陶器山よもやま話 
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< 陶器山( あまの街道 )を歩く・・・・・ >
(小さな小さな地域活性化の始まり=「丘の友」110215号より)

130114  130104    111202 
       陶器山は朝が賑わう。
朝まだきに三々五々示し合わせたようにそれぞれの近場の杣道から
標高差20メートルほどの尾根筋に上がってくる。
大阪狭山市と堺市を割ってウネウネと走る陶器山遊歩道は、
岩室観音で西高野街道から分岐する天野街道の内の3キロメートルである。

陶器山より西側は2000年昔、泉北古窯群を成し、
時代の要請に応えて全国に須恵器を供給していた。
山が裸になり、河内泉州で薪争いをした歴史があるほど焼いた。
陶器山は狭山池堤と共にその泉北古窯群の東限を成す。
因みに30数年前、泉北ニュータウン造成に先立ち
約1000基の内500基の窯跡が調査され、
世界に冠たる日本の土器編年が確された。
1年はおろか、月単位の先後関係が分かるという学問の凄さよ。
泉ヶ丘駅近くにある泉北考古資料館にその成果が展示されている。
要一見。

遊歩道は全国にばらまかれた1億円を使って整備し、
平成7年に「手づくり郷土賞」を受けた。
有志が徒長枝を切り、下草を払い、歩きながらゴミを拾う。
ローマは一日にしてならず。
陶器山はウオーカーのさり気ない気遣いで維持される。

春。西山霊園から遊歩道に上がる。
針山に林立していたような木々は徐々に、そして一斉に花開く。
狭山の春霞は今や、陶器山の代名詞である。
狭山と言っても山はなく、
谷底平野の細流を集めて造った池が市域の中央にあるだけの小さな街で、
唯一山らしい雰囲気を醸しているのが陶器山である。

毎日の早朝散歩の口コミでサクラの満開日が決まると
静かな霊園はドッと人が繰り出す。
針山の床几に毛氈を敷いて野点を始める律儀な面々。
シートを広げて弁当の開帳に及ぶ家族。
手を繋いで言葉少なく歩く若者。
満開の桜は冬の名残の寒さを忘れさせる魔力がある。

賑わいを背に歩を進める。
高い木立は道を包み込むように聳え、萌葱色の新芽が愛おしい。
< 木漏れ日の温さいとおし陶器山 >
若葉が全開に手を広げると森は深くなる。
トトロの森のような緑のトンネル。
コローの田園の一角が展開され、
ア〜,鳥たちのポリフォニー。

獣のいない陶器山は烏を頂点とする30数種の鳥たちのコロニーである。
ピピピピ,チチ、ギーギー、ホーホケキヨ、ホケキョ。
狭山訛りの囀りを破ってア〜、カー〜。
彼方此方で烏が声を掛け合って集まる。
そうか、今日は月曜日(ゴミの日)だ。
狩りに出かける一軍が翔け抜ける。
濡れ羽色の烏の飛翔も森で見ると美しい。
狭山側が疎林で開ける辺り。
ニュータウンのシルエットの向こうに
朝日を背負って延々と北に走るダイヤモンドトレイル。

先ずドッシリとした山体は金剛山。
1500年前、雄略天皇が狩りをしたという碑がある。
冬、太陽はこの金剛山から昇る。

岩湧山、金剛山、葛城山、二上山、信貴山、生駒山と低く、
高く途切れずに50数キロメートルに渡って
大阪平野を囲繞するダイヤモンドトレイルを物好きな山屋は歩く。
1125メートルのピークを誇る金剛山から一旦、
水越峠に切れ落ちて再び迫り上がるのは葛城山である。

鯨のような背の向こうに雄略天皇の代までに
9人の后妃を輩出した葛城氏が勢力を張っていた。 
そう言えば、新しいインターチェンジの工事で
見つかった秋津遺跡の発掘調査説明会がこの11月にあった。
4世紀初頭のかなり広い方形区劃の柱列と居住エリアは、
空白の4世紀の解明に繋がるか。
御所市(ごせし)という名からも
日本書紀皇統以前の実力者の版図を彷彿させ、
数年前の極楽寺ヒビキ遺跡と共に今、御所市が熱い。
葛城山からなだらかな傾斜を以て山並みは双耳峯の二上山に繋がる。

春秋の彼岸に太陽は、葛城山とこの二上山の中間点から光を放つ。
壬申の乱であえなく果てた大津皇子の墓が二上山にある。
< 我が勢子をやまとへやると小夜更けて
あかとき露に我が立ち濡れし >(大伯皇女)
斎宮の自分を伊勢まで訪ねてきた悲運の弟を
どうしてやる事も出来ず見送った姉のつらさが胸に迫る。
万葉集は歴史の断面を雄弁に解説する。
  森はいよいよ深く、鬱蒼たる緑が二上山から上がった夏の陽を遮る。

