お見舞い

豊中市叔母宅(80才)へ庭木の手入れに出かけた母が「そろそろ迎えに来てくれ」といってきた。
丸亀の病院へ入院中のこれまた伯母が脳梗塞を起こして、聞けばちょっと大変なことになったようである。以前にも大阪からの帰りに見舞ったことがあった。
それは元気なときのこと。とにかく姉さんの顔を見たい一心の母と、帰り際丸亀へ直行した。

 ベッド上の伯母は、
数ヶ月前に高松でペースメーカーを入れた際に見舞ったときとは別人のようである。  

九十四才
の身体にはどれほどの厳しさなのか、脳梗塞の先輩である私にも計り知れない。
驚きを隠して「病院で発作が起きてよかったね、すぐに治療してもらえてよかったね、
少しずつだけどよくなるから心配しないで」と安心させるのが精一杯だった。

右半身の麻痺は軽いようだったが口の辺りに大きく影響していて、話せない、嚥下できない。

(呆けてしまった)と聞いていたが、そんなことない頭はしっかりしている。
元気なときから少し耳が遠くなってはいたが耳元ではっきりと話せばうなずいてくれるし
表情も変化する。とりあえずは危機的状態を脱したことを喜び、病室を出た。

八十八の母は「大丈夫だろうか、これからどうなるのか」、
思いは跳んで「元気なまま逝っとけば最高の人生やったのに、生き過ぎ」などと、
この年齢になったら私もこんなコメントを発するのかと苦笑混じりに聞きながら瀬戸大橋を渡り戻った。   
私に何か出来ることは無いだろうかと自問しながら、とりあえず一週間したらまた見舞うことを決めた。

一週間後ふたたび病室を訪ねた。

「おばさん、わたし恵子ちゃん、わかるよな」
うんうんとうなづいて、握った手を握り返してくれた。お昼の水分を点滴していたが、
チューブを抜く恐れありで両手はミトンをはかされ柵に拘束されていた。
訳ありで仕方が無いとはいえやはり拘束を目の当たりにするのは辛い。
付き添っていれば脱いでよいと聞いてすぐにはずした。
一方的ではあるが耳元で母のことなど話しながら、少しでも気分転換になっただろうかと思う。

そうこうしていたら主に看護している叔母(75才)が来た。

私はベッド上の伯母を見たときよりも驚いた。「おばさん、お久しぶりです」と挨拶したが、
内心は瞬間誰か分からないくらいの変わりよう疲れように、
(ちょっとちょっとおばさん大丈夫?)と言いたかったくらいだ。
発症から今日までのことを聞いて、「叔母さんたいへんやったなぁ」と労った。
(これからもたいへんじゃなぁ)と心配もした。

というのは、上の伯母(94才)には息子六十一歳、娘五十六歳がいるが二人とも東京に住み年一回の帰省がやっとで伯母は一人暮らし。元気な今までは自宅すぐの現病院での入院生活が十年以上にもなる。
手はさほどかからなかったものの、家屋の管理や財布を預かる責任が肩に懸かる末妹の叔母は、その年月の長さに疲れ果てていたところへこの降って湧いた状態で、疲労困憊に達しているのは明らかだった。
そばで看守る叔母(75才)は、元気病人の世話が一瞬にして全介助、流動食点滴の状態になったことをまだ理解し難く(困った困った)の連発でしかなかった。

私に出来ることはと自問していた答えが出た。とにかく一週間に一度お見舞いに来よう。そのくらいのことで何がどうなる、何がよくなるだが、刺激を与えることが一番だからこの病気は。
それと生きる気力を失う、そんな人生悲しすぎる。
一週間ぶりだけれどすこーし回復しているところも見受けられるから、伯母さんがゆるやかでも回復を実感できたら、これからの療養生活が絶望の中にはいないはずだ。せめて精神的やすらぎのある日々と出会って欲しい。最終的には施設入所となるだろうから、
なおさら少しでも楽な動きを持った体にしておかなければ。

人生の終盤に差し掛かって、このような現実を受け入れなければならない伯母を思うと、
本当に考え込んでしまう。けれど時は進み日は経つ。そばに寄り添い、時々浅く眠る伯母を見ていると、
明日からの六日間が過ごし良いことを願わずにいられない。

                                がんばってね、おばちゃん!!

その後、毎週水曜日にお見舞いしている。「一緒に行きたい」と言ったら母と連れ立ってです。
母は姉さんの顔を見たらすぐに添い寝してあれこれ話しています。
それは、私には出来ないことです。回診に来られた先生も婦長さんも、看護師さん達も、
そんな見舞い人はそうそういないし今の伯母にはその雰囲気が一番必要であることを認めてくれ、
身体を下敷きにさえしなければ一緒にいてあげてくださいと言ってくれます。
六人姉妹がワイワイ言いながら過ごした懐かしい昔を思いながら添い寝するって、
伯母さんも母もこのときはきっと幸せです。

・毎回花を活けなおしますが、その度に感嘆の声を発し拍手して喜んでくれます。

・言葉の始まり音が出るようになりました。

・聞き取りにくいが連続して発声できるようになりました。

・点滴チューブを触ることが無くなり拘束皆無になりました。

・流動食のカロリーが増えました。

・窓辺の日差しがまばゆいと自分で布団を被ります。

・意思表示が出来つつあります。
             七日目毎の再会だから回復具合が目に見えてとてもうれしい。

わたし、最初に言ったよね伯母さん。「心配しなくていい、少しずつ少しずつだけど、きっとよくなるから。私の脳梗塞がここまでに回復したこと高松の病院で話したら、伯母さんとても喜んでくれた。今度は伯母さんの番よ。だってDNA似ているもの。私のこと?、決して無理はしないから心配も遠慮もいらない。おいしい讃岐うどんを食べるのが楽しみで伯母さんのことダシにしてるとこある。半分レジャー気分、半分は自分のリハビリのためかもヨ。アッハー!、姪は伯母さんに比べればのんきです。

三ヵ月後、老健施設へ転院した。新しい住まいに初めて見舞った伯母は、
思ったより元気そうで安心した。
隣の方が「生きとって助けたよ!」と教えてくれ、急ぎテレビのスイッチを入れた
新潟のあの男の子救出。伯母そっちのけで喜び涙する姪は、やっぱりのんきです。
そんな姪を伯母が見ている。
そのことが、なぜかうれしいのです。

福寿草 幸せを招く


 いつも合田さんの行動力には驚かされます。ここには書かれていませんでしたが
 豊中のおばちゃんの家に行ったのは、車で行ったんではないかと思わせるような。
 この文章を読んでいて、高年齢なのに気持ちが元気。
 合田さんの頑張りのルーツはこんなところからきているのでしょう
 この年になるとよく感じることですが、身体に一番悪いのはストレス
 ストレスが病気の素
 ストレスを貯めないように、与えないように、心がけないと・・・・
 ここでも自分らしいことで出来ることをお見舞いして
 顔見るだけで話をするだけで、ちょっとだけ身体に触れるだけで人の気持ちは安らげ
   病気へのストレスを軽くし
 一日楽しく元気でいられるのかもしれません。