運動とJAZZの狭間で

 モダンジャズの洗礼のところで少し述べたが青年会議を定年になった時に所属していた労働組合には、職場にいろんなサークルがあり、音楽サークルの協議会(音サ協と呼ばれていたが)が県、地方、全国に組織されていた。その愛媛の協議会の役員を頼まれ、引き受けて音楽運動というものに関わって来た。
 当時は総評が健在で各労働組合の音楽サークルのセンターとして日音協(日本音楽協議会)が組織され、初代理事長は故芥川也寸志さんだった。

 当時私の頭にあったのは、好きな音楽(JAZZ)とやらなければならない音楽、言い換えれば働く者の音楽=闘う音楽、との2つの音楽があった。その日音協は毎年全国各地持ち周りで「はたらくもの音楽祭」が開催され全国を飛び回ったが、人数は減っても音楽祭は続いている。まさに継続は力である。

 そして労働組合のもう一つの闘い、政治闘争では、日本社会党の選挙闘争を力一杯闘って来た。ところが村山富一という委員長が、当時社会党が大切にしていたものを、大衆討議なしで一夜にして壊してしまった。総理大臣なりたさに自衛隊を容認するという暴挙に出たのだ。その後、土井タカ子が議長に就任し、一旦廃案に追い込んだ小選挙区制を議長斡旋という形でいわばゴミ箱から拾い上げて通してしまった。

仲間が裏切れなくて・・・
 そして社会党と言う名もすて社民党へと変質して行った。この過程の中で、強い背信感を覚えずにはいられなかった。もう随分昔になるが、私が音楽運動に邁進している時、東京の大物プロモーターからホーム・グラウンドにしていたジャズ・メッセンジャーという店に突如電話があった。
 
 その電話は電話局辞めて東京に出て来い、という電話。あまりにも唐突な電話。電話ではとのことで、少し後にサダオさんの4大都市リサイタルがあり博多に来るというので、その時に話すということで電話を切ったのだが、後日、九州へ渡る私は辛い思いを胸に船に乗った。断る言葉を考えなければいけない状況が3つもあった。

 1つは私が11の時に母が他界。その時父は70近くであった。近所に住む姉が、「私が見ても良い」と言ってくれたが、父を置いて行くことは父を捨てることになる。そんなことは人としてやってはいけない。そういう思いが支配していた。2つ目は青年部の書記長に信任された1週間後に電話があったこと。後1週間早ければと思った。人によっては会社辞めたんだからと言えるかもしれない。でも私はそんな器用なことは出来ない。信任された以上1年間は全うしなければという思い。そうしてもう1つあったのが、その頃は腰痛の持病があった。
 
 そういう状況の中、心の中では断ると決めてはいたものの、完全に関係を絶ち切るのを恐れていた。そこで「今は行かないのでない。、行けないのだ。」と言った。「ボーヤの真似もしなくちゃならないだろうが、腰痛の持病もあり、お互い嫌な思いもしたくないので。でも鯉さん病気って直ることもあるよね。その時に、来い、行こうって条件があれば、また話をさせて欲しい」と断った。誘ってくれた人は鯉沼さん。当時サダオさんと日野さんを抱える飛ぶ鳥をも落とす勢いのアイミュージックの社長だ。
 「なんで呼んだのか」と聞くと、「YOUはガッツがある」の一言だった。この言葉は後年になって、アルファミュージックの平野さんにも同じようなことを言われたが自分自身の誇りでもある。

 そうして仲間を裏切らなかったということは、自分自身の誇りではあるが、逆に当時社会党の委員長だった村山等、当時の指導者達に平然と裏切られるとはよもや思いもしなかった。それだけにこの時は信じていた物が心の中で音を立てて崩れ去った。全ての原因は総評から連合へと労働運動の右傾化にあるのは明確だし、その後、生活はどんどん悪くなるばかりであり、職場では2002年の未曾有の大合理化へとなって現れた。

激動の2002年・・神戸へ