夏至の頃、太陽は二上山と信貴山の中間当たりから上がる。
トトロの太鼓腹に届かんばかりの緑のトンネルが
適度のアップダウンを繰り返す。
陶器山は夏が一番イキイキとしている。
森を通り抜ける一陣の風。
小鳥たちの飛翔。樹間を縫って差し込む光。
ホンの10数メートルしか上がっていないのに、ここは別世界である。

夏の森の主役は地響きがするほど大音声の蝉。
一週間を限りの絶唱を思いやってか、鳥たちはチチとも声を出さない。
聞こえない。
路傍で落ち穂を啄むキジバトも無言。
森も足元の草むらも夏、全ては蝉の為の世界になる。
大阪府の所有地が多い堺市側は比較的森は深いが、
私有地が殆どの大阪狭山市側は全市が市街化区域になっているため、
宅地がヒタヒタと押し寄せる。
不在地主は森が痩せようが、生態系がどうなろうが頓着しない。
鳶も雉も姿を消して久しい。
野生の生き物が生きられない自然は
人間にも生きにくくなっていくのは摂理である。

< この自然、せめてこのまま次の世に >
この祈りをどう伝えればいいのか。
街の道路が迫り上がって来る7丁目辺りでは吹き上がってくる風の冷気で、
これ以上はないと言わんばかりのハゼの赤。
秋だ。

朝陽を受けて、木々が茜色に染まる時陶器山は一番美しい。
山全体を包む光。そよ風を受けて葉ずれのささやき。
森は茜色に輝いて思わず息を呑む。
失礼ながら神戸のルミナリエも距離、豪華さ共に足元にも及ばない。

木の葉を誘って樹間を流れる風は五線譜か。
遠く近くでピッピッ、リューリュー、チチチ、ジーリジーリ、に
「こんにちは」が行き交う秋のセレナーデ。
早朝散歩の常連の多さは沿道住民の高齢者比率の高さを意味する。
名前も住まいも知らない同士、
「今日は早いですね」と声を掛け合えるゆとりは年齢故か。
山道が遊歩道に整備された功罪は「自然な山道」を失った代わりに、
金さん銀さんも手押し車をついて
早朝散歩に上がって来られるようになったことだ。

高齢者が歩くことで皆が優しくなれる。
道を譲り、声を掛け合い、茜色の木の葉が肩を撫でる。
<  金色の小さい鳥のカタチして銀杏散るなり夕日の丘に > (与謝野晶子)

夕日に舞った落ち葉を、朝陽を浴びて踏んで歩けば冬の足音になる。
冬のソナタ〜♪ 
ピッピッ、チチチ、ツイッツイッ、ピーヨピーヨ、クイックイッ。
葉を梳き落とされた木々がザワめく。
足元のカサカサカサ。ソナタと言うより交響詩。
突如ベンチサイトに出る。

子ども達が恒例の耐寒マラソンと称して集まっている。
先生方、父兄の方が多いくらい、
少子化が進んでいると言うことか。
上気した顔で「よういドン」の指令を待っている。
子ども達の間を通り抜けると、何だか気分が晴れる。
6時半に此処まで来れれば年中無休のラジオ体操に参加できる。

葉っぱを落としてスッカリ明るくなった森を行く。
三都神社辺りは流石の狭山市側もイッパシの森の佇まい。
神社はイザナギ、イザナミ、スサノウノミコトを主祭神とする。
熊野権現を勧進した往時は隆盛を誇った、
と言うことがその境内域の広さから納得できる。
身軽に明るくなった森の足元まで陽が通ってみると、
木々は意外に大木である。
高く、もっと高くと枝を伸ばし、
少しでも太陽に近づかんと、精一杯の背伸びをして見せている。

中々風格があるではないか。
林立する骨だけの木々が一様に堂々としている。
谷底まで見透かせるようになると、
ひょろりとした木々さえも
意外に頑張って伸びていたんだといとおしくなる。

次のベンチサイトまで数100メートル。
アップダウンが楽しい明るい林は青春時代に歩いた近江路の雰囲気。
「こんにちは」の声さえ微妙に弾んでくる。
5メートルほどの枯れ葉カーペットの坂道を登り切ると、
後は定番の柔軟体操をするベンチまで近い。

ここで始めて額縁のような樹間を通して堺市側が開ける。
ターナーの絵のような空が彼方の堺市に覆いかかるように拡がる。
シャープや関電が進出し堺市は潤っている。
堺市が元気になれば、海風がその熱気をここまで運んできて、
近年陶器山の温度は下がらない。
然し酷暑の夏の年は酷寒の冬とか。
アッ、雪!思わず手を広げる。
日本の自然は夏暑く、冬寒いことを前提にしている事を
今更ながらに実感する。

森を抜けて1キロメートルほどで岩室観音がある。
平安時代の秘仏が毎年8月に虫干しを兼ねて開帳される。
若い堂守夫婦が行き届いた管理をしていて、境内は気持ちが良い。
尤も早朝散歩だから、滅多に此処まではこない。
玄関を出て往復10,000歩。
体重は減らないが、体調は回復した。
  (「丘の友」110215号より 小西記)