MY HISTORY&POSITION(生い立ちと生き様)
  
 プロローグでも述べたけれど、理屈に合わないことは大嫌い。弱いものいじめはしなかったが、小さい頃から反権力だった。三つ子の魂100までというがまさにその通りだった。長いものにはまかれずぶったぎる。相手が誰であろうと正しいことは正しい訳で、相手が部長であろうが課長であろうがそんなことには一切お構いなし。NTTになって情報漏洩の現場を課長に言うと「山下さん、世の中白と黒ばかりじゃない、灰色の世界が」と言った課長がいたが、この事件では本社まで乗り込んだ。ただ事実は現認しても、形として残る証拠がないため、立証できなかった。考えてみればある人間が「あんたはデジタル人間だ」と言った。「冗談じゃないよ、俺はそんなに新しい人間じゃない、古い人間だ」というと、「いやいや、あんたは白か黒しかないだろう」と言われて、納得したことがあった。そんなだから損はしても得したことはないのだ。しかし、はなから得しようなどと考えてないのだから、そんなことは関係ない。本人は全然気にしてないが、考えてみれば因果な性分かも。そういう性分だから今度の大震災にしても、原発だけは許せない。最初から危険なことは分かりきっていることなのに。愛媛でも伊方原発はかなり危険なところにたっていて、地元のもう亡くなられた広野さんを中心に随分がんばってきたのであるが・・・・・・原発さえなければ、これほどまでにはならなかったし、自然災害は仕方ないとしても原発は明らかに人災なのだから。

肱川から望む富士山(トミスヤマ)

 生まれたのは愛媛県の南予(愛媛県は昔伊予の国だから東予、中予という風に言う)大洲市平野町(通称野田)で山下武夫と重子の長男として1948年5月4日に生まれ、悟と名付けられた。今はそんなことはないが、幼い頃はさとるのとを抜いてサル、サルと言われ、名前が好きにはなれなかった。転勤族だった父の勤めの関係で幼稚園までは松山、小学校は内子小学校に入学。3年生で道後小学校。中学2年で三津浜中学へ転校、3年で再び道後中学へと戻った。

 この頃は校区制があり、転校はしたくなかったが、越境入学を快しとしなかったので転校した。3年で道後に戻ると、週1時間のロングホーム、道徳の時間は授業はされず、テストの時間に当てられていた。「道後中学は補習もしないのに東高に○人通る」との世間の評価状況だった。大切なロングホームや道徳の授業をせず、毎朝ミニテストをやって東高に何人通るなんて可笑しい。私は猛抗議の日々だった。補習もしないのに云々は結局、それは先生が良いからだとの評価に繋がりはしないか?それよりも道徳やロングホームを、正々堂々とやって補習をやる方がフェアだ。それが私のスタンスだった。そんな訳で、受験勉強よりもこのことをきちんとさせる方が重要で、おかげで成績も伸びるどころか落ちていった。

 そうして高校受験で公立高校のすべりどめに受けた私立高校が、特待生にすると言ってきた。条件としては公立高校の受験を取りやめるということだった。そして私は2番の成績でその高校へ入学したのだが、あまりもレベルが低く、大学受験が不安だった。そして私には公立高校を受験させずに、1番だった人間には受験させていた。その男はたまたま理事長の家の近くでもあったのだが、これは明確な差別である。そうするうちに無免許免でバイクを運転して、警察に捕まり学校にばれた。担任の先生は今でも付き合いがある素晴らしい先生で、「今特待生を返上しておけば2年になればまた貰えるだろうから」ということで返上した。来てくれというから来たのに、レベルは低いし、授業料払っていくほどの学校かと登校せず、図書館で勉強する日々を送った。しかし籍はおいたままだったがそれは担任の先生を信頼していたから、ただそれだけであった。

