友達の突然の入院にびっくりして、労災病院に見舞いに行く。
不自由な手足を動かしながら明るく明るくユーモラスに話し
自由な左手での毎日の日記、私が右手で書くよりずーときれいにぎっしりと書かれていました
子供の頃から明るくバイタリティのある人だったが、こんな時もと思うと私の方が胸が詰まってきました
合田恵子さんの「平成十四年二月二十三日のあの日からの思いを書いたものを連載させてもらうことにし
ました。もちろん彼女は今自分が出来ることを精一杯頑張って元気に暮らしています
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みんな夢の中

日曜日昼2時頃 おかしいなと思ったが脳梗塞などと疑うことなどサラサラなく、しかし 
いつになくゴロリゴロリとしてし
まう横着さに我ながらあきれ返りつつただごとではない超微かな異変を確かにキャッチした。
(何かが起こりそう何かが、いったいそれは何)
   夜9時過 不安を払拭しきれないのが不安で、運転出来ない訳ではないのにタクシー代を奮発して
三井病院にへ
休日時間外診療を受け「脳梗塞かも知れない」ところまでこぎつけてはいたが、処理後帰宅。門の所で少しふフラついた。(あの時病院でたおれていたら・・・)
   深夜 三時間ほどウトウトしてトイレに行きたくなった。立ち上がろうとして、
右半身がどうにもならないことに気付く。左手足でにじりトイレまでたどり着いたが腰掛けられず、夫の助けを借りてどうにか用は足せた。
「救急車お願いいたします、でもサイレンは鳴らさないずに来てください、こんな時間だからご近所に心臓麻痺起こす人があるかも知れませんし」
なんてこんな身勝手な頼み方は切羽詰まった病人がいるとはとても思えなかったでしょうに、
消防署と合田家は良いところで折り合い、夜逃げ風の救急車乗り込みとなった。
モチロン担架にてです。深呼吸3回位したらサイレンが鳴り始めて。
   病院到着 (のうこうそくかなぁ)
先生がしきりに言っていたあのいい薬の点滴が始まった。
(急性期の治療、間に合ったんだ)
十分くらいたった頃どんな風に効くのかと恐る恐る手足を動かしてみた。(ぁりゃ動くじゃん)
両手足を動かしてみたら、くたばりかけのゴキブリのようではあるがとにかく普通に動かせた
「看護婦さん!看護婦さん!」すぐに「ハイ」と来てくれた。何かあったの?と心配そうに覗き込む
「この薬、本当によう効くなこれ見て!みて!」と左右の手足を自由に動かして見せた。
「わぁほんま。いやぁ、私も脳梗塞のいい薬ができとる云うの聞いとったけど、
「この目でそれをみたのは初めてよ」先生が様子を見に来てくれた。
「合田さん治療が間に合ってよかったね」私のしゃべり加減からして、
どうやら右片麻痺が主な症状らしく、
「きっと、リハビリでいいとこまで回復するよ」といわれました。
「先生 脳梗塞の治療って手術とかあるんですか?」詰まったのを治すって、
パイプ洗浄とおなじようなことですよね、てな調子で尋ねた。
この答えに私は中途半端な表情を見せたんだと思う。
「合田さん、小渕総理のこと覚えている?」と亡くなるまでの経緯を話してくれた。
「そうなんですか、そうだったんですか」
「医師が必要と判断した時、それから患者が希望した時は手術という方法もあるよ。どうしても手術をという希望があるなら手術の出来る病院へかえてあげる」
「・・・・」さっき動いたときのことを思い出していた。あの薬、私には、効く!
「若いからリハビリでいいところまでいけると思う」
「・・・・、せんせい、点滴とリハビリでお願いします」そばで夫が見守っていてくれた。
(これでええよなぁ)と同意を求めたとしたら、
きっと私はこれから夫に頼りきりの妻になるだろうな、
わたしは、いや夫だって、そんな関係を望まないはず。
私は自分自身のこれからのことを自分自身で決めた。決めたらホッとした。
回復に思い馳せながら処理室で眠りについた。さっさと決めてスヤスヤと寝入る妻に
きっと夫はあきれていたに違いない。ここに至ってもこの気の強さ、
変わらんし直さんわ、と。
月曜日 翌朝 人のよさそうな老婦人のいる二人部屋に代わった。夫はこれからお付き合いをするお隣さんと、もうかなり親しく話をしている。老婦人は千田さんという。
慌ただしく過ぎた昨日の疲れはすっかり取れてはいたが、あの動いた手足が再びまったく反応しなくなっていた。その瞬間、昨夜とは全く別の思いが私を襲った。
(もしも、もしも思うように治らなっかたとしたら、これからの私はどうなるん・・?迷惑かけてお荷物になって、そういうことをいっぱい背負って暮らしていくわけ・・?
53年間の後悔とこれからの不安が一気に襲ってきて、
とうとう私は今まで出したことの無い声色で嗚咽し始めた。
そばの夫はとにかくとにかく慰めてくれた、「心配することない、何も心配することない」と
「・・・おとうさん・・・ごめん・・・一分間だけ・・・泣かせて」私は勝手に宣言して
声を上げて泣いた。千田さんが心配そうに「私ついついおしゃべりで、
もしかしたら悲しませるようなこと言うてしもうたかな、ごめんなさいなぁ」
と声をかけてくれた。そのとき気づいた。私が今いつまでも引きずっていたら、
まわりを身動き取れなくしてしまう、こんなことしていられない。
声を上げて泣きながらも落ち着きつつある自分に、もう一分が来たよと知らせる。
その一分が短かったか長かったか機会があったら夫に聞いてみたい。
「おとうさん、ありがと、わたし、治すことだけ考える、治るまで絶対に涙は見せん!もう心配いらんから」(あんたらしゅう頑張ったらええがな)間髪をいれず、
きっとそう話してくれる夫のはずなのに、少々固まった感じでうなずくだけ。
(もうこんな時こそいつもの調子で元気付けてくれにゃぁ、何固まっとんよ、
(この雰囲気、変えないかんの・・?世話の焼ける人!)
それじゃぁ第一球いきます。直球ど真中!
「おとうさん、私、夜のほう多分ダメだと思うわ」強打者は真っ向勝負を避け変化球待ちか、
「あんた心配せんでも、右がダメなら左があるで」
ええィ打つ取ってやれ。「ん・・?何言うとん!そんなことにゃぁ使えん!」
やっと半日前までの間柄に戻りました。
「千田さん心配かけてごめんな、きっと治して見せるから」
「がんばりなさいなぁ」その時から私のリパビリ生活が始まった。 
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友達の闘病記