モダンジャズの洗礼
 高校時代はダンモなんか聞けるか、と言っていたのだが、たまたま新しく開店した喫茶店に入るとTAKE5が流れていた。ベルーベックが刻む変拍子のリズムにのって軽やかに歌うポール・デズモンドの甘い調べ。モダンジャズとの出会いは、20才のクリスマスだった。デズモンドにはすっかり魅了され、いたく感動を覚えたものだった。「これがダンモ、これなら聞ける」そう思った。デズモンドはその後上京し、一度だけ聞いたけれど、抜けるようでクリアーなトーン。それでいて決して冷たくない。いやむしろ温もりのある音の虜になってしまい、そういうことから聞き出したダンモ。初めて買ったレコードは貞夫&チャーリーのイベリアン・ワルツ(渡辺貞夫さんと当時白人パーカーと呼ばれていたチャーリー・マリアーノの競演盤)だった。シンメトリクなメロディが印象的だった。そうしてそれから暫く更なる大転換が待っていた。

 それから今はなき愛媛県は松山市にあった「ジャズメッセンジャー」という店で見たレコード・リストの中で目に留まったのは「至上の愛」だった。言うまでもなく、ジョン・ウィリアム・コルトレーンの集大成とも言うべきアルバム。2章・決意を聞いた途端、じっとしてはいられない、というか走り出したい衝動に駆られた。もうそれからトレーン(コルトレーン)を聞き漁った。トレーンの奇跡からいえば、アトランティクからインパルスへが常道だろうが、私の場合は逆だった。そんな私を見て「モダンを聞き出してすぐコルトレーンなんて言うのは気違いだ」と言ったバド・パウェルの好きな少し上の美人がいたが、そんなことは知ったことじゃない。もうとにかくトレーン、トレーンだった。だがしかし、大好きなトレーンは聞き始めた時にはもうすでにアセンション・天国へと旅立った後であった。

 そうして23歳の冬、松山への転勤。当時家は母の故郷、愛媛県大洲市にあったが、大洲に帰る気は更々なく何のためらいもなく、松山へと転勤希望を出したのだ。ただジャズが聞きたい為に。
 ところが転勤した職場はまるで蛸部屋という有様。当時電電公社は通信部に若い社員を集め、県内の電話工事を、出張と言う形で出向いてやっていた。良く言えば当時の主任、係長は職人気質で勤務時間も何もあったもんじゃない。勤務時間は8時半からにも関わらず「お前らは新米だから8時に来て掃除をしろ」そんなことが堂々とまかり通っていたのである。時間外勤務は3・6協定を結ばないと出来ない。春闘等、闘争時は3.6協定を締結してない訳だから時間は出来ない。が、しかし工事中に故障が出た時、時間外拒否だからと電話が使えないままで帰る訳にもならない。時間外を結んだとき実績でつけるといいながら、 蓋を開けると約束は守られていない。そんなことから一人では闘えないと組合活動に目を開いて行った。当時の通信部というところは、エリートコースで殆どの人間が通信局へ、また現場の係長へという出世の登竜門だった。そういうことから若い人間には青年会議という組織がありながらその実、実態は無く、名前だけの青年議長が分会大会で承認されるだけだった。それでは駄目だと名簿を作り、仲間の協力を得ながら、組織作り、支持協力関係にあった日本社会党の選挙闘争へと足を踏み入れて行ったのだ。

 松山に行けばジャズが聴ける。そんな思いからの転勤も青年組織作りとの間で随分悩んだ。しかし幾ら忙しくともジャズを忘れることはなかった。組合の関係でも当時は文化活動は盛んで、日本音楽協議会という組織とも関わって来た。ジャズだって虐げられた黒人から。今やろうとしてる音楽も労働者の音楽だと、無理やり結びつける思いもあった。
 
 この日本音楽協議会(略称=日音協)は今でこそ落ちぶれてはいるが、かつては初代理事長に芥川也寸志さんが就任した由緒ある団体で、働くものの音楽センター。「つくり、うたい、ひろめ、つなぎあう」四つの活動を展開している。その関わりで、高橋悠治さんとも知り合った。創作活動で職場の合理化を描くと、会社ではなく右傾化した労働組合からクレームが付くという事態もあった。労働組合はもうこの時既に労働者の為ではなく会社の第2労務部と化していたのだ。

MY HISTORY&POSITION(生い立ちと生き様)