 そうこうするうちに父が定年退職、母の故郷大洲に家を建てて引っ越すとなった。そこで編入試験を受験しようとしたが、出席日数が足りず編入できずに、受け直す羽目となったのだ。さて晴れて県立大洲高校に入学したのは良いが、この高校はまさに予備校のような学校。受験時と入学後の2回の試験結果でクラスわけをするのだが、その基準となるのは英・数・国の3科目のみだ。つまり総合点で良くとも3教科が悪ければ良くないクラスに入れられる。教育とは格差を是正してこそ教育だ思うが、この高校はそうではない。1番良いといわれるクラスは35人、次のクラスは40人、それ以外は50人で格差は開く一方。しかも35人と40人のクラスは音楽とか情操教育はなし。そこでまた血は燃え滾ったのだ。私立ならいざ知らず、公立高校でこのようなことが許されといいのか?それが頭から離れることはなかった。中学・高校と本来しければならない勉学よりも、このことの方が重要だったのである。

 おかげで大学は諦めて電電公社に入社。西条電報電話局に配属されたけれど、そのころは大学への夢は諦めてはいなかった。が、20歳の頃聞いたテイクファイブがジャズ、いわゆるモダンジャズへとのめり込んで行く引き金だった。当時の電電公社には電報配達で採用された者には配転協約があっって、3年で転勤した。その時、家のある大洲ではなくて、松山を選んだ。それはすべてジャズを聴くためだけだった。「モダンジャズの洗礼」のところでも触れたが、この職場がいわばタコ部屋。勤務時間は8時30分からなのにお前ら新米だから8時に出てきて掃除しろ」とか、ただ働きを強要した。時間外労働をするにはそれなりの手続がいる。しかし春闘の時などは時間外拒否で労働協約を締結してない。だが現場で故障だけど時間だからという訳にはいかない。時間外拒否がとけたら実績でつけるからと仕事をさせておきながら1時間もつけなかった。このことから労働運動へと足を踏み込んだのだ。

    青年運動を始める
                           
 当時の組合全国電気通信組合(全電通)は大所帯で、総評(労働組合総評議会)の中で最右翼。しかし今から考えれば、まだましだった。私が転勤したところは愛媛電気通信部というところで、私たち始めて職種転換した人間の訓練の場でもあり、何年かで訓練を終えそれぞれの電報電話局へ転勤して行くのだったが、問題はこの通信部というところは、管理段階のところで、いわば出世コースだから労働運動よりも、我が出世を夢見る人の集まりで、そういう職場だから当時現場ではどこにもあった青年会議=いわゆる青年部が、形だけで組織されてはいなかった。青年部は年齢制限もあり、その該当する人間を拾い出し、声をかけて組織して行った。出世コースの真っ只中で、変わった奴だと思われたり、そろそろ係長にとの誘惑には惑わされることはなかった。

 そういう中、働くものの世の中を作る思いで随分選挙も頑張ってきたのだが、日本社会党から社民党へ、さらにそこから新社会党と、社会党系はものの見事に後退し続けて行った。

 心に響いた職業病告発の歌「わが子に励まされて」

 青年会議は定年があり、愛媛通信部で最後まで青年会議議長を勤めた私は、それから音楽運動へと運動の場を移し活動を続けた。この頃には、いろんな職場にコーラスサークルがあって、その協議会としてコーラスサークル協議会(コサ協と言っていたが)が組織され、毎年各地持ち回りで音楽祭典が開催されていた。北海道で音楽祭典が開催された時、帰りは別だが、行きの旅費等は組合もちというので「北海道へ行きたい」そんな不純な動機で参加したのだ。そうして、そこで聞いた歌「わが子に励まされて」を聞いた途端、そんな邪まな思いは消え、音楽運動(労働組合の音楽)へとのめりこむのだった。この歌は当時電話交換手を襲った職業病、頸肩腕症候群を患った母が子供に励まされるという歌で、福島の高山博さんという労働者の作曲だ。勿論ジャズを嫌いになったわけではないが、それとは別の音楽観が芽生えた。それからは、好きな音楽と、やらなければならない音楽が存在したのだ。

