< 120321 更新中 >
1.旧石器〜縄文時代
大阪狭山市と堺市を分けて南北に走る陶器山丘陵は,
東に走る羽曳野丘陵との間の狭い微高地に形成された大阪狭山市を懐に懐く形で延びています。
文献資料のないこの時代について、頼りになるのは」発掘調査です。
泉北ニュータウン造成に先立つ発掘調査から下記の詳しい状況が知られます。
< 「陶器遺跡・陶器千塚・陶器南遺跡」
府営集落基盤整備事業「陶器北地区」に伴なう発掘調査 >
(大阪府教育委員会 2007年)
周辺遺跡に、この時期の住居遺構は確認されていません。(p.10)
散発的に二上山のサヌカイト製のナイフ型石器、石槍、石鏃(写真左と中央)が出土しており
このことから、この辺り(写真右))は旧石器人、縄文人の狩場であったことが知られます。
(画像をクリックすると拡大します)
サヌカイトとは四国の讃岐や二上山産出の堅い石で
石器時代には、黒曜石と同様地域を越えて、広く流通、使用されていた。
明治政府に招聘されたナウマン博士がドイツに持ち帰ったのが
讃岐石だったことからサヌカイトと命名されたが、
二上山石だっだら・・・・
2.弥生時代
同書によると、陶器村出土の流水紋銅鐸(写真左)と弥生小型倣製鏡(写真右)が知られており、
京都大学の富岡健蔵氏の収集資料に含まれ、大学の講義に紹介されていました。
大正9年に梅原末治氏編集の「古鏡の研究」に拓本が掲載されていますが、
現在は所在が不明だとのことです。
5世紀後半以降、陶邑窯と陶工集落、それに関連する古墳群が丘陵ごとに見られ
しかも5世紀後半〜9世紀まで連綿と操業が続いていたことが判明しています。
陶器山を「とうきやま」と呼んでいますが、本来は「すえきやま」だろうと、これからも分かります。
3.古墳時代〜
現在の泉北地区は陶邑古窯群を形成して多くの須恵器窯が営まれ,
全国の古墳に須恵器を供給していました。
泉北古窯群のなかで陶器遺跡、陶器千塚遺跡、陶器南遺跡を含む陶邑窯跡群陶器山地区に
大阪狭山市の岩室、山本なども含まれます。
陶器山と狭山池堤に出土した窯跡は泉北古窯群の東限に位置します。
2011年1月末に陶器山の今熊1丁目(第三小学校の西方)のあまの街道沿いに出土した
陶器山二号窯跡は堺市側から掘られた登り窯の先端2m部分でした。
30〜40年前、泉北ニュータウン造成工事が始まり、600基以上の窯が発掘調査され
一ヶ月単位の先後関係が分かるという世界に冠たる日本の土器編年が確立しました。
< 森 浩一「和泉・河内窯の須恵器編年」世界陶磁全集 河出書房新社1958年 >
< 中村 浩「和泉陶器邑出土遺物の時期編年」陶邑III 大阪教育委員会1978年 >
< 田辺昭三「須恵器大成」角川文庫1981年 >
須恵器と土器編年については下記をご参照下さい。
<「泉北丘陵に広がる須恵器窯 陶邑遺跡群」>
(中村 浩 新泉社 2006年)
(写真をクリックすると拡大します。)
古墳時代後半(5世紀半ば)に朝鮮半島から伝播した新しい製陶技術で作られた焼き物を須恵器と言います。
800度くらいで焼かれた従来の縄文式土器、弥生式土器(土師器)と異なり
還元焔焼成という窯を必要とする方法で、1100度前後の高温で焼かれた陶質土器を言います。
日本(倭国)で最初に本格的に生産が開始されたのが泉北丘陵で、
時期的には5世紀後半から10世紀半ばまで、途切れず連綿と生産された事から、
この時代の年代を測る基準として、陶邑出土の須恵器の編年が有効となりました。
その中でも、蓋と杯身の構成の合子状の器種(写真中央)は、須恵器登場以来その消滅まで存在しました。
形状、特徴からその器種の時期的変化が読み取られる事から、
蓋杯(中央の写真)というその器種は須恵器編年の基準に据えられています。
遺跡群の区分として、丘陵、尾根、谷という自然地形によって下記の6地区に分けられています。
陶器山(略号MT)、高蔵寺(同TK), 栂(同TG), 大野池(同ON), 光明池(同KM), 谷山池(同TN)です(写真左)。
