haunted heart
8.23: 2ヶ月あまりが経ち、やっと少しだけ落ち着いてきた。ミノルタのフィルム専用スキャナーが壊れていたので、エプソンのフラットタイプに専用の透過原稿ユ ニット とやらをつけて3月の京都の写真を取り込む。
前のミノルタの方が色はいいと思うがいっぺんに4枚(ペンなら8枚!)取り込めるのはやはり楽だ。まあフィルムスキャナーもエプソンのフラットスキャナー もどちらも親のだが。金がないのでありがたい。
金を貯めたいので、財政緊縮政策に突入すると思いきや、そうでもなく本を買っている。でも本は資本。問題はない。
こうやって京都の写真を見ているとまた行きたくなるのがとても危険だ。やはり一人は楽だったから、実家にいるとストレスを感じているということだろう。

竹田青嗣の「はじめての現象学」を読み終わる。途中までは良かったんだが、ハイデガーの話あたりからおかしくなっている気がする。人間の本質について「情 状性」と「了解」そして「語り」といい、それを竹田さんが独自に「エロス」と「存在可能」に置き換えて話が進んでいく。この辺りからちょっとおかしい(最 後の方でまた少しだけ 落ち着く)。
フッサールは方法を提示したのだからそれによって人間の本質を明らかにするのだ。ということではない気がする。人間は内面へのまなざしと外界へのまなざし を持っている。僕にはそれはつまり人間はその境目に在るということだと感じられる。外に対するのと同じ話で、内面を捉えようとするとそれはまた正しい認識 の発見とい う現象学が否定したものになってしまう気がする。
多分人間はその方法というものそのものに現れるのであって原理やら特定可能な本質として存在したりはしないのではないだろうか (そう考えると松岡正剛の編集につながっていく気がする)。

経験した自分を還元しその自分で新たに積み木遊び(世界の構築とか、理解のための考察 それは生活的な意味でも。)をす る。それは一人でやるとも限らない。そ れがまた経験として新たな自分を作る。そしたらまた一から世界を作り直さないといけない。その努力を怠ると世界は怠惰で新鮮味を失ったものに変わってい く。フッサールの言う明証というのは還元された人間の持つ唯一の武器であり(明証がなぜ可能なのかは人間には認識できないのかもしれない)、
フッサールはその先に行けなかったのではなく、そのことをもうわかっていたのでそれで世界を見つめ続けただけではないか。

ああ、京都に行きたい。
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