 この頃は各組合の中にこういう協議会が存在し、そのセンターとして日音協(日本音楽協議会)があり、今でこそ小さな組織になったが、当時は芥川也寸志さんが初代理事長を務める由緒ある団体だった。全電通の音楽祭典は時代とともに音楽祭典から文化祭典へと名前も内容も変えながら、続いてきたが今はなくなった。日音協の祭典は「はたらくものの音楽祭」という名で規模は小さくなったものの、全国各地を回って開催されているのだ。  
 
日音協は4つの活動として「作り、歌い、広め、繋ぎあう」という運動を提唱しており、その中で作詞、作曲、歌い方、指揮、伴奏楽器などいろいろなことを学んだ。3大根暗といわれる楽器、アコーィオンを覚えたのもその頃だ。全国各地を飛び回り、多くの仲間と知り合ったのもこの頃だ。曲作りの他に、構成詩(ナレーションと台詞と歌で構成した作品)では当時の愛媛地評(県総評)の依頼で「真珠湾攻撃から50年の年の県民大行動」の為に、50年の歴史を基に、世間で流行った歌と自分達が作った歌を対比させた40分あまりの構成詩を書いて上演した。

撒いた種は無駄ではなかった
 日音協の音楽祭が、今年はこの7月2.3日と香川で開催された。長い間の不当配転やら、何年も前にNTT労組が文化運動から手を引いたことやらもあり、聞くだけの参加だった。その中で愛媛から参加した人に声を掛けられた。彼曰く「山下さんがやっていたうたごえ喫茶に行ったのが、この運動に入ったきっかけです。」と。
 そう随分昔、地区労青年部の役員の時、私が提唱して何年か続けて来た。私たちが今出来ない状態であっても、撒いた種が根付いていることに、無駄ではなかったと感じ、嬉しい思いだった。そうして多くの仲間との2年ぶりの再開。
 いい歌を幾つも作っている新潟の今村さん、災害で郡山から避難中にも関わらず参加の高山さん達の懐かしい顔にも出合った。高山さんはさっき触れた「我が子に励まされて」の作曲者だ

         組合からの弾圧            
                 

 
そして忘れもしない全電通岐阜祭典の時、私は愛媛音楽サークル協議会の会長と、四国地方の事務局長を、人がいなくて兼任していた。この祭典は本部情報宣伝部の主催になるが、その前段、四国の情報宣伝担当に会議の場で愛媛、四国の演奏作品の了解を得ていたが、愛媛の発表として私の創作で「民間会社になったから」。この歌は当時電電公社はダイヤル即時網の完成ということで105番=市外番号案内を廃止した。確かに東京03 と知ってる人には便利かも知れない。
 しかしお年寄りとか東京の市外局番を知らない人には不親切。こういう問題を延々8番まで歌ったところ、本部情報宣伝部からクレームがついたのだ。会社の施策についての歌なのに、会社からなら分かるが、組合からクレームがつくということは、この組合が御用組合に成り下がったという証左でしかない。腐り切った組合幹部は、参加者を呼びつけ、権力で持って脅してきたけれど、それに怯まず参加者の一人が決然と「山下さんのいってることは事実だ、何も間違っていない。」と地方本部の書記長の前で堂々と言いきってくれた。

 しかし、愛媛県支部では権力を盾に私が辞任しなければ予算を凍結するとの暴挙に出た。そこで組織を守る為に断腸の思いで身引いたのである。
 だから2002年の大合理化より前から、この組合では駄目だとの思いを抱いていた

 そうして大合理化と闘う為に新しく組合を作ったのだが、残念なことにこの組合に結集した人々は、一部を除いては、人間としての生き様を問われるような人たちばかりだった。


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本社への抗議行動

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