成立した天佑。
 
     天佑が重なって残された50Haの陶器山丘陵は小なりと言えど今、
   年間200トンの二酸化炭素削減効果ありとされ、
   92科292種の植生(内帰化植物5%)、80種の鳥類、400種のキノコ
   が観察されるささやかながらも豊かな環境を示している。
   (「大阪狭山市生息状況等基礎調査(植生調査)報告書」 2004年)
    陶器山より西側は1600年昔より500年間、泉北古窯群を成し、
   時代の要請に応えて全国に須恵器を供給していた。
   山が裸になり河内泉州で薪争いをした歴史があるほど焼いた。
   (「日本三代実録」貞観元年三月条) 

   陶器山は狭山池堤と共にその泉北古窯群の東限を成す。
   因みに泉北ニュータウン造成に先立ち2000数百基の窯跡が調査され、
   世界に冠たる日本の土器編年が確立した。
   (泉ヶ丘駅近くにある泉北考古資料館にその成果が展示されている。要一見。)

    2007年に岩室から西山霊園まで遊歩道整備された尾根道をあまの街道と称し、
   早朝から老若男女が行き交う健康街道になる。
   頼まれもしないのに毎朝掃除をする人、徒長枝を切り、下草を払い、
   歩きながらゴミを拾う人。2.5kmの街道には昨日以前のゴミはない。
   ローマは一日にしてならず。街道はウオーカーのさり気ない気遣いで
   維持されるチョイボラ街道でもある。
    岩湧山、金剛山、葛城山、二上山、信貴山、生駒山と
   低く、高く途切れずに50数キロメートルに渡って大阪平野を囲繞する
   ダイヤモンドトレイルを東に眺めながら歩く。

   街道は日本書紀前後の古代史を木の間越に遠望しながら歩く歴史街道になる。
   冬、太陽は1125メートルのピークを誇る金剛山の肩から上がる。
   そこから一旦水越峠に切れ落ちて再び迫り上がるのは葛城山である。
  
   鯨のような背の向こうに雄略天皇の代まで9人の后妃を輩出した
   葛城氏が勢力を張っていた。
   葛城山からなだらかな傾斜を以て山並みは双耳峯の二上山に繋がる。
   春秋の彼岸に太陽は、葛城山とこの二上山の中間点から光を放つ。
   壬申の乱であえなく果てた大津皇子の墓がある二上山と信貴山の中間点から
   夏至の太陽は強烈な光を放つ。
   酷寒酷暑の時を含め山は年中ウオーカーで賑わう。
   クヌギ、コナラ、アベマキなどの落葉樹が春先から芽吹き始め、
   夏に向かってグリーンシャワー、緑のトンネルが形成され、
   冷気が忍び寄ると紅葉のルミナリエ。
   全てをそぎ落とした冬枯れの風格。時に白きを纏うや冬ソナの世界。
   半世紀前まで里山として活用された山は、今も多様な感動を人に与えている。

     四季折々の山の色の変化につれ、訪れる鳥たちも多様である。
   人を畏れないシロハラが枯れ葉を跳ね飛ばしながら夢中で食餌。
   ツグミ、ジョウビタキ、エナガ、アオジが春分前後まで街道筋を飛び交い、
   暖気と共に山はウグイス一色になる。
   思いついたようにカラスが次々に営巣準備を始めるとヤマザクラ、
   コバノミツバツツジが霞のように山を彩る。
   (消えたムラサキフウセンダケとオオオニテングダケ ↓)

      < 木漏れ日のぬくさいとおし陶器山 >
   開発の波に抗する術もなく細る森林域に
鳶や雉など大型の鳥類が姿を消して久しい。
   野生の生き物が生きられない自然は
人間にも生きにくくなっていくのは摂理であるが、
   僅かな命脈を保つ稀少種たちの為にも祈りたい。
   < この自然、せめてこのまま次の代に >
   歴史、理科、社会、一万歩の体育の学習が終わると
   帰路はどの顔も等しく幸せ色になっている。
         あまの街道と陶器山の自然を守る会