陶器山地区には窯体、灰原の確認によって確実に窯跡であることが判明しているものが87基、
窯壁、須恵器の散布があり窯跡の可能性が指摘されたものが27基、
合計114基の窯跡が所在していたと考えられます。
このうち時期が明らかなものは75基、その内、複数の時期にわたるものが12基、
それぞれを一基とすると合計87基となります。(写真右)
内訳は、5世紀の窯跡(右端の写真)が11基、6世紀が38基、7世紀が12基、8世紀が15基、9世紀以降が11基。
大半は登り窯ですが、丘陵斜面を水平にくりぬいた平窯構造のものが4基確認されています。
発掘調査されたのは47基でほかの40基は本格調査を経ない段階で破壊されました。
丘陵部は窯跡の他の遺構は検出されておらず、生産者の居住地域は大阪狭山市側の西側地域、
さらに北部地域に求められます。
陶器山地域には、陶器千塚古墳群や、陶器南遺跡などが所在しており、
須恵器生産者との関連が注目されています。
2005年3月18日の文化審議会文化財部会で国宝、重要文化財指定を文部科学大臣に答申しましたが
「考古資料」の中に「大阪府陶邑窯跡群出土品」(須恵器2,572点、窯道具類3点、瓦類10点)がありました。
完全品だけでなく、欠片、破片の石膏復元品を含む2,600点近くが一括指定された事の重要性に注目。
4.狭山池の築造
羽曳野丘陵、陶器山丘陵地からのささやかな水を集めて7世紀初頭、戸数50戸ほどの郷に
狭山池が築かれました。
( 次回は日本の歴史の中で、「陶器」「陶邑」と言う地名がいつ頃から出現したかを探してみたいと思います。 )
陶器山はその多くの窯の燃料供給地として500年に亘りクヌギやアラカシが伐り出され
和泉河内で薪争いをしたという歴史もあります。
「陶器山のニュース」111025 の記事を下記に転記します。
< 111025 陶器山の薪争いについて >
10月22日に陶器山全体の自然公園化を提案した記事の中で
「泉州・河内の薪争い・・・」に触れました。
古いことをいい加減に書いているのでは、と言う声に押されて調べました。
近くは「狭山市史」II p.73,74(門脇禎二監修)、
チョット古くは「狭山町史」p.89〜91(末永雅雄監修)、
もっと古くは「日本三代実録」(新訂増補国史大系)が両書の原典です。
「貞観元年三月条
四日庚申遣左衛門少尉正六位下紀朝臣今影右衛門大志
従六位上桜井田部連貞雄麻呂於河内・和泉両国弁決陶山之争
貞観元年四月条
廿一日丙午・・・・河内・和泉両国相争焼陶伐薪之山
依朝使左衛門少尉紀今影等勘定為和泉国之地」
つまり, 859年3月4日に和泉・河内で陶器山の薪争いの訴訟が持ち上がり
正六位と従六位の政府高官が派遣され、4月21日に陶器を焼くための薪を伐採する陶器山が
和泉の国の地だと裁定された、とあります。
古墳時代には全国に須恵器を供給し、下っては調(税金)として土器を納めておりました。
盛んな土器生産のために陶器山地域で薪材が減少して起きた現象で
両国の国司の調停でも収まらず、中央政府から武官が派遣されるほど激しい争いだった・・・・
何時の時代も、庶民は逃れるより、責務を果たすことに懸命になるんですね〜
古墳時代が終わり、燃料供給地としての役目を終えた陶器山は
西高野街道から今熊で分かれる尾根道が
女人高野と言われる天野山金剛寺までの参詣道として使われ
天野街道と言う重要な街道でもありましたが
今は里山としての静かな佇まいを見せています。
5.現代
今熊から西山霊園までの3.5kmの尾根道が遊歩道整備され、
平成7年には建設省から「手づくり郷土賞」を受け
親しみを込めて「あまの街道」と名付けられました。
以来、両サイドのニュータウンの住民の憩いの場として
またハイキング、ジョッギング、ウオーキングの場として
早朝から老若男女が集う場として、新しい役目を担っています。
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