御祭神・由緒

御祭神

社長

藤井松平利長公 藤井松平信一公

松平家は徳川家康につながる名門の家柄で藤井村(愛知県安城市)に住んでいたことから藤井松平といいます。
御祭神 利長公は、藤井松平家の始祖であり二代目信一公は、家祖として武勇の誉高く群雄が割拠する戦国時代に家康と共に信長に仕え、「桶狭間の戦い」に参加その後も徳川援軍の将として「姉川の戦い」「長篠の戦い」「小牧長久手の戦い」など家康が関わった主要な合戦には常に加わり出陣し武功を挙げ勇将・猛将として天下に名をとどろかせ、松平家興隆の基礎を築かれた御方である。


由緒

元禄十年(一六九七)藤井松平家七代の信通公が備中庭瀬から上山城主に転封になり、信通公城内本丸に東照宮を建立し、併せて祖先の利長公・信一公の神霊を合祀し、徳川の恩義を追慕し、祖先の遺徳を仰ぎ藩士一同厚く崇敬した。明治四年(一八七一)廃藩の際、東照宮は旧藩主の上京と共に東京の松平氏邸に奉遷され、藩祖利長公・信一公の神霊は湯町に鎮座する日枝神社に奉遷された。明治十年(一八七七)旧本丸に壮麗な社殿を建立して松平家祖先の利長・信一両公の神霊を奉遷座し、報恩の誠を尽くし、永く上山の鎮守神と仰ぎ、産土の守護神として祈願すべきとの議起こり、同年六月神社の建設を願い出、同年十月許可を得て月岡神社と称した。
明治十一年九月神殿落成、同月十五日、日枝神社より奉遷座した。明治十五年五月村社に列せられ、明治四十年八月鶴脛町内に鎮座の九社を合祀。
明治四十三年五月神饌幣帛料供進神社に指定された。
大正二年稲荷神社を合祀